磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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中国と私、そしてヒロシマ

2007年12月28日 | 読書日記など
『中国と私、そしてヒロシマ』
    今堀誠二・著/渓水社1988年

著者は広島大学、広島女子大で勤務されたようです。このころ、闘病中であられたようで、教え子たちが出版されたようです。



広島大では、空手部の部長だったという。下「」引用。

「私は広島大学に在職中、三十年間ほど空手道部の部長をつとめた。全日本選手権大会で優勝を果たしたいと思い、選手にハッパをかけたが、遂に戦士にまで育てることが出来なかった。」

シュモー博士のことが書かれてありました。下「」引用。

「シュモー博士はクエーカー教徒であるが、クエーカーにはノーベル平和賞が授与され、博士には広島市特別名誉市民の称号が贈られた。しかし博士の願いであった原水爆禁止は、今も実現していないのである。」

シュモー博士は、戦争中もアメリカの政府と国民の強力な圧力に抗して日系米人を守ったという。

--そのために、州立大学教授の地位を捨てている……。
日本にはシュモー博士のような人物はいなかったと著者。

--人権思想の上で日本の名誉を守ろうとした人はいなかったという。
そのことを知っていたシュモー博士。下「」引用。

「日本の人権無視に対する、世論の非難は承知していたが、だからこそアメリカ人は、日本人の人権を守らねばならないという発想に立っていた。」

吉田松陰もこのような人物だったという人もいる……。
--日本の教育者には少なくなったタイプですね。


原爆孤児について書かれてありました。下「」引用。

「原爆孤児についてでありますが、広島・長崎の小学生には、戦争末期に学童疎開の措置が講じられ、広島だけで二万三、五○○人が山間部に移動して、被爆を免れましたが、彼らの両親が死亡したり、一家が全滅したため、四、○○○~五、○○○人は孤児となりました。孤児収容施設も設けられましたが、彼らは大人になる過程であらゆる辛酸をなめ、成人となっても孤児なるが故に人間の壁、社会の壁、自分の壁に阻まれて苦難の人生航路をたどりました。中には犯罪に巻き込まれた者も少なくありませんでした。長崎でも事情はほぼ同じであり、多くの孤児の悲劇が伝えられております。」

森滝は倫理学者であったという。下「」引用。

「実は私も広島高等師範学校で森滝先生の講義を受けた一人である。イギリスの功利主義の立場から、「最大多数の最大幸福」を説かれた名講義であった。」

小林文男(広島大学教授)さんが文章を書かれています。下「」引用。

「結局、いままで一般の目に触れていないもので著者の学問とヒロシマへの想いのこもった文章を柱として、「中国と私、そしてヒロシマ」というテーマでまとめようということになった。このテーマは、著者が一九八四年十月、古希を迎えられたのを記念して私ども弟子たちが著者にお願いした講演の題目であった。先生もこれを良しとされた。」









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