『教科書に書かれなかった戦争Part 14 「陣中日誌」に書かれた慰安所と毒ガス』
高崎隆治・著/梨の木舎1993年
「まえがき」で書かれてあります。下「」引用。
「-略-公的な「陣中日誌」が世にでることはきわめて稀である。まして、慰安所や毒ガスのことがこれほど繰り返し記載された陣中日誌は、過去に一度もない。
公的な陣中日誌は、作戦なり討伐なりの終了後に提出することになっている「戦闘詳報」や「行動詳報」、あるいは「功績書」などの下書きないしは心覚えという性質のものである。つまり、いつ、どこで、誰が、どうしたか、ということを正確に書きとめておかねばならない。だから、不都合な問題であっても、日誌担当者(書き手)によって記録される。-略-
この日誌は、日本の軍隊が慰安所に直接関与していたことや、毒ガスを使用していたことを証拠づける新たな資料である。村の掃討、中国人住民の虐殺、食糧の掠奪などをほしいままにしていた日本の軍隊の実像を、若い人たちに知ってほしいと思う。
なお、ひとことだけつけ加えておけば、歩兵第六五連隊は、南京攻略において、幕府山付近で一万数千の捕虜を虐殺したとみられる問題の部隊である。この日誌は南京事件をひきおこした部隊の後日譚という角度からも読んでほしい。」
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「はじめて登場する「慰安所」(一九三八年九月一六日)。下「」引用。
「ところで、序章で記したように、一九三八年一月から始まったこの陣中日誌に、ここで、慰安所・慰安員という言葉が初めてでてくる。-略-今日の帆前船で慰安所の慰安員が七十人程寿県に来たそうだが、その方より早く酒保を開いてビールか日本酒を販売してほしい。」
利用規定があったという。下「」引用。
「一般に、慰安所の利用規定なるものは、兵士は午前、下士官は午後、そして将校は夜ということになっている。」
下士官以上だけが、有効? に使えたという……。下「」引用。
「いや、休養日といえども、兵士の過半数は警備や使役や当番等々の勤務で、自由に外を出歩くことなど不可能なのだ。だから彼らは、勤務があるにもかかわらず、慰安所へ行って、憲兵や巡察将校につかまり、勤務怠慢という理由で重営倉にぶち込まれることになる。
つまり、慰安所を一○○パーセント有効に使っていたのは、ただの兵士たちではなく、軍規を逸脱してまで特権を行使していた下士官以上の者だということである。」
軍属としての表現……。下「」引用。
「それよりも考えなければならないのは内藤曹長の記述である。日誌の中で彼はしばしば「慰安隊」とか「慰安員」という言葉を用いている。この言葉はやがて変化するが、前後の文脈からみて、彼はけっして冗談で用いていない。
そこには、内藤曹長が慰安婦を、内実はともかく、軍属または軍属に準ずる者として捉えているの片鱗が表出されている。-略-おそらく、上級のだれか--がそういう言葉を使い、その言葉どおりに日誌に記したのであろう。つまり、「七十名」の慰安婦たちは軍隊が直接管理する女性たちで、南京攻略戦終了の半年後のこの時点では、慰安所のほとんどが軍隊直営のものであったにちがいないのである。そうでなければ、「慰安隊」とか「慰安員」という言葉は出てこない。」
「慰安隊を招き夜を徹し飲む」(一九三八年六月二五日)。
--そして、二日酔いで翌日には朝から風呂に入るという。
「小さな村にもあった慰安所」……。
「裸体慰安所」というのもあったようだ……。
「あってもないに等しい軍規」 下「」引用。
「中隊の幹部が幹部としての指導をしないから兵隊たちがいいかげんなことをやるのだという。おそらくそれは当たっているだろう。」
「帝国軍隊はアルコール漬け」 下「」引用。
「酒を飲む習慣を持たない者もアルコールなしでは生きられないようになってしまうのも当然のような気がしてくる。念のために、七月一日から一カ月間の第一一中隊の配給情況を調べてみるとことにする。わかりきったことだが、配給品は無料で、酒保とは別だから兵隊に個人負担がかかることはない。-略-」
--「実施されたガス教育」
「毒ガス使用の疑い(一九三九年五月一九日)」 下「」引用。
「-略-そもそも、なんの変哲もないごく普通の歩兵中隊に無線班が配属されるということ自体がありえないことで、もしあるとすれば、その中隊はよほど特殊な任務をもっていると考えねばならない。-略-「遺棄死体二○」というのは、中隊にとって、過去に一度もない「大戦果」なのである。遺棄死体は、二~三人あれば「戦果」をあげたほうで、普通はゼロのほうが多いのだ。」
そして、こんなことも……。下「」引用。
「いささか哀れな感じがしないでもないが、顔の痛みや目の出血は、七月末の討伐戦での毒ガスと関係があるのではないかと疑われる。」
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「三井物産へ行つて買物をする」(一九三九年八月二九日)。下「」引用。
「八月二九日の日誌には「三井物産へ行って買い物をする」という記述があり、また内藤曹長が勤務していた東京の大手の私鉄が、近く武漢地区に進出して漢口自動株式会社という連絡船とバスの会社を設立するという記述(八月一八日)などもある。戦争は、軍需企業という権力や軍部と一体になった武器弾薬の製造やその関連工場が必須だが、商社も私鉄も、広い意味で日本のあらゆる企業が侵略の歯車の一つに組み込まれていたのである。」
--当時の「日本政府」の考え。下「」引用。
「ところで、従軍慰安婦問題に関して、元慰安婦たちはもはや高齢で、亡くなってしまえば、なんの証拠もないという考え方が一部にあるが、その考えに私は反対である。それは日本政府の考え方であり、政府が敏速に対応せずのらりくらりの態度でいることの根底には、そういう考えがあるからだ。私自身は記録として残された証拠を求めることで、問題の究明は可能だと考える。」
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もくじ
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高崎隆治・著/梨の木舎1993年
「まえがき」で書かれてあります。下「」引用。
「-略-公的な「陣中日誌」が世にでることはきわめて稀である。まして、慰安所や毒ガスのことがこれほど繰り返し記載された陣中日誌は、過去に一度もない。
公的な陣中日誌は、作戦なり討伐なりの終了後に提出することになっている「戦闘詳報」や「行動詳報」、あるいは「功績書」などの下書きないしは心覚えという性質のものである。つまり、いつ、どこで、誰が、どうしたか、ということを正確に書きとめておかねばならない。だから、不都合な問題であっても、日誌担当者(書き手)によって記録される。-略-
この日誌は、日本の軍隊が慰安所に直接関与していたことや、毒ガスを使用していたことを証拠づける新たな資料である。村の掃討、中国人住民の虐殺、食糧の掠奪などをほしいままにしていた日本の軍隊の実像を、若い人たちに知ってほしいと思う。
なお、ひとことだけつけ加えておけば、歩兵第六五連隊は、南京攻略において、幕府山付近で一万数千の捕虜を虐殺したとみられる問題の部隊である。この日誌は南京事件をひきおこした部隊の後日譚という角度からも読んでほしい。」
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「はじめて登場する「慰安所」(一九三八年九月一六日)。下「」引用。
「ところで、序章で記したように、一九三八年一月から始まったこの陣中日誌に、ここで、慰安所・慰安員という言葉が初めてでてくる。-略-今日の帆前船で慰安所の慰安員が七十人程寿県に来たそうだが、その方より早く酒保を開いてビールか日本酒を販売してほしい。」
利用規定があったという。下「」引用。
「一般に、慰安所の利用規定なるものは、兵士は午前、下士官は午後、そして将校は夜ということになっている。」
下士官以上だけが、有効? に使えたという……。下「」引用。
「いや、休養日といえども、兵士の過半数は警備や使役や当番等々の勤務で、自由に外を出歩くことなど不可能なのだ。だから彼らは、勤務があるにもかかわらず、慰安所へ行って、憲兵や巡察将校につかまり、勤務怠慢という理由で重営倉にぶち込まれることになる。
つまり、慰安所を一○○パーセント有効に使っていたのは、ただの兵士たちではなく、軍規を逸脱してまで特権を行使していた下士官以上の者だということである。」
軍属としての表現……。下「」引用。
「それよりも考えなければならないのは内藤曹長の記述である。日誌の中で彼はしばしば「慰安隊」とか「慰安員」という言葉を用いている。この言葉はやがて変化するが、前後の文脈からみて、彼はけっして冗談で用いていない。
そこには、内藤曹長が慰安婦を、内実はともかく、軍属または軍属に準ずる者として捉えているの片鱗が表出されている。-略-おそらく、上級のだれか--がそういう言葉を使い、その言葉どおりに日誌に記したのであろう。つまり、「七十名」の慰安婦たちは軍隊が直接管理する女性たちで、南京攻略戦終了の半年後のこの時点では、慰安所のほとんどが軍隊直営のものであったにちがいないのである。そうでなければ、「慰安隊」とか「慰安員」という言葉は出てこない。」
「慰安隊を招き夜を徹し飲む」(一九三八年六月二五日)。
--そして、二日酔いで翌日には朝から風呂に入るという。
「小さな村にもあった慰安所」……。
「裸体慰安所」というのもあったようだ……。
「あってもないに等しい軍規」 下「」引用。
「中隊の幹部が幹部としての指導をしないから兵隊たちがいいかげんなことをやるのだという。おそらくそれは当たっているだろう。」
「帝国軍隊はアルコール漬け」 下「」引用。
「酒を飲む習慣を持たない者もアルコールなしでは生きられないようになってしまうのも当然のような気がしてくる。念のために、七月一日から一カ月間の第一一中隊の配給情況を調べてみるとことにする。わかりきったことだが、配給品は無料で、酒保とは別だから兵隊に個人負担がかかることはない。-略-」
--「実施されたガス教育」
「毒ガス使用の疑い(一九三九年五月一九日)」 下「」引用。
「-略-そもそも、なんの変哲もないごく普通の歩兵中隊に無線班が配属されるということ自体がありえないことで、もしあるとすれば、その中隊はよほど特殊な任務をもっていると考えねばならない。-略-「遺棄死体二○」というのは、中隊にとって、過去に一度もない「大戦果」なのである。遺棄死体は、二~三人あれば「戦果」をあげたほうで、普通はゼロのほうが多いのだ。」
そして、こんなことも……。下「」引用。
「いささか哀れな感じがしないでもないが、顔の痛みや目の出血は、七月末の討伐戦での毒ガスと関係があるのではないかと疑われる。」
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「三井物産へ行つて買物をする」(一九三九年八月二九日)。下「」引用。
「八月二九日の日誌には「三井物産へ行って買い物をする」という記述があり、また内藤曹長が勤務していた東京の大手の私鉄が、近く武漢地区に進出して漢口自動株式会社という連絡船とバスの会社を設立するという記述(八月一八日)などもある。戦争は、軍需企業という権力や軍部と一体になった武器弾薬の製造やその関連工場が必須だが、商社も私鉄も、広い意味で日本のあらゆる企業が侵略の歯車の一つに組み込まれていたのである。」
--当時の「日本政府」の考え。下「」引用。
「ところで、従軍慰安婦問題に関して、元慰安婦たちはもはや高齢で、亡くなってしまえば、なんの証拠もないという考え方が一部にあるが、その考えに私は反対である。それは日本政府の考え方であり、政府が敏速に対応せずのらりくらりの態度でいることの根底には、そういう考えがあるからだ。私自身は記録として残された証拠を求めることで、問題の究明は可能だと考える。」
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