『天皇の軍隊と日中戦争』
藤原彰・著/大月書店2006年
著者は亡くなられ、その追悼文が掲載されていました……。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/44/0e96a83d592f4035b7cece148e174a47.jpg)
「武力侵略をすすめるためには、優越感と差別意識が必要」
--「脱亜入欧」。下「」引用。
「このアジア蔑視が、日清・日露戦争の勝利と、その後の中国侵略の進展によってさらに加重されたのである。」
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金科玉条、服従を強制……。下「」引用。
「服従を強制するために、命令に権威を持たせることが必要であった。軍人勅諭の中の「下級のものは上官の命を承ることは実に朕が命を承る義なりと心得よ」という言葉が金科玉条とされ、その遵守を求められたのである。命令に関しては、是非や合理性を問題にすることは許されず、無条件で服従することが要求され、「抗命」は重い軍刑法犯罪とされていた。」
親告罪であったレイプ。下「」引用。
「強姦が刑法による親告罪であるので、被害者が訴え出ることが少なく、事件となるのが少ないのである。また幹部の中には、事件になると面倒だから、強姦したあと殺してしまえと指導する者が多かったとも語れている。事件化したのは、九牛の一毛に過ぎなかったといえるであろう。」
義兵が各地にいた朝鮮。下「」引用。
「もちろん朝鮮人民はやすやすと日本の植民地になったのではありません。一九○七年に日本が強制的に朝鮮の軍隊を解散させると、それに逆らって義兵が各地に蜂起しました。そしてそれが住民と共に日本の侵略に対して抵抗したのです。これに対して日本は山の中のをすべて焼き払ってしまって、ゲリラが潜む拠点をなくす。さらに平地に集団を作って、そこに日本軍を駐屯させて、徹底した分散配置でこれを鎮圧するという方法を取って、朝鮮の併合を一九一○年に成し遂げたのです。」
問題残る……。下「」引用。
「捕虜を殺したり、家を焼いたり、強姦したりした。国家間の戦争賠償は放棄しても、故人のそういう被害に対する弁償を中国側が国として放棄しているわけではないということはここではっきりしていることです。そういう問題が残っているわけです。」
南京より大きい……。下「」引用。
「日中戦争間の日本軍の大規模な残虐行為として知られるのは南京大虐殺であり、その在否や規模をめぐり論争が行われてきた。しかし残虐行為としての本質からいっても、犠牲者の人数からいっても、それ以上に深刻で、しかも規模が比較にならないくらい大きいのが、華北の共産党軍根拠地にたいして、日本軍が行った燼滅掃蕩作戦である。中国側では、日本軍の抗日根拠地にたいするこの作戦をさして、「焼光」(焼きつくす)、「槍光」(奪いつくす)、「殺光」(殺しつくす)の「三光政策」とか、「三光作戦」と呼んだのである。」
もくじ
日本軍自身は使わなかった「三光作戦」という言葉。下「」引用。
「もちろん日本軍が「三光作戦」という言葉を使ったわけではない。それどころか北支那方面軍司令官官岡村寧次大将は、一九四三年四月に方面軍全将兵に配布した小冊子『国民政府の参線と北支那派遣軍将兵』の中で、「焼かず、犯さず、殺さず」の三戒を、全将校の心得として諭していたのである。しかしその北支那方面のこの時期の抗日根拠地掃滅作戦が、まさに「三光」と呼ばれるにの相応しい内容の作戦であったのである。」
存在していた「三光作戦」。下「」引用。
「一九四○年後半にはじまり、四一年に本格化し、四二年、四三年に絶頂に達したのである。このような一定地域を燼滅し、住民を虐殺することを内容とした作戦が、なぜ計画され、どのように実行されたかを以下で検討する。」
毒ガス戦。下「」引用。
「さらにこの作戦で注目すべきことは、日本軍が撤退にさいし、根拠地に大量のびらん性毒剤である「きい一号」を撒布し、復帰してきた共産党軍や住民に、無差別の被害を与えたことである。
日中戦争にさいし、日本軍が「あか筒」「あか弾」などのくしゃみ性毒ガスを大規模に使用してきたことは、すでに多くの史料によって明らかにされている。さらにびらん性の「きい剤」についても、一九三九年五月一三日の北支那方面軍にたいする大陸指第四五二号で、山西省内の僻地において使用することを指示しており、実際に幾つもの使用例がある。この大行地区粛正作戦において、きい剤を大量に撒布したことについては、「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」(陸軍習志野学校)に次のような史料がある。-略-」
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ところで、サイト記事でこの本に対するこんな批判が書かれてあります。
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もくじ
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藤原彰・著/大月書店2006年
著者は亡くなられ、その追悼文が掲載されていました……。
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「武力侵略をすすめるためには、優越感と差別意識が必要」
--「脱亜入欧」。下「」引用。
「このアジア蔑視が、日清・日露戦争の勝利と、その後の中国侵略の進展によってさらに加重されたのである。」
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金科玉条、服従を強制……。下「」引用。
「服従を強制するために、命令に権威を持たせることが必要であった。軍人勅諭の中の「下級のものは上官の命を承ることは実に朕が命を承る義なりと心得よ」という言葉が金科玉条とされ、その遵守を求められたのである。命令に関しては、是非や合理性を問題にすることは許されず、無条件で服従することが要求され、「抗命」は重い軍刑法犯罪とされていた。」
親告罪であったレイプ。下「」引用。
「強姦が刑法による親告罪であるので、被害者が訴え出ることが少なく、事件となるのが少ないのである。また幹部の中には、事件になると面倒だから、強姦したあと殺してしまえと指導する者が多かったとも語れている。事件化したのは、九牛の一毛に過ぎなかったといえるであろう。」
義兵が各地にいた朝鮮。下「」引用。
「もちろん朝鮮人民はやすやすと日本の植民地になったのではありません。一九○七年に日本が強制的に朝鮮の軍隊を解散させると、それに逆らって義兵が各地に蜂起しました。そしてそれが住民と共に日本の侵略に対して抵抗したのです。これに対して日本は山の中のをすべて焼き払ってしまって、ゲリラが潜む拠点をなくす。さらに平地に集団を作って、そこに日本軍を駐屯させて、徹底した分散配置でこれを鎮圧するという方法を取って、朝鮮の併合を一九一○年に成し遂げたのです。」
問題残る……。下「」引用。
「捕虜を殺したり、家を焼いたり、強姦したりした。国家間の戦争賠償は放棄しても、故人のそういう被害に対する弁償を中国側が国として放棄しているわけではないということはここではっきりしていることです。そういう問題が残っているわけです。」
南京より大きい……。下「」引用。
「日中戦争間の日本軍の大規模な残虐行為として知られるのは南京大虐殺であり、その在否や規模をめぐり論争が行われてきた。しかし残虐行為としての本質からいっても、犠牲者の人数からいっても、それ以上に深刻で、しかも規模が比較にならないくらい大きいのが、華北の共産党軍根拠地にたいして、日本軍が行った燼滅掃蕩作戦である。中国側では、日本軍の抗日根拠地にたいするこの作戦をさして、「焼光」(焼きつくす)、「槍光」(奪いつくす)、「殺光」(殺しつくす)の「三光政策」とか、「三光作戦」と呼んだのである。」
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日本軍自身は使わなかった「三光作戦」という言葉。下「」引用。
「もちろん日本軍が「三光作戦」という言葉を使ったわけではない。それどころか北支那方面軍司令官官岡村寧次大将は、一九四三年四月に方面軍全将兵に配布した小冊子『国民政府の参線と北支那派遣軍将兵』の中で、「焼かず、犯さず、殺さず」の三戒を、全将校の心得として諭していたのである。しかしその北支那方面のこの時期の抗日根拠地掃滅作戦が、まさに「三光」と呼ばれるにの相応しい内容の作戦であったのである。」
存在していた「三光作戦」。下「」引用。
「一九四○年後半にはじまり、四一年に本格化し、四二年、四三年に絶頂に達したのである。このような一定地域を燼滅し、住民を虐殺することを内容とした作戦が、なぜ計画され、どのように実行されたかを以下で検討する。」
毒ガス戦。下「」引用。
「さらにこの作戦で注目すべきことは、日本軍が撤退にさいし、根拠地に大量のびらん性毒剤である「きい一号」を撒布し、復帰してきた共産党軍や住民に、無差別の被害を与えたことである。
日中戦争にさいし、日本軍が「あか筒」「あか弾」などのくしゃみ性毒ガスを大規模に使用してきたことは、すでに多くの史料によって明らかにされている。さらにびらん性の「きい剤」についても、一九三九年五月一三日の北支那方面軍にたいする大陸指第四五二号で、山西省内の僻地において使用することを指示しており、実際に幾つもの使用例がある。この大行地区粛正作戦において、きい剤を大量に撒布したことについては、「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」(陸軍習志野学校)に次のような史料がある。-略-」
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ところで、サイト記事でこの本に対するこんな批判が書かれてあります。
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