磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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新女性を生きよ-日本の植民地と朝鮮戦争を生きた二代の女の物語-

2009年02月26日 | 読書日記など
『教科書に書かれなかった戦争・らいぶ 新女性を生きよ-日本の植民地と朝鮮戦争を生きた二代の女の物語-』
   朴婉緒・著/朴福美・訳/梨の木舎1999年

「同じ民族同士が憎みあい、隣人を告発した時代。重苦しい空気の中、草原の輝きに守られて私は成長した…。日本の植民地と朝鮮戦争を生きた、母と娘二代の女の、緻密で豊かに記録された物語。」



表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「●この作品は自伝三部作のうち第一部である。一九九二年韓国熊津出版社から出版され二○万部のベストセラーとなった。
●--骨の髄まで絞り出すようにして苦しみながら書いたのに、まだ物足りないし、残念なところだらけだが、一九四○年代から五○年代にかけての社会相、風俗、人の心などは、すでに資料として定型化されているものよりも仔細に、偽りのない証言ができるようにと私なりの最善を尽くしたことはつけくわえておきたい-- 著者序文より」

日本語の最初は……。下「」引用。

「国民学校の入学式は四月だった。わたしはまた綾絹のツルマギを着て母の手を握り、山を越えて学校に行った。上品な町の子どもたちだから、やっぱりうちの町の子どもたちとは違って見えた。かわいらしい、裾が短い洋服を着ている子がほとんどであった。親は一週間だけついてきなさいという。一カ月くらいは教室には入らずに運動場で歌を歌い、お遊戯をし、先生の後をぞろぞろついてまわりながら、学校の施設などの名前を日本語で覚える練習をした。
 一番最初に覚えた日本語は奉安殿である。-略-」

日本の敗色が濃くなったころ……。下「」引用。

「日本の配色が濃くになるにつれ、殺伐とし気配が濃くなってきた。朝鮮の青年に対する志願兵制が徴兵制に変わった。兄は徴兵にはひっかからない年齢だったが、徴用という労務動員制度が別にあって、いつ徴集されるかわからない状態だった。母が“総督府にそのまま勤めさえいたら徴用されなかったのに”と言って残念がると、兄は“ワタナベ鉄工所は軍需品の工場だから徴用の心配はない”と言って安心させた。しかし兄自身はそれを喜んでいるようではなかった。、
 最初の志願兵で戦死した李仁錫(イインソク)上等兵を英雄に祭りあげるために、その一代記を日本版唱劇ともいえるナニワブシに仕立てたものがあり、朝鮮の青年を戦場に送りこもうと血眼になってこれを毎日のように放送していた。兄はこれが耳に入ると嫌な顔をしてすぐに、“消してしまえ”と神経質な声で言うのだった。」

朝鮮神宮……。下「」引用。

「あいにく、この日はみぞれになった。三月というのに今の真冬にも劣らぬ寒さで、風も吹いていた。朝鮮神宮に上っていくあの高い高い階段に人影はほとんどなかった。ぐちゃぐちゃの雪の中に運動靴がもぐり、靴下がぬれ、足が凍りつきそうになってもかまわず、高い高い階段をだれかに意地悪でもするように、二人してはあはあ言いながら上りつめた。そこから神宮の前までの砂利がひかれた道は、だれも踏んでいない雪でおおわれ、平らかに見えた。わたしたちは神宮のほうをちらりと一度見ると、京城神社に向かうなだらかな下り道に近づいた。よい季節には、この道は恋人たちの散歩道として有名だった。最近の言葉でいうムードが二人に必要になったとき、ここが思い出されたのは多分こんなところにあったのだろう。」

敗戦、親日派ということで……。下「」引用。
「日本が敗けたことをわたしたちが知ったのは、一群の青年たちが、突然棍棒を持って家に押し入ってきたからだった。彼らは仲間うちで喜々として戯れるかと思うと肩をそびやかし、ガチャガチャンと家財道具や扉をたたき壊し始めた。うちの村の青年も一、二名入っているようだが、ほとんどは知らない顔だった。しかし、この地方の出である上の叔母はほとんど顔見知りらしく、“お前たち急に気でも狂ったのか、一体これは何の真似なのか理由でも聞かしてもらいたいものだ”と、体を山ならしの木のように震わせながらも堂々と叱りとばした。先頭には立てずに後に下っていた朴積谷の青年が“ちょっとの間この場を避けていたほうがいいのじゃないか”と、日本が敗けわが国は解放されたことを教えてくれた。ということは朴積谷ではわが家が親日派と目され、憂さ晴らしを受けていることになる。-略-」

朴婉緒とその作品について」下「」引用。

「この作品は朴婉緒の自伝三部作のうちの第一部である。一九九二年に熊津(ウンジン)出版社から刊行され、二○万部のベストセラーとなった。物心についてから学齢前まで暮らした生れ故郷の京畿道開豊郡朴積谷と、大学に入学するまでのソウルの峴底洞での生活が主な舞台となる。年代的には作者の生まれた一九三一年から朝鮮戦争の一・四後退の一九五一年一月四日までである。朴積谷は現在三八度線の北に賊しており、行くことはできない。ソウルの峴底洞一帯は再開発地域となって本書のなかで描かれたような雰囲気はほとんど残っていない。西大門刑務所は今、記念館として残っている。越境通学していた梅洞小学校だけが日帝時代のものであろうと思われる建物を一部残して健在である。-略-」

このシリーズがどうして、「らいぶ」なのか?






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