磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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広島に聞く広島を聞く-日英対照-

2011年11月16日 | 読書日記など
『広島に聞く広島を聞く-日英対照-』
   浅井基文・編著/かもがわ出版2011年

欧文タイトル:REFLECTIONS FROM HIROSHIMA:Bilingual Edition
左ページに日本語、右ページに英語。



この本は……。下「」引用。

「この本は、広島市立大学広島平和研究所の定期刊行物(年3回発行)である『HIROSHIMA RESERCH NEWS』(以下ニューズレターと称す)に2006年3月号から2011年3月号までの計16回、広島各界の方々にインタビューをさせていただき、その主旨をシリーズ「広島に聞く・広島を聞く」として掲載したものに若干の加筆・修正が加えてまとめたものである。私がインタビューしたい人はまだたくさんおらわれるが、私の広島平和研究所での任期は2011年3月までなので、この16回をもって一区切りすることとなった。-略-」

もくじ

「〈きのこ会の「物取り主義」と理念問題〉」秋信利彦。下「」引用。

「きのこ会に深くかかわった作家の故・山代巴さんは、自己改革ということを盛んに言っていた。一人ひとりが変わらないとだめた、と。きのこ会が物取り主義になっていたことに対して、山代さんは、助けてあげるというならどこからでも助けてもらえばいいという立場をとった。山代さんは、物取り主義だけではいずれどこかで行き詰まるよ、と言いたい気持ちがのどまで出かかっていたのだけれども、遠慮して言わなかった。また山代さんは、きのこ会も障害者の人たちとの連携が必要という考えで、障害者の施設にきのこ会の母親を連れて行ったりしたこともあるが、結局さらに足を踏み込むことができなかった。
 やはりきのこ会の活動に深くかかわっていた故・大牟田稔氏(元中国新聞記者)が、きのこ会の内部の広島意識が予想外に固くて、水俣病の患者との提携交流を考えたができなかったと書いている。原爆小頭症患者をはじめとする被爆者がほかの病気の人たちとの交流連携ができるようになると、今の日本は変わると思う。例えば被爆者の気持ちの中に、自分たちは一般と違う、自分たちはちゃんと対応されねばならない、という部分がある。だからわれわれが「一般戦災者と手を結んで」と言っても、なかなかそこへもっていくのは難しい。-略-」

もくじ

天皇会見で「原爆」のことを質問したのが、秋信利彦。

特典のあった医科大学、北西充。下「」引用。

「私は幼い頃から反抗心が旺盛で、理不尽で規律だらけの軍隊生活を逃れるために、入営延期の特典が最も長かった予科のある医科大学(当時、慈恵医大、日本医大、京都府立医大の3校しかなかった)の中の京都府立医大に、1943年に入学した。しかし、敗戦後の1948年に親元に帰り九州大学法学部に入学し直した。」

ABCC、佐藤光雄。下「」引用。

「その後、帰広した姉と一時、一緒に生活したが、1955年に突然原爆症を発症し、死亡した。そのことを聞きつけたABCCに連れて行かれ、辛い目に遭うことを見聞きしていた私はABCCには強い反感があり、断固拒否した。-略-」

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肥田舜太郎で納得できた、渡辺力人。下「」引用。

「例えば観音原爆被爆者の会の会員のうち、この十余年間に約40人が死亡しているが、その死因は主に癌だ。被爆者の病気は医学事典で簡単な応えが見つかるようなものではなかった。約7年前に肥田舜太郎医師の話を聞き、内部被曝という説明を受けて、被爆者の病気の原因に関して初めて納得がいった。」

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「医師として詩人として」丸屋博
「イラクの劣化ウラン被害者」 下「」引用。

「僕がイラクの劣化ウラン被害者の存在に向かい合うことになったきっかけは、2002年12月にバクダッド大学(小児科学)とバスラ大学(腫瘍学)の2人の教授がNGOの招きで広島を訪れた際に面会した
ことだ。イラクで癌が多発していることに関して広島の体験から学びたいということであったので、僕は放射線と重金属による重複汚染が原因ではないかと述べたのだが、彼らから、劣化ウランに起因する癌はα線によるものだと説明されて驚愕した。-略-」

『鉄腕アトム』=『原子力肯定神話』、那須正幹。下「」引用。

「いずれにせよ、当時においては、「ピカ」は強力なエネルギーという受け止め方が強く、原子力へのあこがれみたいなものが社会的に強かった。漫画家・手塚治虫の代表作『鉄腕アトム』だってそういう産物だ。平和大橋西詰南側にある広島市立高等女学校の原爆慰霊碑の中央の女子が持つ箱にも、アインシュタインのエネルギーと質量の等価性の関係式「E=mc2」が記されている。「ヒバクジャがいけにえになって原子力時代の礎になった」という原子力肯定神話が当時の社会を支配していた。」

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それは、佐々木禎子が小学校に入学(1949年)したころだという。

那須は佐々木禎子と接点はなかったが、高校(基町高校)で、佐々木禎子の小学校時代の級友が何人かいたという。

もくじ

用語「原爆症」「被爆者」 下「」引用。

「-略-都築正男博士が1954年、第五福竜丸事件が起こった年の学会誌で「慢性原子爆弾症」という呼び方が提唱され、それが「原爆症」という言い方になっていたようだ。「被爆者」の方については、やはり第五福竜丸事件の際、「久保山愛吉氏が被爆している」と読売新聞が書いたのが最初だったようだ。」










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