磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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遠野物語の原風景

2011年07月03日 | 読書日記など
『遠野物語の原風景』
   内藤正敏・著/筑摩書房1994年

「聞き書き遠野物語」(新人物往来社 1978年刊)の改題



佐々木喜善(鏡石)と柳田國男。下「」引用。

「こうして佐々木喜善(鏡石)が語った話は柳田國男によってまとめられ、『遠野物語』として明治四十年に出版された。-略-
 喜善が柳田國男と知り合うのは、早稲田の学生の時に、同じ下宿にいた新進作家・水野葉舟の紹介だった。柳田國男と佐々木喜善の出会いは、柳田に日本民俗学を誕生させる契機となった点で劇的だつたが、佐々木喜善の一生もそれ以上に劇的であった。-略-」

ペンネームの鏡石。下「」引用。

「泉鏡花を敬愛してつけたもので、上京すると鏡花の家を訪ねている。」

大本教とバハイ教。下「」引用。

「大本教は大正十一年(一九二二)からバハイ教と接触していた。バハイ教は一八四四年にペルシア(イラン)で起った新宗教で、社会と精神界の改造を目的としており、当時、広く世界各地に普及しつつあった。」

宮沢賢治と佐々木喜善。下「」引用。

「昭和七年四月十三日、喜善は賢治のもとを訪れ、三、四時間にわたって、エスペラント、民話、宗教について語りあい、喜善は賢治のことを「大した人物だ」とくり返し家人に語っていたという(堀尾青史『宮沢賢治年譜』筑摩書房、一九九一年)。おそらく二人の間で話しあわれた宗教の話とは、賢治は国柱会の救世思想や「新信行」の宇宙的生命観、喜善は大本教の救世思想や万教同根の世界宗教などの話などであったと思われる。
 -略-しかも二人は同時代を生きた同じ岩手県人である。二人の出会いは、昭和三年に賢治の書いた「ざしき童子のはなし」を転載させてほしいと、喜善が頼んだのがはじまりだった。以後、賢治は喜善に対して、敬意をはらって接したという。賢治が結核で死亡した八日後、喜善も病死した。-略-」

宮沢賢治とアインシュタイン。下「」引用。

「この石原純とは、東北帝国大学理工学部教授で、チューリッヒ工科大学でアインシュタインに学び、アララギ派の歌人としても知られていた。石原は『改造』誌上にたびたび相対性理論について書いており、日本のアインシュタインブームの火つけ役をはたした人物である。喜善が読んだという論文というのも『改造』に載ったものと思われる。宮沢賢治も『改造』を愛読しており、彼の相対性理論の理解も多くも同誌を通してではないかと考えられる。」

宮沢賢治の死。下「」引用。

「喜善の死に先立つこと八日前の九月二十一日、宮沢賢治が死亡したが、新聞でも華々しく扱われて喜善の死とは対照的であったということである。」

伝説がさらに伝説を……。下「」引用。

「終には夫や家人が居ても来るようになるのは物語化が進んでいるが、生れた子供がカッパの子だったので斬り刻んで棄てたというのは、例のカッパの子殺し事件とまったく同じパターンなのに気づく。つまりこういう『遠野物語』にみるような伝説がさらに新しい伝説を生みだすといった形で、伝説の再生産がおこなわれているのだ。」

裏表紙に書かれてあります。下「」引用。

「「願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」
日本民俗学の出発(たびだち)を告げる記念碑的作品『遠野物語』の世界を“金属民俗学”と“修験道”の視点から読み解く。山から山へ渡り歩く山伏や聖などの山岳宗教者集団、金掘りや山師などの金属技術者集団、彼らは里に定住した農民の歴史からは忘れられ消される運命にあった。その消された伝説や民族の痕跡をつなぎあわせ、山神山人の戦慄すべき怪異譚の深層を浮上させる。解説 山折哲雄」










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