磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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被爆韓国人

2008年04月21日 | 読書日記など
『被爆韓国人』
   朴秀馥、辛泳洙、郭貴勲(編著)/朝日新聞社1975年

韓国には韓流映画があるのに、このテーマで映画化されていないというのも、不思議だなあーと思う。



広島市の役所に勤務している人もおられたようです。下「」引用。

「当時私の家は兄が日本に渡ったあと父母が病に倒れ、家産も人手に渡り、私自身就職口がなく、生活の道を求めてのことでした。
 広島市役所土木都市計画課測量技師の試験に、ただ一人の朝鮮人として合格した私は、終戦前の一年間そこに勤務したのです。
 運命の八月六日、兄と私は幸い家族が疎開していた広島郊外にいたため、直接の被爆は免れることができましたが、数日後広島市内に戻ったところ、兄は川を渡る途中舟が転覆し、そのため死んでしまいしました。」

当時は日本人という名目もあったわけですから、不思議ではありませんね。

金を渡さねばならない社会……。下「」引用。

「軍人らが死体運搬作業を急いでいたが、あんまりあわただしい最中だったので、沈さんはある軍人をつかまえて訴えた。「この死体は私の夫です。どうぞきちんと処理して下さい」と、その軍人にの三○円を差し出した。軍人は金を受け取らなかったが、沈さんはもう一度頼んだ。「この人は朝鮮人だから、どうぞよろしくお願いします」--朝鮮人だから、その金で日本人の死体と同じように扱ってほしい、との意味だったのだ。二歳の子の死体はとうとう捜し出せなかった。」

普通学級教育をすべての人が受けたわけではないようです。下「」引用。

「当時の加平中隊には、厳興變さんを含めて普通学級教育をうけたのは二人だけで、それ以外の人は日本語を理解できず、二人が通訳をつとめたという。」

学徒動員された人もいた……。下「」引用。

「頭にはイカリの印が入った白いはち巻きをしめて、勝利の日を目ざして毎日毎日武器製造にかり立てられました。私も日本国民の一人、日本学徒の一人として力の限りがんばりました。」

長崎にオカネなどを置いていたという。下「」引用。

「私はせっかく苦労して得たお金と着物を何とか取り戻したい、と翌日一○日長崎に出かけました。
 浦上の三つ手前の駅まで汽車が走っていたのて、そこから線路伝いに歩いて浦上の一駅手前までたどりつくと、憲兵と警官が非常線を張って制止しました。「お前どこに行くか。市内はみんな焼けてしまった。何しにゆくか」。私は事情を話したところ、「臭くてとても歩けないぞ」といわれました。しかし、どうしても行ってみたいと一生懸命に頼んだ結果、「よろしい」と、両腕に注射を打ってくれ、非常線をくぐることができました。しかし、浦上に近づくと、あたり一帯は火の海。死体の焼けた臭いがたちこめて、とてもたまらずそのまま引き返さざるをえませんでした。逃げてくる人に聞いたところ、駅前は全部焼けてしまったということで、私はお金も着物もあきらめて、夕方大村に戻りました。」

「護国神社へ強制参拝」があったという。

「父の悲運を引き継いで--被爆二世は主張する」という文章があり、「広島市の記念式典に参列した韓国被爆二世「ビドルギ団」の代表たち」という写真がありました。



この本は『日本の原爆記録12』にも掲載されています。






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