『謀略戦-ドキュメント陸軍登戸研究所-』
斎藤充功・著/時事通信社1987年
【映画】ヒトラーの贋札
日本軍もナチス・ドイツのように、贋金さえも作っていたようです。
--戦争は「ならず者」の論理とは、なるほどと思える……。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/74/2088e777bb7d4ab13874717c36b608c8.jpg)
技術将校や技師が集まったという……。下「」引用。
「昭和六十年(一九八五)三月二十三日、都内のホテルに六人の男が二年ぶりに開かれた会合に出席するため参集した。グループの名称は「登研二科会」。参加者は連絡のつく生存会員十九人のうち山田桜、伴繁雄、北沢隆次、八反田一三、小堀文雄、小島達治で、最高齢は山田の八十五歳。もっとも若い小島でも六十四歳になっていた。
彼らは元技術将校と技師で、かつて陸軍の秘密研究機関、第九技術研究所(通称登戸研究所)第二科に奉職していた人たちで、会の名も登戸研究第二科にちなんでつけたという。」
風船爆弾などを発明……。下「」引用。
「また“秘密インキ”での通信法で考案した伴は、登戸研究所について、
「現在、明治大学の生田校舎になっている場所に登戸研究所がありましてね、敷地は十一万坪(約三十六万三千六百メートル)もあって、民間人立入禁止になっていたんです。あそこで研究・開発した決戦兵器には“風船爆弾”があり、レーザーを応用した、“殺人光線”も試作していたんです。ほかにも諜報器材としてライター型のカメラや、謀略資材では“万年筆型の毒物注射器”“時限爆弾偽装放火用雨傘”“缶詰爆弾”等、各種の秘密戦器材を作っていたんです」
それだけでなく、贋札も……。下「」引用。
「研究所でいちばん警戒厳重だった科は“三科”で、そこへは関係者以外立ち入ることを固く禁じられていたんです。三科長は山本主計大佐で、偽造紙幣を作る仕事をやっており、印刷工場、製紙工場まで持っていましたから、相当大がかりな規模で偽造紙幣を作っていたんですな……」」
地元登戸で戦前から割烹旅館を営み、所員を贔屓にしていた紀伊國屋の現当主、小川カネコ(五十九歳)は、十六歳当時の記憶をたどって、エピソードを語ったという。下「」引用。
「いちばん印象に残っていることは、宴会のとき、お酒がなくなるとお客さんの何人かが調理場に来て、エチルアルコールに添加物を入れてお酒を造るんです。皆さん技術屋さんの方が多かったので、器用でした。それと、将校といっても、軍人さんという感じがしなくて、大学の先生といった感じの人ばかりなので、実権場では何をやっているのか、少しばかり興味はありました」
ゴム風船……。下「」引用。
「登戸研究所員と関東軍情報部の技術指導員を兼任していた北沢隆次(七十五歳)は、登戸では二科と四科に在籍し、主に防諜、宣伝、盗聴システムの実戦効果を担当していた。
「関東軍参謀部第二課(情報)に二年ほど出向した後、昭和十五年にハルビン特務機関に派遣されました。特務機関での仕事は、ソ連国境で、ゴム風船にスターリンのおしりをまくって卵を産んでいる漫画を描いた宣伝ビラを積み込んで、ソ連領に向けて飛ばしていたんです。
なぜ、そんなマンガを描いたかというと、スターリンはグルジア人なので、スラブ人がそのマンガを見ると蔑視した図になるんです。目的は反戦ムードをあおることでした」
風船爆弾のプロシェクトチームのことが書かれてあった。
風船爆弾に細菌は搭載されたか? 下「」引用。
「そして、G-2の最大関心事は風船爆弾に細菌を搭載したかどうかの有無だったというが、その分野で、外部協力者の一人に陸軍軍医学校の内藤軍医中佐がいた。
草場の話によれば、彼は「肺炎菌の研究をやっていた軍医」ということだが、研究成果が細菌弾の完成に結びついたものなのか、あるいは、軍医として研究に協力しただけであったのか、真相を聞くべく、郷里の静岡に本人を訪ねたとき(昭和六十年八月)には、残念ながら一年前に亡くなっていた。-略-」
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帝銀事件でつかわれた毒物(アセトン・シアン・ヒドリン)は、登戸研究所で作られたという。
人体実験もしたようだ……。
宇治爆弾というものも研究開発……。下「」引用。
「宇治型爆弾といえば、細菌戦部隊として有名な関東軍第七三一部隊(石井軍医中将」が、開発していた細菌爆弾で、石井はGHQ、G-2に尋問されたとき、宇治型爆弾の開発状況を、「専門家の手で五○型宇治式爆弾の欠陥を正し、開発を継続して進めれば、最も効果的な細菌兵器とすることが、できるであろう」(-略-)と証言した。ここで、石井の言う専門家とは、登戸研究所第二科員を指しているのではないか。それと、開発の継続とは、登戸のアイデアで実用化が進められていた風船爆弾に、搭載する各種爆弾の中に、宇治型も懸架することができるか、材料面での研究を登戸に委託していたのであろう。」
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もくじ
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斎藤充功・著/時事通信社1987年
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日本軍もナチス・ドイツのように、贋金さえも作っていたようです。
--戦争は「ならず者」の論理とは、なるほどと思える……。
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技術将校や技師が集まったという……。下「」引用。
「昭和六十年(一九八五)三月二十三日、都内のホテルに六人の男が二年ぶりに開かれた会合に出席するため参集した。グループの名称は「登研二科会」。参加者は連絡のつく生存会員十九人のうち山田桜、伴繁雄、北沢隆次、八反田一三、小堀文雄、小島達治で、最高齢は山田の八十五歳。もっとも若い小島でも六十四歳になっていた。
彼らは元技術将校と技師で、かつて陸軍の秘密研究機関、第九技術研究所(通称登戸研究所)第二科に奉職していた人たちで、会の名も登戸研究第二科にちなんでつけたという。」
風船爆弾などを発明……。下「」引用。
「また“秘密インキ”での通信法で考案した伴は、登戸研究所について、
「現在、明治大学の生田校舎になっている場所に登戸研究所がありましてね、敷地は十一万坪(約三十六万三千六百メートル)もあって、民間人立入禁止になっていたんです。あそこで研究・開発した決戦兵器には“風船爆弾”があり、レーザーを応用した、“殺人光線”も試作していたんです。ほかにも諜報器材としてライター型のカメラや、謀略資材では“万年筆型の毒物注射器”“時限爆弾偽装放火用雨傘”“缶詰爆弾”等、各種の秘密戦器材を作っていたんです」
それだけでなく、贋札も……。下「」引用。
「研究所でいちばん警戒厳重だった科は“三科”で、そこへは関係者以外立ち入ることを固く禁じられていたんです。三科長は山本主計大佐で、偽造紙幣を作る仕事をやっており、印刷工場、製紙工場まで持っていましたから、相当大がかりな規模で偽造紙幣を作っていたんですな……」」
地元登戸で戦前から割烹旅館を営み、所員を贔屓にしていた紀伊國屋の現当主、小川カネコ(五十九歳)は、十六歳当時の記憶をたどって、エピソードを語ったという。下「」引用。
「いちばん印象に残っていることは、宴会のとき、お酒がなくなるとお客さんの何人かが調理場に来て、エチルアルコールに添加物を入れてお酒を造るんです。皆さん技術屋さんの方が多かったので、器用でした。それと、将校といっても、軍人さんという感じがしなくて、大学の先生といった感じの人ばかりなので、実権場では何をやっているのか、少しばかり興味はありました」
ゴム風船……。下「」引用。
「登戸研究所員と関東軍情報部の技術指導員を兼任していた北沢隆次(七十五歳)は、登戸では二科と四科に在籍し、主に防諜、宣伝、盗聴システムの実戦効果を担当していた。
「関東軍参謀部第二課(情報)に二年ほど出向した後、昭和十五年にハルビン特務機関に派遣されました。特務機関での仕事は、ソ連国境で、ゴム風船にスターリンのおしりをまくって卵を産んでいる漫画を描いた宣伝ビラを積み込んで、ソ連領に向けて飛ばしていたんです。
なぜ、そんなマンガを描いたかというと、スターリンはグルジア人なので、スラブ人がそのマンガを見ると蔑視した図になるんです。目的は反戦ムードをあおることでした」
風船爆弾のプロシェクトチームのことが書かれてあった。
風船爆弾に細菌は搭載されたか? 下「」引用。
「そして、G-2の最大関心事は風船爆弾に細菌を搭載したかどうかの有無だったというが、その分野で、外部協力者の一人に陸軍軍医学校の内藤軍医中佐がいた。
草場の話によれば、彼は「肺炎菌の研究をやっていた軍医」ということだが、研究成果が細菌弾の完成に結びついたものなのか、あるいは、軍医として研究に協力しただけであったのか、真相を聞くべく、郷里の静岡に本人を訪ねたとき(昭和六十年八月)には、残念ながら一年前に亡くなっていた。-略-」
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帝銀事件でつかわれた毒物(アセトン・シアン・ヒドリン)は、登戸研究所で作られたという。
人体実験もしたようだ……。
宇治爆弾というものも研究開発……。下「」引用。
「宇治型爆弾といえば、細菌戦部隊として有名な関東軍第七三一部隊(石井軍医中将」が、開発していた細菌爆弾で、石井はGHQ、G-2に尋問されたとき、宇治型爆弾の開発状況を、「専門家の手で五○型宇治式爆弾の欠陥を正し、開発を継続して進めれば、最も効果的な細菌兵器とすることが、できるであろう」(-略-)と証言した。ここで、石井の言う専門家とは、登戸研究所第二科員を指しているのではないか。それと、開発の継続とは、登戸のアイデアで実用化が進められていた風船爆弾に、搭載する各種爆弾の中に、宇治型も懸架することができるか、材料面での研究を登戸に委託していたのであろう。」
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