磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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閃光の下から 昭和二十年長崎城山国民学校の記録

2008年04月20日 | 読書日記など
『閃光の下から 昭和二十年長崎城山国民学校の記録』
   朝日ソノラマ編集部・編/朝日ソノラマ1970年

この本に関することもテレビで放映されたという。本は図書館で借りることできるが、テレビ会社もこのような歴史的資料を何とか見られるようにしてもらいたいものです。



永井隆博士と同郷の二代目校長は「愛の教育」で評判が高かったという。下「」引用。

「城山尋常小学校で、大正十四年四月十二日の創立、所在は城山町一丁目八十番地であった。校舎は、小学校では長崎県で最初の鉄筋コンクリート三階建で、当時としては、かなりモダンなぜいたくものであった。
 初代校長は高梨秀善、島根県から招かれて来た高等師範出身の教育理論家で、科目によって生徒が異動するダルトン・プランの提唱者であった。二代目は、「愛の教育」で評判の高かった桑原恭助を、福岡県から招いた。」

日本の教育界におられる人たちも昔は個性的でしたね。

ヒロシマとナガサキの原爆の威力の差……。下「」引用。

「城山国民学校(爆心より五○○メートル)の被害度は、広島市における相当地点の建築物の被害度よりも大であることが明らかになっている。城山国民学校校舎は、鉄筋コンクリートの堅牢な建築物であったが、下層より上層(二階三階)において破壊個所が多くかつ損傷者が多かった。城山国民学校は鉄筋コンクリート三階建であったが、一部は地階まで原型を認めえないまでに崩壊。」

これも、地形などでいろいろ変化するだろうと思う……。

こんな会話があったという。下「」引用。

「エイ子が諌早駅で偶然会った父親の友人は、
「長崎へ行ってはだめだ。気が狂ってしまうぞ」
と、エイ子を止めようとした。が、エイ子はどうしても山里の自宅に帰るつもりだった。
「山里の家には、防火建築の土蔵があるから、きっとその中にみんながいるはずだ。あんなに頑丈な土蔵が壊れるわけがない」」

土蔵や重い瓦屋根は、台風の時にはいいといますが……。


酒のことが、ここでも書かれてありました。下「」引用。

「「原爆症を酒でなおした」
という話を、現地でよく耳にする。酒が直接的な効力を持っているのか、或いは副次的に有効な作用をもたらすのか不明だが、当時城山国民学校保護者会の世話人であった杉本亀吉もこの説を強調する一人である。」

急性期のときのみで、慢性ではその効果はなかったという。
チェルノブイリでは困ったことになったという……。


目 次

「城山町一丁目にあった被曝直後の八幡神社。ここに生残った子どもたちを集めた。」



授業は午前中だけ……。下「」引用。

「授業は午前中だけで、昼には終った。食糧事情が悪いので、弁当を持って来られないからである。当時は、おかゆ、雑炊、すいとん、ふかし芋といったものが主食であったから、弁当にするには不適当であったし、なかには欠食せねばならぬ生徒もいた。」

--今は給食代が払えない家があるという。
戦争も悪政の結果なら、今の日本も同様だろう……。

しかし、昔は自然があったという。下「」引用。

「みんないっしょに下校したが、用事のないものは、途中、浦上川に入って、アサリ、アオサ(青ノリ)を取って行くものが多かった。」

ドキュメント番組があったという。下「」引用。

「城山国民学校について、われわれが関心を持ったのは、昭和四十三年夏、城山校の原爆被災児たちが、戦後初めて同窓会を開いた直後のことであった。
 現地の長崎放送は、原爆記念ドキュメントとして、これを放映した。この番組を制作した木島康之報道部長が語る。五人の教師と、十四人の卒業生のものがたりは、われわれを感動させた。」


その木島はいう。下「」引用。

「『風邪をひかさないこと』が、教育そのものであったということを、みんなに知ってもらいたいんだ」

むかしは教師も大変だったから、生徒への思いやりもあったが、今はそれもあまり期待できそうにない……。












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