磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆前後VI

2008年12月26日 | 読書日記など
『原爆前後VI』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1971年

一度は、図書館の人にないといわれたのですが、検索しているとありました。
--出てきたのかもしれない……。たくさんの数があるから、なかなか難しいものです。
ボクも同じ本を何度もかりたり、blogの記事でもあげてもいます。
--こんなことが無きように、リストをつくっていのですが、これもなかなか、大変な作業です……。



名古屋におられた人も大変だったようです。下「」引用。

「工場長就任後一か年も経たぬうちに、今度は名古屋発動機へ、工作技術部第一設計課長として転任を命ぜられ、十八年四月にも家族も引纏めた。
 名古屋における空襲は昭和十九年十二月から開始され、名発の大幸工場は十三日に第一回大爆撃を受けた。私はその頃、二つの課の課長をしており、部下から実に多数の死傷者を出した。この中に若い女性が多数含まれており、後で述べる部品工場と言い名古屋と言い、若い女性に対して長として相済まぬ気がしている。これを皮切りに空襲が頻々と相次ぎ、本工場では仕事にならぬので、工作技術部設計部門が纏って市の郊外にある中学校校舎に移転し、ついでに二十年三月には京都市の中学校舎に疎開した。-略-」

戦争になるということは、ヒロシマ・ナガサキに限らない……。
大変なことになってしまう……。

しかし、そんな時にも、料亭にいた人たちもいる……。
--ビールを飲み、すき焼きを食べていた人もいる……。

「戦争は究極の差別」
--まさに、そうですね……。

--ちょうど25年を経た時だという。下「」引用。

「長らく米国に秘められて居た原爆カラー記録映画の日本でのテレビ放送といい、又今まで奇しくも民間に埋もれて居た永井博士等による「長崎医大原子爆弾救護報告」の発見と公表(七月二十五日附週刊朝日臨時増刊号)といい、このところ立て続けに発表される当時の記録は、我々を感慨のるつぼにに叩き込まずには置かないのである。-略-」

すぐには発表できなかった……。
これも歴史であるし、理解しないと、おかしなことになってしまうでしょうね……。

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常清高女というのがあったという……。下「」引用。

「常清高女はカトリック・ミッション・スクールであり、その建物は木造であったので、原爆により瞬時にして倒壊焼失した由で、妻の同僚だった教員も大部分が死亡し、僅か二名だけが生存者であった。童貞女杉本先生は隣のモ工場で殉職された由である。妻の教え子達も大部分浦上の住人であったから、殆ど全部が、或いは教室で、或いは工場で、或いはまた自宅でなくなって了ったことだろう。」

純心高女のことも書かれてありました。下「」引用。

「純心高女もカトリック・ミッション・スクールであるが、部品本工場の東方約四百米位の所に数年前に出来たものである。校長は妻の女高師三年先輩の方で、親しくゆききしていた方だが、当日は倒壊した木材の下敷きになりながら奇蹟的に救い出され、その後は元気に活躍されている由である。先にも触れた同高女の音楽教師で三菱長崎合唱団の伴奏者をして下さった牛津綾子先生は、身体の都合から疎開されておって難を免れた。数少ないなぐさめの一つである。」











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