磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

現代教養文庫534 八月十五日と私-終戦と女性の記録-

2008年10月07日 | 読書日記など
『現代教養文庫534 八月十五日と私-終戦と女性の記録-』
   NETテレビ社会教養部・編/社会思想社1965年

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「昭和二十年八月十五日--運命のその日を、外地で、戦火の下で疎開先で、あるいは勤労奉仕の工場で、日本の女性たちはどのような思いで迎えたのだろうか。
 現在は平和な妻として、母として生きる人びとが、今なお癒えぬ心の傷を綴る感動の手記集。」



カバーデザイン 菊井言祐

「男装をして歩く練習」下「」引用。

「明日にでも『アメリカ兵』が上陸するから女達は気をつけなくてはいけないと言うので、『お前髪切んなさい」と、私はあまり洗練されていないボブスタイルにされてしまいました。
 そして消し炭を顔や首にこすり、二日ほど前にやっと思い切って染めた国防色の開襟シャツ(国防色を我家ではクソ色と呼んで敬遠してました)を着て、歩き方の練習をした事でした。もっと胸を張んなさい、もっと手を乱暴に動かしなさい、と言う夫の言葉につれて私は真夜中の廊下をいったりきたり一生懸命男っぽく歩き続けました。」

町の灯りによって、終戦を知る。下「」引用。

「昼の玉音放送に『戦争はすんだ』と告げられながら、半信半疑の夜を迎えて『みんな灯がついてる!』と二階からの義妹の声に私もかけ上ってみた町の灯り母、ワーッと義妹と抱き合って、二階からかけ下り、二人で玄関もお茶の間もお風呂もトイレも電灯と言う電灯はみんなつけて廻りました。」

「“日本”に殺されたフランス人の夫」下「」引用。

「-略-一年以上も暗い牢獄にいた。仏国人てあるので、スパイなどといわれてつれていかれた。いつまでたっても私の目からは消えない。憲兵の白い腕章と長靴、長靴でベッドをケラれて、皆が寝ているうちに、朝を待たずに連れてゆかれた。-略-
 帰ってからはベッドについたきりの六年間。そうしてよい薬もなく死んでいった。二十五歳にもなっていない若さで、日本が殺したのだと思う。何の罪もないのに。父も母も姉も、仏国の田舎へひっこんでしまった。何のつぐないも求めずに。

 私は事情があって、仏国人の家庭に育てられました。それで主人と婚約の間で小さな時より一緒に育てられたのです。  北川瑠依寿 35歳」

長崎で被爆した人。下「」引用。

「やはり死んでいた私の母
「おそかった、おそすぎた」胸をかきむしる思いで高熱に苦しみ、口惜しさにもだえながら終戦の報を聞いた。
 当時、私は、長崎県立高女三年生在学中、学徒動員で三菱兵器工場に働いて、原爆にあい、負傷して大村海軍病院に収容され、肉親の消息もわからないままに、この日を迎えたのだった。」

八月十五日は聖母被昇天の祝日で、お祝いを……。

満州などのことも書かれてありました。下「」引用。

「元山を貨車で南下するのですが、行きかう列車にロスケが沢山、しかも少年兵のような人がいっぱいでした。だいぶ南下して、もうすぐという鉄原で、とうとう保安隊に見つかり、四十度にある興南に連れ戻されてしまいました。そこには何万という日本兵が居り、兵舎の一部で一晩を明かしました。あの兵隊さんたちは無事内地に帰って来たのでしょうか。私はそこで兵隊さんの沸かしてくれたドラム罐の露天風呂に入りました。今の六年生と比べて無邪気だったのでしょうか。」

モーニング・ショー』というテレビ番組の企画で生れた本であるという。下「」引用。

「ここに集められた日本の女性たちの手紙集は木島則夫モーニング・ショーをきっかけにして生れた。
 七月三日、モーニングショーのスタッフ・ルームでは終戦記念日の特集企画がねられていた。視聴者から「八月十五日と私」という手紙を寄せてもらっては……このプランがようやくきまり、五日から呼びかけ始めた。八日ごろからスタッフ・ルームはミカン箱いっぱいになる程の手紙がとどき始めた。-略-」







Index

Index





エンタメ@BlogRanking



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。