『原爆前後XXIV』
思い出集世話人・編/白井秀雄1974年
さまざまなことを書かれています。映画をみられてのことも書かれてありました。
出張していて被爆をまねがれた人たち……。下「」引用。
「各工場係に疎開先を知らせることが出来、九日は各係長は随員をしたがえて、現地視察に赴き、鍛造工場係長のみは嚢に着手中であったので当日は現地に行く必要がなく残留して被爆死亡されたが、その他の工場の係長と随員は疎開地に赴いていたので完全無傷で難をのがれた。-略-長崎兵器製作所は一瞬にして壊滅し、多数の従業員を初め、選ばれて奉職した優秀なる若き学卒者と、必勝を期して急援に駈けつけた徴用工と学徒の方々を亡くしたことは限りなく恨事であった。」
茂木町という漁村に療養所があり、町の数少ない医師や看護婦が総員で治療にあたったという。
人情豊かな地であったという。下「」引用。
「敗戦後二十八年餓死寸前の物資欠乏の中から立ち直り、世界第二の経済大国となったものの、人情日増しに薄らぎつつある現在、今更のように茂木町の人々の温情が忍ばれてならない。」
さらに、人情は薄くなったとボクは思います。
ただ一つの物的証拠……。下「」引用。
「私だけの宝物の一つである擦り切れている「罹災証明書」、これが私の長崎兵器製作所に報国学徒の一人として動員され、長崎において戦災を受けた物的証拠として手元に残っている唯一のものである。」
証明されるのも大変なことのようです。
あの大惨事の最中ですし……。
医療は大切なものですね。下「」引用。
「数日経った頃(※被爆後一カ月以上)、町の方へ出かけた父は、お親しくしていた長崎医大の影浦先生に偶然にお会いし、私の異常を話したのだそうです。先生は言下に「それは大変だ、原爆症に違いない、医大が新興善小学校で医療を行なっているから今から直ぐつれて来るように」とのことで早速先生の元へ参りました。診断の結果は「白血球八百(普通は七、八千)強い症状が現われ始めているから直ちに福岡の九州大学沢田内科(第三内科)に入院するように、今直ぐ輸血の必要があるから探してくるように」とのこと」
また、別の人の病床。下「」引用。
「お母さんは直ぐ様、その両親や姉への恩返しにと、ユズとスルメが毒消しに効くからと村中探して買い求め、夜はそれを煎じて飲まして下さったり、熱いタオルで身体を拭いて下さったり、至れり尽くせりのお世話に幾度涙したことか、人の情けの有り難さを泌々と感じたことでした。」
そして、その女性も入院。そしてこんなことが書かれてありました。下「」引用。
「動かなかった右腕が、原爆のとき血がふき出た肘の内側の方から、突然に肉がもり上って、皮膚を破り、魚の腹ワタのようなのが二十センチぐらい出て来ました。それから少しづつ動くようになったのです。その時の嬉しかったこと。今思い出して胸が一杯になります。」
戦後二回目の海外出張。
--チリの首都サンチャゴで映画『Above and Beyond』を見る。
その映画の主役チベット少佐を演じているのはロバート・テイラー。下「」引用。
「誠に未曾有の焦熱地獄の大惨劇というべく、強烈に胸を打たれた。全く涙なしで見られぬ残酷さであった。特に地球の正反対の国チリでの日本人として誠に感慨無量で、被害者の冥福を心から祈ったものであった。」
決戦攻撃命令(1953) - goo 映画
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思い出集世話人・編/白井秀雄1974年
さまざまなことを書かれています。映画をみられてのことも書かれてありました。
出張していて被爆をまねがれた人たち……。下「」引用。
「各工場係に疎開先を知らせることが出来、九日は各係長は随員をしたがえて、現地視察に赴き、鍛造工場係長のみは嚢に着手中であったので当日は現地に行く必要がなく残留して被爆死亡されたが、その他の工場の係長と随員は疎開地に赴いていたので完全無傷で難をのがれた。-略-長崎兵器製作所は一瞬にして壊滅し、多数の従業員を初め、選ばれて奉職した優秀なる若き学卒者と、必勝を期して急援に駈けつけた徴用工と学徒の方々を亡くしたことは限りなく恨事であった。」
茂木町という漁村に療養所があり、町の数少ない医師や看護婦が総員で治療にあたったという。
人情豊かな地であったという。下「」引用。
「敗戦後二十八年餓死寸前の物資欠乏の中から立ち直り、世界第二の経済大国となったものの、人情日増しに薄らぎつつある現在、今更のように茂木町の人々の温情が忍ばれてならない。」
さらに、人情は薄くなったとボクは思います。
ただ一つの物的証拠……。下「」引用。
「私だけの宝物の一つである擦り切れている「罹災証明書」、これが私の長崎兵器製作所に報国学徒の一人として動員され、長崎において戦災を受けた物的証拠として手元に残っている唯一のものである。」
証明されるのも大変なことのようです。
あの大惨事の最中ですし……。
医療は大切なものですね。下「」引用。
「数日経った頃(※被爆後一カ月以上)、町の方へ出かけた父は、お親しくしていた長崎医大の影浦先生に偶然にお会いし、私の異常を話したのだそうです。先生は言下に「それは大変だ、原爆症に違いない、医大が新興善小学校で医療を行なっているから今から直ぐつれて来るように」とのことで早速先生の元へ参りました。診断の結果は「白血球八百(普通は七、八千)強い症状が現われ始めているから直ちに福岡の九州大学沢田内科(第三内科)に入院するように、今直ぐ輸血の必要があるから探してくるように」とのこと」
また、別の人の病床。下「」引用。
「お母さんは直ぐ様、その両親や姉への恩返しにと、ユズとスルメが毒消しに効くからと村中探して買い求め、夜はそれを煎じて飲まして下さったり、熱いタオルで身体を拭いて下さったり、至れり尽くせりのお世話に幾度涙したことか、人の情けの有り難さを泌々と感じたことでした。」
そして、その女性も入院。そしてこんなことが書かれてありました。下「」引用。
「動かなかった右腕が、原爆のとき血がふき出た肘の内側の方から、突然に肉がもり上って、皮膚を破り、魚の腹ワタのようなのが二十センチぐらい出て来ました。それから少しづつ動くようになったのです。その時の嬉しかったこと。今思い出して胸が一杯になります。」
戦後二回目の海外出張。
--チリの首都サンチャゴで映画『Above and Beyond』を見る。
その映画の主役チベット少佐を演じているのはロバート・テイラー。下「」引用。
「誠に未曾有の焦熱地獄の大惨劇というべく、強烈に胸を打たれた。全く涙なしで見られぬ残酷さであった。特に地球の正反対の国チリでの日本人として誠に感慨無量で、被害者の冥福を心から祈ったものであった。」
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