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幻のキネマ満映-甘粕正彦と活動屋群像-

2010年09月23日 | 読書日記など
『幻のキネマ満映-甘粕正彦と活動屋群像-』
   山口猛・著/平凡社1989年

東映は満映の流れをくむという。下「」引用。

「では、満映というあまりに特殊な映画会社は、戦争中のみのことであって、現代とはまったく無縁であるというと、そうではない。今でも、綿々と、その流れは続いているのである。
 それが顕著に表れているのは、東映である。
 そもそも東映は、撮影所長がマキノ光雄の東横映画と大泉スタジオを東京映画配給に併合、東映株式会社として、満州から引き揚げてくる映画人を救済し、職を与えることを社是として発足した。」



東映ヤクザ映画……。下「」引用。

「東映ヤクザ映画とは、言い換えるならば、こうした国内的な絶望感と、対外的なロマンティシズムを強烈に内に秘めたプログラム・ピクチュアだったと言えるだろう。」

東映、元警部・中川成夫。下「」引用。

「考えてみれば、人事面では、昭和二十七年に元警部中川成夫が興業部長として入社。四月には取締役に昇進、三年間、その職にあったのである。中川といえば、昭和二年二月二十日に小林多喜二を虐殺した警視庁のナップ係の警部であり、首謀者として知られている。あるいは、満映の総務畑の人々が入社して要職についていた。」

東映のルーツ、満映。

理事長・金璧東(川島芳子の兄)は北京に住んでいた。

甘粕正彦理事長。下「」引用。

「この時、武藤が岸に持ち出した案はとは、理事長に甘粕正彦を就任させることだった。」

酒乱・甘粕。下「」引用。

「この甘粕の酒乱については、側近の堀勇雄でさえ、
「ふだんの甘粕さんを知っている人間には耐えられないところがあるから、料亭だけは、一度しか付き合わなかった。自分が最も尊敬している人間の、そうした姿を見ていられなかった」
 と言うほどであるから、相当なものではあっただろう。」

菊池寛は大映社長。下「」引用。

「菊池(寛=引用者注)さんが大映社長就任の抱負を述べた中にも、国策性、芸術性、娯楽性といふやうな言葉があったのであるが、私は、こんな風なものの考へ方に危険を感ずる。-略-」

石井部隊にモルモットにされたことが書かれてあった。下「」引用。

「しかし、七三一部隊による謀略であるとはっきり断定はしていなかったせよ。「あれは、軍が試験したらしい」「俺たちも試験台になったんだ」などという噂は、満映内でも流れた。
 やがて、三角地帯の主要部は焼却され、十二月になると、ペストの死亡者二十六名、治癒一名と発表され、以後、患者は皆無になった。」

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更迭・マキノ光雄。

ポルノ映画を上映し、関東軍の将校を集めたという。岸信介もやって来たという。「鳩ポッポ」を歌う将軍たち。下「」引用。

「そして、将軍たちの宴の最後は、「鳩ポッポ」「お手手つないで」等の童謡であり、テーブルに皆を乗せると、甘粕自らタクトを振るポーズをとり、将校たちに歌わせ、皆も童心に返ったようにはしゃいでいた。」

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東条と甘粕……。下「」引用。

「甘粕は、東条英機内閣が倒れる昭和十九年七月まで、たびたび日本を訪れていた。
「東条首相は、閣議の最中でも、甘粕さんが来訪したと知ると、閣議を中断し、甘粕さんと語り合った。帰りがけには、首席秘書官であった赤松貞雄大佐が心配気に見ていようが、かまわず、甘粕さんは、接待用の葉巻を無造作にポケットに入れ、『土産に持っていきます』と言って、さっさと出ていった。東条首相も、それを咎めることもなかった。
 昭和十七年十二月、甘粕は東条の使者として、山形県鶴岡市に隠遁していた石原莞爾の家に姿を現し、石原を上京させ、東条に会わせるという離れ業を演じている。
 この時、石原は、大政翼賛会を批判し、
「最善の方法は、あなたが首相を辞めることだ」
 という趣旨の意見を述べたが、これを東条が聞くはずもなく、結果的には何の効果も生み出さなかった。」

インパール作戦では、東条に反対した甘粕。しかし、第十五軍司令官田口廉也中将の意見をとった東条英機。



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ノモンハン事件の敗北を見ていた満映のカメラマン。下「」引用。

「関東軍の捕虜がソ連の捕虜と交換されても、日本に返すわけにもいかず、英霊部隊として死んだことになっていたため、再び最前線に送られたこと。そして、捕虜となった将校が自決したこと。また、関東軍が中国人の農家を焼き払い、惨殺した様子。
 記録としていっさい残っていないにもかかわらず、満映で関東軍に同行した人々は、実際の戦争の様子を肌で知り、また満映の後輩に語っていた。」

甘粕の自殺前の幾日かも書かれてあった……。

逃げ出した軍人、吉田貞次いわく。下「」引用。

「「軍人の家は、彼らが逸早く逃げ出したものだから、最初に空き家になり、そこに北から長春に逃げ込んだ人たちが入居した。しかし、食物もなく、満映の人々の援助とはいっても、限界があるから、冬になると、真っ先に死んでゆく。それで、近くの公園は死人の山になったということもあった。栄養失調と寒さによるものであり、我々の心も痛んだけど、どうしようもなかった」」

丙種産業=映画界。下「」引用。

「そんな彼が、“”とも“ヤクザ者」とも言われた人々が多く集まる場所、当時は丙種産業で、社会的立場の低かった日本映画の世界に入ったのである。」

気賀靖吾のことも書かれてありました。









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