磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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縮景園史

2009年01月31日 | 読書日記など
『縮景園史』
   広島県教育委員会・編/広島県教育委員会1983年

ヒロシマの文献を読んでいると、「縮景園」はよく出てきます。
--名勝も一日してならずですね。
文化財としても、大切なものですね……。
漢詩なども掲載されていました。



「序文」に書かれてあります。下「」引用。

「昭和二十年原子爆弾の投下により、一瞬のうちに灰じなんと帰した国指定名称縮景園は、その後計画的に整備を進め今日ほぼ戦災前の状態に復することができました。
 このたび園歴三百六十余年を誇る広島県縮景園の園史を発刊し、永くその記録を保存することといたしました。
 この名称縮景園が、多くの県民のかたがたに親しまれ、広く文化活動の場として活用されるとともに、この園史が、本県の文化振興の一助になることを念願いたします。
   昭和五十八年三月
    広島県教育委員会
       委員長 熊平肇」

「発刊に寄せて」下「」引用。

「このたび、園歴三百六十余年を誇る名称縮景園の園史が発刊されることになりました。
 縮景園は、近世初期、浅野家の庭園として造られ、その後幾多の文化的変遷を重ねてまいりましたが、太平洋戦争の戦禍をうけ、原子爆弾のために一瞬のうちに灰じんに帰しました。
 戦後、復旧整備につとめ、今日では文化の園、憩いの園として、広く県民に親しまれ、本県の価値ある文化遺産の一つになっております。
 これからも明るい豊かな心を育み、多くの人びとに愛される縮景園となりますよう、この資料が活用され、本県文化振興に役立つことを心から願うものであります。
   昭和五十八年三月
    広島県教育委員会
      教育長 田所諭」

様子……。下「」引用。

「縮景園はその地割りによって、人に実際の面積の幾倍もの広さを感じさせるところや、各部分が変化に富み、散策するうちに、深山幽谷にあるいは海浜にあるかのような念を抱かせるところに特徴がある。私は夕照庵附近から跨虹橋、清風館方面を見た風景や、明月亭からの二葉山の遠望、さらに超然居から観瀾橋あたりにかけての中国的手法が特に好きである。ただ近年になって周辺の建築物により、借景が害されたことは残念であるがこれも時代の流れゆえいたし方あるまい。」

「大名庭園としての縮景園の築成」されたという。

「「縮景園」の称の由来」 下「」引用。

「「縮景園」という名称は、幕府の儒官として高名な林羅山が藩主光晟の依頼に応じて作った詩の序文に、「海山をその田に縮め、風景をこの楼に聚む」(原漢文)とあるのにもとづくともいわれる(芸文八参照)。」

「浅野家から県へ寄付」されたという。下「」引用。

「昭和十四年(一九三九)十二月十二日、浅野家は広島県に対して縮景園および観古館の寄贈を申し出た。県は関係者に諮って保存および利用の方法を講じ、翌十五年四月正式に受納したのである。」

「二 原子爆弾投下と縮景園」 下「」引用。

「被爆時の縮景園 昭和二十年八月六日、-略-
 当時、縮景園には、第二総軍司令部付情報参謀大屋角造中佐指揮下の海外通信傍受所が置かれており、「アメリカ移民二世」の婦人二○人が海外放送を受信していた。市街地の家屋はほとんど倒壊し、ひきつづいて火災が発生し、火の海となった。建物の下敷きとなった人や重傷者は助ける方法もなく、多くの人々は避難場所をもとめてさまよった。屋外にいた人々はほとんど亡くなったといわれている。
 縮景園は、被災時の避難場所として絶好とみられていたので、たちまちにおびただしい被災者が埋まった。襲ってくる轟音の中で、園池の水をもとめた人々の死体が重なっていった。午後二時ごろになると園内の森が燃えはじめ、木から木へ火の燃えうつる音がものすごかった。同時に竜巻がおこり、地上の木切れ、枝切れ、トタンなどが百メートルも高く巻き上げられ、対岸の大須賀方面の河原へ落ちた。火に追われるように川を渡って逃げまどう状況がみられた。舟で川を渡る人もあったが、泳いで渡ろうとした人はほとんど亡くなったという。園の裏土手では、すでに動けなくなった人、死んでいる人がおり重なって、足の踏み入れ場もないほどであった。その後も当分の間園の中や、その前の松原へは、軍が罹災者のためにバラックを急造し、十数世帯が生活を営んでいた。現在のどかなたたずまいをみせるこの庭園でも、多くの人々の尊い生命が奪われた「ヒロシマの悲劇」があった。」








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