『シリーズ・戦争の証言7 戦火に生きた父母たち-東京泉南中 生徒の記録 聞き書き-』
小林桂三郎・編/太平出版社1979年
中学生が戦争体験のある人から戦争の話をきいて書いたものです。
--ヒロシマ・ナガサキのことも取り上げられています……。
■目次・主なものだけ■
I 疎開先の父母たち 22
II 沖縄戦の中の母 66
III 空襲の中の母たち 84
(*ヒロシマ・ナガサキを含む)
IV 「銃後の守り」の中の父母たち 130
V 軍隊の中の父たち 158
VI 海外引揚げと父母たち 216
中学生と戦争体験の継承--あとがきに代えて 小林桂三郎 243
学童集団疎開で、田植え……。
足にヒルがついていたという……。
戦争とは……。下「」引用。
「母から戦争体験を聞いたわたしは、その時の母の熱っぽいまなざしを思いうかべながら、今、ひとり静かに考えている。戦争っていったいなんだろう。ある人は、「悪の卵を産む、黒いめんどりだ。」と言う。ある人は、「人間のうみだす最悪のものだ。」と言う。けれども、私は、ただ単に、それだけで言いきれるものではないと思う。人間にとって必要な、「愛」「平和」「笑い」--そういうものをすべて奪い取ってしまうものが戦争なのだ。人と人とが憎しみ合い、殺し合う、そんな恐ろしいものが戦争なのだ。-略-」
それぞれの人生が……。下「」引用。
「母の二十歳の姉は結核だったので、東京の病院に検診に行かなければならなかったから、佐賀への疎開はとりやめ、たったひとりで熱海で静養していた。そして空襲の三日ほど前から東京の家に帰っていたために、この姉も全く不運な犠牲者になってしまった。すぐ上の陽気な兄も、中学三年で短い命を散らした。工業地帯である本所が攻撃目標になることは、母の両親も覚悟していたのだが、家は焼けても、自分たちが死ぬということなどはないと思っていた。しかし、それは人間だれしもが持つ希望的観測にすぎなかったのだ。」
ひさしぶりの家族……。下「」引用。
「久しぶりに、生き残った五人で、貧しい食卓を囲んだその晩は楽しいものであったが、かつての大家族
の食事時間のにぎやかさとは比較にならなかった。だれも口には出さなかったが、みんなの胸の中は悲しさでいっぱいだった、と母は言う。そして、母と中学一年の弟は、東京の学校に転入学した。」
入試もできなかったという……。下「」引用。
「入学試験も不可能であった。そこで、来春の合格者は、内申書で決められることになった。もっとも、母は、入試のことなどすっかり忘れていた。しばらくたったある日、担任の上原先生が、「合格ですよ。」と連絡に来てくれたが、あまりうれしくなかった。-略-」
食糧をうばっていく軍。下「」引用。
「こうした山の中の生活も、落ち着くことがなく、四度も住む場所を変えた。村の人たちもどこへひそんでいるのか、めったに会うことがなかった。食糧が心細くなってきたある日、区長さんがたずねてきてこう言った。「日本兵が食糧がなくて困っている。あすまでに集めて届けるようにとの命令がきたので、一軒一軒捜しあてて集めている。」軍の命令とあっては反対もできないので、母のおかあさんは、言われたとおり、命の綱の食糧を黙って渡した。母はそれを見た時、くやしくてくやしてくたまらなかった。」
「指--相模原造兵廠女子挺身隊」 下「」引用。
「しかし、医者は、「このまま付けておくと、あとで腐ってしまい、手首まで切断するようになる。」と言った。こうして三本の指を切りとった時は、みんな青くなってなんとも言いようのない気持ちだった。」
だけど工場で働くことは続けさせられる……。下「」引用。
「切断した傷は、皮をひっぱって縫い合わせた。そのためきれいになり、やがて退院した大山さんは元気をとりもどした。指を三本切断しても、挺身隊を解除されることもなかった。大山さんは事務にまわされ、残された二本の指にペンを持って毎日明るく働いた。-略-」
政治の悪さが第一……。下「」引用。
「わたしは、戦争の起こる原因は、政治の悪さが第一だと思う。政治というのは、わたしたちのためにあるはずなのに、その政治の悪さが戦争の原因の第一だということは、全く恥ずかしいことである。」
「七三一部隊--細菌部隊少年兵」 下「」引用。
「私たちはふたりは、父の話を聞いて、いろいろと話し合った。ドイツのユダヤ人大量虐殺は、一般によく知られているが、父の部隊や中国の日本軍も、捕虜や一般住民を殺したそうだ。今の世の中で、こんなことをしたらたいへんなことだ。この一事を見ても、戦争がいかにみにくく、残酷であるかということがよくわかる。-略-けれども、日本に外国の基地がある限り、戦争に巻き込まれるおそれは多分にあるのだ。だからこそ、戦争のみじめさを、私たちは認識しなければならないのだ。」
もくじ
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もくじ
小林桂三郎・編/太平出版社1979年
中学生が戦争体験のある人から戦争の話をきいて書いたものです。
--ヒロシマ・ナガサキのことも取り上げられています……。
■目次・主なものだけ■
I 疎開先の父母たち 22
II 沖縄戦の中の母 66
III 空襲の中の母たち 84
(*ヒロシマ・ナガサキを含む)
IV 「銃後の守り」の中の父母たち 130
V 軍隊の中の父たち 158
VI 海外引揚げと父母たち 216
中学生と戦争体験の継承--あとがきに代えて 小林桂三郎 243
学童集団疎開で、田植え……。
足にヒルがついていたという……。
戦争とは……。下「」引用。
「母から戦争体験を聞いたわたしは、その時の母の熱っぽいまなざしを思いうかべながら、今、ひとり静かに考えている。戦争っていったいなんだろう。ある人は、「悪の卵を産む、黒いめんどりだ。」と言う。ある人は、「人間のうみだす最悪のものだ。」と言う。けれども、私は、ただ単に、それだけで言いきれるものではないと思う。人間にとって必要な、「愛」「平和」「笑い」--そういうものをすべて奪い取ってしまうものが戦争なのだ。人と人とが憎しみ合い、殺し合う、そんな恐ろしいものが戦争なのだ。-略-」
それぞれの人生が……。下「」引用。
「母の二十歳の姉は結核だったので、東京の病院に検診に行かなければならなかったから、佐賀への疎開はとりやめ、たったひとりで熱海で静養していた。そして空襲の三日ほど前から東京の家に帰っていたために、この姉も全く不運な犠牲者になってしまった。すぐ上の陽気な兄も、中学三年で短い命を散らした。工業地帯である本所が攻撃目標になることは、母の両親も覚悟していたのだが、家は焼けても、自分たちが死ぬということなどはないと思っていた。しかし、それは人間だれしもが持つ希望的観測にすぎなかったのだ。」
ひさしぶりの家族……。下「」引用。
「久しぶりに、生き残った五人で、貧しい食卓を囲んだその晩は楽しいものであったが、かつての大家族
の食事時間のにぎやかさとは比較にならなかった。だれも口には出さなかったが、みんなの胸の中は悲しさでいっぱいだった、と母は言う。そして、母と中学一年の弟は、東京の学校に転入学した。」
入試もできなかったという……。下「」引用。
「入学試験も不可能であった。そこで、来春の合格者は、内申書で決められることになった。もっとも、母は、入試のことなどすっかり忘れていた。しばらくたったある日、担任の上原先生が、「合格ですよ。」と連絡に来てくれたが、あまりうれしくなかった。-略-」
食糧をうばっていく軍。下「」引用。
「こうした山の中の生活も、落ち着くことがなく、四度も住む場所を変えた。村の人たちもどこへひそんでいるのか、めったに会うことがなかった。食糧が心細くなってきたある日、区長さんがたずねてきてこう言った。「日本兵が食糧がなくて困っている。あすまでに集めて届けるようにとの命令がきたので、一軒一軒捜しあてて集めている。」軍の命令とあっては反対もできないので、母のおかあさんは、言われたとおり、命の綱の食糧を黙って渡した。母はそれを見た時、くやしくてくやしてくたまらなかった。」
「指--相模原造兵廠女子挺身隊」 下「」引用。
「しかし、医者は、「このまま付けておくと、あとで腐ってしまい、手首まで切断するようになる。」と言った。こうして三本の指を切りとった時は、みんな青くなってなんとも言いようのない気持ちだった。」
だけど工場で働くことは続けさせられる……。下「」引用。
「切断した傷は、皮をひっぱって縫い合わせた。そのためきれいになり、やがて退院した大山さんは元気をとりもどした。指を三本切断しても、挺身隊を解除されることもなかった。大山さんは事務にまわされ、残された二本の指にペンを持って毎日明るく働いた。-略-」
政治の悪さが第一……。下「」引用。
「わたしは、戦争の起こる原因は、政治の悪さが第一だと思う。政治というのは、わたしたちのためにあるはずなのに、その政治の悪さが戦争の原因の第一だということは、全く恥ずかしいことである。」
「七三一部隊--細菌部隊少年兵」 下「」引用。
「私たちはふたりは、父の話を聞いて、いろいろと話し合った。ドイツのユダヤ人大量虐殺は、一般によく知られているが、父の部隊や中国の日本軍も、捕虜や一般住民を殺したそうだ。今の世の中で、こんなことをしたらたいへんなことだ。この一事を見ても、戦争がいかにみにくく、残酷であるかということがよくわかる。-略-けれども、日本に外国の基地がある限り、戦争に巻き込まれるおそれは多分にあるのだ。だからこそ、戦争のみじめさを、私たちは認識しなければならないのだ。」
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