磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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被爆体験記 ~あの日あの時~

2008年02月11日 | 読書日記など
『被爆体験記 ~あの日あの時~』
   樋口美枝子、横田房子(編)/長崎県立長崎高女学院42回生1990年

いわゆる私家版というもののように思えます。しかし、聖母の騎士社が印刷されているので、市販されているものと遜色がありません。



医大生の被爆シーンが表現されています。下「」引用。

「濠の中に若者がはいって来た。背中に大きく破れたシャツを垂らしている。とみるとそれは皮膚が垂れ下がっているのであった。医大生だった。」

医大生だけでなく、医師も被爆された。この本には書かれていないが、そんな人たちが、賢明に医療救護班で活動されたのです。

たとえ、健康だったとしても、あの日あの時に、救護すること。そんなことをシュミレーションででも、救護活動をしようとした専門家は現代におられるのでしょうか? 今も、医療行為として、たいしたことはできないと書く医師はおられますが……。

どんな、すごい凄惨な現場だったか……。しかし、医療の現場の人たちは、そんなことになっても、逃げることはできないと思います。

破談ということもあたったという……。下「」引用。

「又、幾年か経って県外の方との縁談も、被爆者であることが分かってからは、先方の御家族の猛反対で破談になりました。被爆者であるが故に苦い思いを沢山致しましたので、県外の方々に対して特に、被爆体験など語りたくありませんでした。」

とんちんかんなことを、こんな混乱した現場では起きることだとボクは思います。下「」引用。

「すぐに下西山にいる叔父の所に「学校の寮にいます」と連絡をして頂いたのですが、どこでどう聞き違ったのか、高女が工業となり浦上の工業高校まで探しに行ったそうです。」

九州大学の医学部の救護班のことが書かれてありました。下「」引用。

「白血球減少等の原爆病に罹り、新興善小学校に入院。九大医学部の救護班が治療していました。」
九大の救護班の文献はまだ読んだことがないように思えます。

こんなことも書かれてありました。下「」引用。

「工場の門の所に来ると、メガホンで「重軽症者は医大へ行け」と指示されています。その方向を見ると土煙のせいかボウーとかすみがかかった横にぼやけてとても行く気になりません。」


かよこ桜の林嘉代子さんでしょうか? 書いておいていただくとありがたかった……。下「」引用。

「林嘉代子さんのお父様が手を貸して下さってやっとの思いで勝山まで連れて行って下さいました。」


大学病院に通院していた家族のことも書かれてありました。下「」引用。

「兄は幼い頃からぜんそくの持病がありました。その病気を治すため、大学病院で気管の手術を受けまだ通院中だったのです。九日の朝つけかえに行くといって家を出ました。何時もは「いってらっしゃい、気をつけてね。」とさりげなく送る母が、その朝に限りなんとなく胸さわぎして気になり、「今日は暑いからまたにしたら」と止めたのですが……玄関をいそいそと出て行く兄の後ろ姿を見た最期になるとは……」


広島に新型爆弾が投下されたことは、当時の人は知っていましたから、こんな胸さわぎがおきたのでしようね。

ケロイドより大きな心の傷……。下「」引用。

「大勢の人に守られ幸せだった私だが多くの人々は辛い人生を歩まれたと聞く。幸い顔の傷は癒えたが腕には醜いケロイドが残った。人目に晒す事は恥しかったが原爆の証しだと隠す事も無く手術も断ったが、顔だったらどんなだったろう。其のケロイドも歳月を経て小さく薄くなったが目に見える傷よりも心の中の傷は何時迄も消えない。」






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