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現代神道研究集成 7 神道思想研究編

2011年02月13日 | 読書日記など
『現代神道研究集成 7 神道思想研究編』
   現代神道研究集成編集委員会・編/神社新報社1999年

水戸光圀の名前が出てきますよ。



■目 次■
 I 伊勢神道
前期伊勢神道思想の展開 久保田収  25
伊勢神道思想の発展と継承 高橋美由紀  51
中世神道史における北畠親房の位置 白山芳太郎  79
神宮学としての伊勢神道 鎌田純一  99
 II 仏家神道
両部神道の成立期 岡田荘司  125
神道伝承者としての明恵上人 平泉澄  155
慈遍の神道説 菅原信海  175
慈雲尊者の日本書紀研究 野口恒樹  207
 III 吉田神道
吉田神道の成立 久保田収  229
唯一神道名法要集の成立 出村勝明  259
 IV 垂加神道
垂加学に於ける葬祭の本義 近藤啓吾  319
“神は天地の心”・ “心は神明の舎” 谷省吾  345
 V 復古神道
釈契沖 上田賢治  381
二つの墓 松本滋  419
篤胤学の成立 三木正太郎  445
霊魂と神祇 森田康之助  471
京・大阪に於ける松平春岳の生祀、並びに生祠創建の計画について 伴五十嗣郎  495
明治国学に於ける宣長と篤胤 藤井貞文  555
 VI 水戸学
水戸学の再生 小林健三  575
水戸学派における神道論の形成 名越時正  597
 解説  635
 編集後記  653


「久保田収「吉田神道の成立」」 下「」引用。

「-略-兼倶の主要著作としては、『唯一神道名法要集』『神道大意』『神祇服紀令』が、また講義には『日本書紀』『中臣祓』などがあるが、中でも神道について体系的に記した『唯一神道名法要集」を兼倶の主張する神道思想である元本宗源神道などと自らの神道説を区別して、これらの高次性を主張したことがあげられ、神主仏従の立場が明白となっている。-略-」

神道五部書。下「」引用。

「神道五部書をはじめとする初期伊勢神道書の成立には、さまざまな要因がからんでいる。古代国家体制の破綻にともなう神宮経済の変質、即ち御厨への経済的依存度の増大と内宮・外宮の経済的分離、本地垂
迹思想を武器に庶民の救済を旗印とする日吉・熊野等の開かれた神々の登場、僧侶の間にける太神宮信仰の高まりと参宮者の増大等はなかでもとくに注目すべきものである。初期伊勢書にみられる語濁悪世の救済者としての神宮の強調や止由気大神・天御中主神同体論の唱道、神宮の国家神的性格の高唱などは、このうよな要因を考慮するとき、その必然性を理解することができる。いわば、急激な時代状況の変化への神宮川の対応の思想的側面、それが伊勢神道であった。」

「吉田神道と伊勢神道」 下「」引用。

「中世神道の最後を飾る吉田神道も、伊勢神道思想の延長線上に花開いたものであった。吉田神道が伊勢神道に学んだことは、吉田兼倶の著作の中に『倭姫命世記』や『神祇譜伝図記』等の伊勢神道書が引用されていることが明らかであるし、何よりも「元本宗源神道」という自ら名乗った呼称の「元本」が伊勢神道の「元々本々」に基づくものであった。しかし、伊勢神道から吉田神道へという発展の方向性は、慈遍や親房の場合とはかなり異なるものであった。吉田兼倶は『神道大意』において神について次のように説明している。

 夫れ神と者天地に先て而も天地を定め、陰陽に超て而も陰陽を成す、天地に在ては之を神と云ひ、万物に在ては之を霊と云ひ、人倫に在ては之を心と云ふ、心と者神なり、故に神は天地の根元也、万物の霊性也、人倫の運命也、

 神とは天地を生成させる超越者であると同時に、万物に内在し万物をかくあらしめている根本的存在である。この吉田神道の神観念は、明らかに伊勢神道の神観念を継承したものである。
 かかる内在的神観念をふまえて、吉田神道においては神道を「心を守る道」ととらえる。「心は神明の舎、形は天地と同根」、つまり人間は小天地、小宇宙であり、この小宇宙を支える神が宿る場が心である。-略-」

神道の根本義。下「」引用。

「人間にとっては、心を清らかに平静を保つことによって天地の考え方の柱をなしているのである。」

指弾された伊勢神道。下「」引用。

「近世に入り、吉見幸和等の考証学的神道家や本居宣長等の国学者によつて、その偽書性・作為性・不純性が厳しく指弾された伊勢神道ではあったが、それがうち建てた前述の如き神道理解の方向性は、中世のみならず、近世・近代の神道思想をも規定するものとして生き続けた。神道史上における伊勢神道の意義はここにある。」

「中世神道史における北畠親房の位置」白山芳太郎・著。下「」引用。

「中世における神道思想には、前期に伊勢の神宮官によって展開される伊勢神道説と、真言系の両部神道説、天台系の山王神道説の三つの説があり、後記に卜部氏による吉田神道説が生まれるという展開があった。
 本稿は、その中の伊勢神道説が、中世神道史上においていかなる位置を持ち、さらにどのような影響を思想界に及ぼしたかを、北畠親房への影響を通じて考察するものである。」

伊勢神道に基づく吉田神道。

吉田兼好の兄弟慈遍。下「」引用。

「ところで、この兼倶の所説は、実は慈遍の影響である。即ち、慈遍の『旧事玄義』に説くところで、兼倶からすれば、吉田の先輩筋に当たる慈遍から受け継いだ説である。-略-」

「吉田神道の成立」久保田収・著。下「」引用。

「吉田家の系譜は、兼富より兼右をへて兼倶に至るのであるが、兼倶は吉田家において最も注目すべき人物である。兼倶は、永享七年、兼名を父として生れた。はじめ兼敏といひ、不安定な室町幕府治下に育つたが、寛正元年十月、二十六歳にして父を喪ひ、その跡を継いだ。応仁元年、三十三歳のとき、正四位上侍従に任ぜられ昇殿を許されると同時に、兼敏を改めて兼倶と称した。この年、応仁の乱が起り、彼の家は焼かれ、翌二年、吉田神社も火災にかかり、その神霊を自家に奉安してその祭りを行つたのであるが、かうした混乱動揺の中にあつて、彼はしきり活動したことはいうふまでもなく、度会延佳のごとき、神敵吉田兼倶謀計記において、口をきはめてこれを論破してゐるほどであるが、その論難の首肯せられる点の在するとともに、他面、神道の立場からその功業と思はれる点のあることも見逃してはならない。-略-」

水戸藩主……。下「」引用。

「しかし頼房の神道に対する非常な関心が羅山の神道よりも吉田家のそれに注がれたことはより注目に値する。-略-」

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