『同時代叢書 世界のおかあさん』
新藤兼人・編/汐文社1978年
このような本を女性解放運動の人たちは、どう思うのだろうか?
■目次・主なものだけ■
母とはなにか 新藤兼人 1
五年ごしのゆめ 千葉茂樹 3
ヒロシマの母 新藤兼人 11
ベルギーのママと愛の養子たち 河内豊英 29
熊本・愛児園のママ 関功 45
アメリカ・インディアンの若いママ 片山龍峯 59
金メダルを育てるママさん選手 千葉茂樹 73
ノーベル平和賞のママ 河村治彦 91
ママの目は見えないけれど 福田顕 107
ネパールに嫁いだ日本のママ 小島好美 123
かあさんの楽屋人生 広瀬涼二 139
ママはモスクワの外科医さん 神山征二郎 155
ママのお国はデンマーク 播磨晃 169
おかあさんの声を演じて 乙羽信子 185
母を生きる独身の女性 小島好美 187
釜ケ崎のドイツおばはん 堀内甲 191
わたしは火の鳥 小田義士 207
中国のママと五人の子どもたち 勝目貴久 225
あの子の鼓動が聞こえます 吉村公三郎 235
プロデューサーとしての思い 國崎誠一 251
生きるよろこびと励ましを 岡田曠吉 256
「ヒロシマの母-畠中敬恵さん-」新藤兼人・著。
--新藤兼人がインタビューしている記事である。下「」引用。
「昭和五十三年四月十九日、私たちは岩国市へおもむいた。ここの畠中敬恵(よしえ)さんに会うためである。
岩国には、いまなおアメリカ軍が駐留している。基地の町である。この町の片隅に畠中理髪店はある。主人の畠中国産さんが中心になって、家族ぐるみでやっているささやかな店である。
昨年五月、私たちはここを訪ねて取材している。RCC(中国放送)の八月六日の記念番組「8・6」というドキュメンタリーを撮るために、四日ばかり撮影させてもらった。
畠中百合子さんは、小頭児である。原爆の放射能を胎内であびて、生まれながらにして頭が小さい。そのために知能指数は三、四歳ぐらいである。昭和二十年八月六日に胎内被爆し、翌年二月十四日に生れたのだから、現在三十二歳である。「世界のおかあさん」で、私も一本製作することになって、躊躇なく、私は畠中敬恵さんをえらんだ。「8・6」では、一挿話として登場してもらったのだが、こんどは、一人のお母さんとして、主人公として、私たちはお話をしたいと思ったのである。」
すべて……。下「」引用。
「原爆が落ちたとき、中心地から一キロ以内にいた、妊娠四カ月の妊婦は、すべて胎内被爆の症状をしめしている。その数は十数名であるが、ほとんどの人は死んでいるのだから、生き残った妊婦が少ないのは当然である。敬恵さんが、被爆した所は、当時西大工町といったところ。いま残っている中心地の原爆ドームの付近の、ビルの屋上へ上って見ると、すぐ眼の先の位置である。」
ヒロシマへ行く……。下「」引用。
「「年に一度は、ヒロシマへ出て行きます」
と、敬恵さん。百合子さんを連れてである。
「あの土の下には、マサアキが眠っているのです」
と、おっしゃる。そのヒロシマへ、百合子さんと行きたいのだ。」
「ノーベル平和賞のママ」
ベティ・ウイリアムさん、76年度受賞。
--ベティさんと平和行動を共にするコリガンさんはテロで殺された子供たちの伯母。下「」引用。
「「テロリストに告げて下さい。私はもうテロリストを恐れない。かわいい子供たちを奪った彼らは、これ以上私たちはお互いに愛し合い、助け合って行くべきなのに……カトリックやプロテスタントの区別なんてなく、みんな同じ神の子なのに……神様、……どうか、私を平和の道具につかわして下さい……」
都合のいいときだけ、「神の子」をだしていませんか?
そう問う人はいないのだろうか?
もくじ
index
新藤兼人・編/汐文社1978年
このような本を女性解放運動の人たちは、どう思うのだろうか?
■目次・主なものだけ■
母とはなにか 新藤兼人 1
五年ごしのゆめ 千葉茂樹 3
ヒロシマの母 新藤兼人 11
ベルギーのママと愛の養子たち 河内豊英 29
熊本・愛児園のママ 関功 45
アメリカ・インディアンの若いママ 片山龍峯 59
金メダルを育てるママさん選手 千葉茂樹 73
ノーベル平和賞のママ 河村治彦 91
ママの目は見えないけれど 福田顕 107
ネパールに嫁いだ日本のママ 小島好美 123
かあさんの楽屋人生 広瀬涼二 139
ママはモスクワの外科医さん 神山征二郎 155
ママのお国はデンマーク 播磨晃 169
おかあさんの声を演じて 乙羽信子 185
母を生きる独身の女性 小島好美 187
釜ケ崎のドイツおばはん 堀内甲 191
わたしは火の鳥 小田義士 207
中国のママと五人の子どもたち 勝目貴久 225
あの子の鼓動が聞こえます 吉村公三郎 235
プロデューサーとしての思い 國崎誠一 251
生きるよろこびと励ましを 岡田曠吉 256
「ヒロシマの母-畠中敬恵さん-」新藤兼人・著。
--新藤兼人がインタビューしている記事である。下「」引用。
「昭和五十三年四月十九日、私たちは岩国市へおもむいた。ここの畠中敬恵(よしえ)さんに会うためである。
岩国には、いまなおアメリカ軍が駐留している。基地の町である。この町の片隅に畠中理髪店はある。主人の畠中国産さんが中心になって、家族ぐるみでやっているささやかな店である。
昨年五月、私たちはここを訪ねて取材している。RCC(中国放送)の八月六日の記念番組「8・6」というドキュメンタリーを撮るために、四日ばかり撮影させてもらった。
畠中百合子さんは、小頭児である。原爆の放射能を胎内であびて、生まれながらにして頭が小さい。そのために知能指数は三、四歳ぐらいである。昭和二十年八月六日に胎内被爆し、翌年二月十四日に生れたのだから、現在三十二歳である。「世界のおかあさん」で、私も一本製作することになって、躊躇なく、私は畠中敬恵さんをえらんだ。「8・6」では、一挿話として登場してもらったのだが、こんどは、一人のお母さんとして、主人公として、私たちはお話をしたいと思ったのである。」
すべて……。下「」引用。
「原爆が落ちたとき、中心地から一キロ以内にいた、妊娠四カ月の妊婦は、すべて胎内被爆の症状をしめしている。その数は十数名であるが、ほとんどの人は死んでいるのだから、生き残った妊婦が少ないのは当然である。敬恵さんが、被爆した所は、当時西大工町といったところ。いま残っている中心地の原爆ドームの付近の、ビルの屋上へ上って見ると、すぐ眼の先の位置である。」
ヒロシマへ行く……。下「」引用。
「「年に一度は、ヒロシマへ出て行きます」
と、敬恵さん。百合子さんを連れてである。
「あの土の下には、マサアキが眠っているのです」
と、おっしゃる。そのヒロシマへ、百合子さんと行きたいのだ。」
「ノーベル平和賞のママ」
ベティ・ウイリアムさん、76年度受賞。
--ベティさんと平和行動を共にするコリガンさんはテロで殺された子供たちの伯母。下「」引用。
「「テロリストに告げて下さい。私はもうテロリストを恐れない。かわいい子供たちを奪った彼らは、これ以上私たちはお互いに愛し合い、助け合って行くべきなのに……カトリックやプロテスタントの区別なんてなく、みんな同じ神の子なのに……神様、……どうか、私を平和の道具につかわして下さい……」
都合のいいときだけ、「神の子」をだしていませんか?
そう問う人はいないのだろうか?
もくじ
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