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現代神道研究集成 3 神道史研究編 2

2011年02月13日 | 読書日記など
『現代神道研究集成 3 神道史研究編 2』
   現代神道研究集成編集委員会・編/神社新報社1998年

吉田神道にかかわることが、わりと書かれてありました。



■目 次■
IV 近世
白川・吉田の神職支配 土岐昌訓  21
吉田家関東役所の創立と初期の活動 椙山林継  43
白川家門人帳について 金光真整  99
近世神道の序幕 岡田荘司  137
津和野藩の神葬祭復興運動と心霊研究 加藤隆久  175
神道宗門 西田長男  207
近世南宮神社社僧小考 秋元信英  289
V近現代
神武天皇陵修補過程の一考察 武田秀章  319
明治維新と神道 阪本健一  355
神祇官復興論 藤井貞文  405
明治以後神社法制史の一断面 西田広義  471
井上毅の構想と内務省の政策 新田均  551
国家神道体制の成立と展関 阪本是丸  599
神道指令の起草過程 大原康男  635
天子非即神論 折口信夫  693
折口信夫の戦後神道論 茂木貞純 701
 解説  729
 編集後記  751


「吉田家関東役所の創設と初期の活動」椙山林継・著。下「」引用。

「椙山林継は昭和十五年生。現在国学院大学日本文化研究所教授。-略-
 『林忠日記』に吉田家役所創立のことが所見するのは寛政元年七月条であり、同役所が開設されるに至ったのは寛政三年十二月二十三日のことであった。椙山によれば、関東役所開設の背景には、吉田家の支配拡大という動機のほか、林忠はじめ在地神職からの要請も少なからず作用していた。この当時、在地神職の上京に要する社家の経済的・時間的負担は多大なものがあった。吉田家関東役所開設は、神職のそうした負担を軽減、関東出先を求める在地神職の実際的必要性に応へる措置でもあったのである。-略-」

葬礼と秀吉・家康。下「」引用。

「このような吉田流の葬礼・霊社創建は豊臣秀吉・徳川家康の葬礼・人神報祀に直接の影響を与えた。秀吉は豊国社に、家康は久能山東照社に神として葬られるが、その葬儀は、いづれも神龍院梵瞬の関与を通じて、吉田流葬祭の様式を踏襲するものであった。下って萩原兼従・保科正之等、近世初頭の代表的な神葬祭も、共に吉田家葬礼の影響下においては行われたのである。」

江戸初期まで混乱状態……。下「」引用。

「吉田兼倶は諸国の神社に対し私的に神位・神号を授与していることからして、神職許状もまた授与したかとの推測が容易なものの、其の確証はない。史料的に見る限りでは、『氏富記』の記載などを傍証として考え、吉田家の神職許状は或は天正年間(一五七三~九二)以来のことかともいわれて来る。然し室町末期の戦乱の世において、神職の補任はまったくその秩序を闕き、諸国の著名大社では微力小社の神職を意のままに支配したという事実も指摘され、同じころ白川・吉田の両家もまた神職許状を当然授与していたであろうと考えるのが至極穏当であり、その様な一種の混乱状態は江戸初期まで続いたものとみられる。」

吉田家と白川家……。下「」引用。

「そして結果的には、社有門人に関する限り吉田家との勢力差は最後まで残った。白川家は幕末の急追にもかかわらず、明治初年の終局的段階に至ってもなお吉田家を追い越し得なかったと見て差支えなかろう。」

吉田家の神学校。下「」引用。

「寛政九年三月、吉田家の神学校(神学室)を江戸に設立する話が起り、同年諸国神職取締りについて「出役」の方法がとられ、その役人の詰所が合わせ置かれることになった。
 この時、杉山林忠、宮川大膳、桑原左衛門の三名が中心となり、翌寛政十年暮頃に詰所を開いた。さらに寛政十一年には、この下他にの詰所へ「江戸役所」を合併することになる。」

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