磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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日本印象記-ヒロシマの家-

2008年11月12日 | 読書日記など
『日本印象記-ヒロシマの家-』
   フロイド・シュモー(著)/大原三八雄(訳)/
     広島ピース・センター1952年

広島に住宅をつくってくれた
フロイド・シュモーさんの本です。



1895年、中西部にいる開拓農民の子としてシュモー生まれる。

シュモーは博物学と森林学を学ぶ。

戦争に怒りをもっていたという。
ロンドンやベルリン、東京、大阪で無辜の民が攻撃されるのに絶えられなかったという。下「」引用。
*現代表記に直してあります。
「戦争はもとより罪悪に決まっている。しかし今ではこの戦争が、訓練を受け立派に武装した職業軍人同士の戦争ではなくなってきた--これは正規の訓練を受け、機械化された軍人と、何ら防備もなく、爆撃には手も足も出ない市民とのいくさ、つまり到底太刀討ち出来ない、不公平きわまるいくさに堕してきている」
 かくのごとくして博士の人間としての憤りはヒロシマ及びナガサキの原爆投下と共に最高潮に達した。「人類は野蛮の極地に達してしまった」」


素朴だけど当たり前の感情だろうとボクは思う。
これが当たり前の人間の感情だとボクは思う。

良心に深い傷を受けたとシュモーは書き残している。下「」引用。

「「わたしはヒロシマに爆弾が堕ちた瞬間、六千里離れた場所にいた。それでわたしは肉体的にはかすり傷一つ受けなかった。しかしわたしの良心は深傷をこうむった。わたしはこの大きな罪悪を償わなくてはならぬということを秘々と身に感じた。わたしが原爆の落とされたその日に、一大決意をしたのはその為である。日本に行けるようになったならば第一の機会にヒロシマにいき、この地で原爆から生き残った人々に向って語ろう。自分は実に遺憾に堪えなかったことを、そしてこのようなことをもう二度といかなる国民にも繰返えさせてはならぬ。そのために自分の力のありと凡する能力を惜しまずそそぐことを誓おう」
 これはシュモー氏が「フェローシップ」なる機関誌に掲げた一節」


そして、日本にきたとき家を建てようと決心されたという。

「ワールド・ピース・センター」の地鎮祭に出席、これは谷本牧師の夢であったという。

シュモーは10人の外国人(日本人にとって)と谷本牧師の流川教会に住みながら、家を日本人とともに建てたという。

募集すると3800名が応募してきた。シュモーが建てたのは四軒であったという。しかし、市役所職員が二名あたったという。抽選は市役所に頼んだという。

今の天皇陛下が、皇太子のころ、シュモーを招待されたことが書かれてありました。

シュモーの娘さんの夫は日系二世であり、助教授で双生児の父という。

シュモーは、日系二世学生たちの擁護団体を太平洋戦争時につくり、赤瓦の家を女子大学生のために解放したという。

ありがとう、シュモー!
お役人は今も昔も変わらないですね。



神さま生命をください-被爆青年との愛の記録-







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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (大宮 利信)
2012-07-30 21:14:50
1985年、中西部にいる開拓農民の子としてシュモー生まれる。とありますが1885年の間違いでは?
105歳で亡くなったと聞いていますが?

返信する
ありがとうございます。 (磯野鱧男)
2012-07-31 19:22:43
大宮利信様。

確認しました。
1895年生れです。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20120104113316143_ja

訂正しておきます。
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