磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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ふたたび被爆者をつくるな-日本被団協 50年史 1956-2006-本巻

2009年06月19日 | 読書日記など
『ふたたび被爆者をつくるな-日本被団協 50年史 1956-2006-本巻』
   日本原水爆被害者団体協議会日本被団協史編集委員会・編著/あけび書房2009年

図書館の説明文。下「」引用。

「1956年から2006年までの日本原水爆被害者団体協議会50年の歴史と、都道府県被団協史を収録。被爆者が半世紀を超えて訴え、求めつづけてきた、たたかいの記録。写真でたどる日本被団協の50年なども収録。」



「特幹」……。下「」引用。

「若き「特幹」たち 軍の緒部隊のなかにあって、救護・復旧で最初の投入部隊となったのは、宇品にあった司令部が壊滅を免れた陸軍の船舶部隊だった。この救護部隊のなかには、多くが十代の「特幹」と呼ばれる少年兵たちがいた。
 陸軍特別幹部候補生、通称「特幹」は、四三年一二月の勅令でつくられた下士官養成制度、内実は特攻少年兵をつくる制度である。-略-
 広島市は六九年、入市して救護活動をした陸軍船舶司令部所属兵士の生存者四○○人を対象に、郵送によるアンケート調査をした。回答二三三のうち二○一人の「特幹」は、高い率で急性原爆症を発症していた。二日目から下痢症状が続出し、幸の浦帰隊後ほとんど全員が白血病三○○○以下となり、発熱、点状出血、脱毛もあった。
「お母さん」と呼びながら 原爆で死亡した「特幹」も多い。皆実町の船舶通信隊に所属した「特幹」の少年兵たちは訓練中に被曝し、多くが死んだ。同通信隊補充隊の一員だった館村民は、仁保国民学校(現在の仁保小学校)につくられた野戦病院に収容されたとき、若いというより幼い「特幹」たちが「お母さん」と叫びながらつぎつぎに死んでいくのを目撃した。-略-」

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ABCCに正式の最初の抗議。下「」引用。

「ABCCにたいし正式に最初に抗議したのは吉川清だった。五二年一○月六日(占領終了後)のことである。
『改造』増刊号(五二年一一月一五日発行)掲載の「ABCCの内幕」によると、吉川が「非武装の一般人や婦女子(が)……被害をうけたのです。アメリカが何らかの方法で被爆者の体をなおしてほしい」というと、所長グラント・テラーは、同情をもっているが、「戦争の被害をうけたのは広島の市民だけではないから、広島にだけ特に救援したなければならない理由は、ありません」と答えた。」

また、吉川の妻が検査で体調がひどくなり抗議。ABCCに入院となるが、治療は一切なし、検査のみ。食事は乾燥もの。強引に退院したという。

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称賛すべき「於保源作の研究」 下「」引用。

「特記すべきは開業医、於保源作の努力である。戦後早い時期から被爆者の自宅訪問と研究をかさね、被爆者にがんが多いことを先駆的に指摘した。占領下では発表できなかったためか、土曜会という医師の研究団体の席で五一年に報告発表したが、十分には広まらなかった。於保はさらに調査研究をつづけ、五五年七月、原爆被害者対策にかんする調査研究連絡協議会第三回広島長崎部会などで「原爆被爆者における悪性新生物死亡の統計的観察」を発表し、反響を呼んだ。それまでもっぱら火傷やケロイドに目が向いていた被爆者医療で、がん発生が重視されるようになるについて、於保の果たした役割は大きかった。」

「2 テントで徹夜の五日間-一一月大行動」
1973年、厚生省前で……。
この活動を、大江健三郎や松本清張も支援したようだ……。下「」引用。

「作家・松本清張は、メッセージを寄せた。
「私は文筆活動をするときの基本的な考え方の一つとして、政治のからくりを見破ることを主眼としています。三原山に墜落した日航機事件を取材して『風の息』という小説を書きましたが、この事件にもアメリカの方から吹き寄せる悪魔のようないやなモノを感じていますが、原爆に関しても、日本人を皆殺しにし、その上、全世界の人々を原爆の力で屈服させようとしていたことは明白な事実であります。ところが皆さんはアメリカ政府からも、日本政府からも、ひとひとも謝罪や根本的対策も受けておられません。このような意識的に作られている矛盾が許されてよいのでしょうか。心から皆さんの幸せを国民とともに願わずにはおられません」。」

猫八さんも被爆者手帳申請……。









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