『真赤な原子雲 祖父母が孫に語る戦争と原爆の話』
こばと幼稚園平和教育委員会・編/汐文社1995年
プロテスタントの幼稚園の関係者が書かれた本といっていいかと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/d4/eb08101910b524ea673badee9cb498cf.jpg)
編者である「こばと幼稚園平和教育委員会」について。下「」引用。
「こばと幼稚園ではここ20年、PTAより平和教育委員を毎年10名選出し、幼稚園の平和教育の行事を推進してきた。本書は10数年間にわたる、平和教育委員の活動の成果のひとつ。」
幼稚園ですか……。
ボクの場合は吉田幼稚園という吉田神道の幼稚園でした。
吉田の節分祭で、PTAは「おぜんざい」の売店をしていました。
自分の母が売り子をしているのは、何か妙で笑えましたっけ……。
広島のこばと幼稚園は、平和活動をされているわけですね。
--佐々木という女学院の同級生のことを書かれていました。下「」引用。
「戦争がはじまるの、いやねえ。私戦争嫌いよ。」
佐々木さんの父は九州大学の反戦思想の教授だったという。
クラスの皆に一時間、戦争反対の意見を言われたそうだ。
その後、その佐々木さんは東京へ。
--子供は平和か何かわからずも……。下「」引用。
「貴光には戦争も原子爆弾も分りません。平和公園で“まんまんさん”と手を合わすだけです。」
「まんまんちゃん、あん」は、これはギャグではなく、子供のころに教えられるお祈りですね。
--吉田神社で、ボクはこう祈りました。
ええ、おっさんが、子供のお祈りをするから、お笑いなんでしょうね……。
「原爆孤児となって」という文は女性がかかれているようですが。下「」引用。
「さあ、今夜はお父さんが小さかったころ、そう四歳のころの、あの八月六日のお話しをしてあげよう。」
と書かれてあります。たぶん、お母さんがお父さんの話しているのを代筆されたのでしょう……?
すごい人がいたものです。元陸軍看護婦。下「」引用。
「私はかつて、大正十二年(一九二二年)関東大震災の時、陸軍看護婦として東京第一陸軍病院に勤務しておりました経験と、職業意識も働いて、万一に備えて二斗入りのかめに医療品を入れ、土中に埋めておりましたので、それをとりだして鞄につめて府中小学校の救護所に馳せつけました。」
耳をぬい、きれについたという患者。
また、どうして縫ってくれないのかと訴える女子商校の先生。
--化膿する傷は縫えないと説明……。
沼田鈴子さんも文章を寄せられていました。
被爆されたオモニのことを尹甲秀(広島キリスト者平和の会関係者)さんが書かれておられました。
index
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/c1/5fc3b98352a16aaa3a2ad479e3859c6f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/c5/f112fd5f289b687b78e6085f428b111e.gif)
こばと幼稚園平和教育委員会・編/汐文社1995年
プロテスタントの幼稚園の関係者が書かれた本といっていいかと思います。
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編者である「こばと幼稚園平和教育委員会」について。下「」引用。
「こばと幼稚園ではここ20年、PTAより平和教育委員を毎年10名選出し、幼稚園の平和教育の行事を推進してきた。本書は10数年間にわたる、平和教育委員の活動の成果のひとつ。」
幼稚園ですか……。
ボクの場合は吉田幼稚園という吉田神道の幼稚園でした。
吉田の節分祭で、PTAは「おぜんざい」の売店をしていました。
自分の母が売り子をしているのは、何か妙で笑えましたっけ……。
広島のこばと幼稚園は、平和活動をされているわけですね。
--佐々木という女学院の同級生のことを書かれていました。下「」引用。
「戦争がはじまるの、いやねえ。私戦争嫌いよ。」
佐々木さんの父は九州大学の反戦思想の教授だったという。
クラスの皆に一時間、戦争反対の意見を言われたそうだ。
その後、その佐々木さんは東京へ。
--子供は平和か何かわからずも……。下「」引用。
「貴光には戦争も原子爆弾も分りません。平和公園で“まんまんさん”と手を合わすだけです。」
「まんまんちゃん、あん」は、これはギャグではなく、子供のころに教えられるお祈りですね。
--吉田神社で、ボクはこう祈りました。
ええ、おっさんが、子供のお祈りをするから、お笑いなんでしょうね……。
「原爆孤児となって」という文は女性がかかれているようですが。下「」引用。
「さあ、今夜はお父さんが小さかったころ、そう四歳のころの、あの八月六日のお話しをしてあげよう。」
と書かれてあります。たぶん、お母さんがお父さんの話しているのを代筆されたのでしょう……?
すごい人がいたものです。元陸軍看護婦。下「」引用。
「私はかつて、大正十二年(一九二二年)関東大震災の時、陸軍看護婦として東京第一陸軍病院に勤務しておりました経験と、職業意識も働いて、万一に備えて二斗入りのかめに医療品を入れ、土中に埋めておりましたので、それをとりだして鞄につめて府中小学校の救護所に馳せつけました。」
耳をぬい、きれについたという患者。
また、どうして縫ってくれないのかと訴える女子商校の先生。
--化膿する傷は縫えないと説明……。
沼田鈴子さんも文章を寄せられていました。
被爆されたオモニのことを尹甲秀(広島キリスト者平和の会関係者)さんが書かれておられました。
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