磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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戦時医学の実態-旧満洲医科大学の研究-

2010年09月08日 | 読書日記など
『戦時医学の実態-旧満洲医科大学の研究-』
  末永恵子・講演/
    軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・編/
      樹花舎2005年

ここでも、ずいぶんひどいことが行われたようです。
731部隊とも関わります……。



本書について。下「」引用。

「本書は二○○五年七月二三日、軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会が主催した人骨発見一六周年集会「戦時医学の実態--旧満州医科大学の研究」における末永恵子さんの講演に加筆・訂正を施したものです。」

医学犯罪の歴史を医学生に教える……。下「」引用。

「わたしは現在福島県立医科大学という医科大学でいわゆる一般教養科目の歴史と生命倫理を担当しています。私の研究の出発点は江戸時代の思想史でしたけれど、授業では歴史なら時代やテーマは何をやってもいいので、医学生にぜひ知ってほしいことを取り上げたいと思い、十五年戦争期の医学の問題を講義するようになりました。」

優雅で美しい建物。現在・中国医科大学として使用されているという。

国策・医学犯罪。下「」引用。

「戦争時の医学犯罪を考えるときには、まず七三一部隊が最初に挙げられます。しかし、医学研究者や軍医が関与した医学犯罪の裾野は広くて、日本軍全体にわたっていたことも明らかになってきました。その中で、帝国医学部や医科大学は、日本の医学アカデミズムが持つ特質の中枢として、しばしば批判されてきました。しかし、具体鼎な事例を俎上に見当された研究は少なく、個別の犯罪は隠蔽されたままの傾向が強かったことは否定しがたいのです。そうした事実の掘り起こしと、医学犯罪が生まれた背景や要因を追及する必要があります。このような関心から、一つの事例として満洲医科大学の歴史を掘り下げていきたいと思っています。」

満州医科大学について。下「」引用。

「満州医科大学とは、一九一一(明治四四)年旧奉天(現在の瀋陽市)に南満州鉄道株式会社(以下、満鉄)が創設した医学校である南満医学堂を前身とする医科大学です。一九二二(大正一一)年、大学に昇格して満州医科大学になり、一九四5年の日本敗戦と同時に制度上大学もおわりを迎えました(実際には一部授業は継続された)。」

後藤新平……。下「」引用。

「南満医学堂の設立の目的は、日中両国の学生に医学を教え、大陸で活躍する医師を妖精するというものでした。発案したのは、初代満鉄総裁後藤新平でする彼は植民地政策の中で医療・衛生を重要視し、病院や医学校の整備に熱心で、近代日本がはじめて手にした植民地台湾において台北医学校を創設しました。そしてそこでの植民地経営の手腕を買われて、次は「満洲」にやってきたのです。-略-」

日本人学生数441名、満州国人学生数269名。日本人の方が多い。

豊富な人体標本。下「」引用。

「満州医科大学の解剖学教室は自然人類額敵研究を精力的に行ったといえます。
 それは豊富な人体標本で研究を行ったことを誇るような次の文章からもうかがえます。-略-」

日本に帰り用いられた。「戦後も活用された組織標本」 下「」引用。

「また、解剖学教室教授で戦後横浜医大、広島大学医学部教授を歴任した鈴木直吉は、戦後においても満州医科大学の組織標本を利用し『器官組織額実習提要』(丸善出版、一九五二年)を出版しています。さらに、西成甫・藤田恒太郎・勝又正の共著『人体顕微解剖図説』(南江堂、一九五五年)の消化器系の附図には、全部満州医科大学が収集した標本が使用されました(鈴木直吉「因縁話」『柳絮地に舞ふ--満州醫科大学史編集委員会発行、一九七八年、二二~二四年ページ)。
 このように、満州医科大学でえた標本をもって業績をあげていることがわかります。解剖学に限らず、満州医科大学において教鞭とった基礎医学研究者の多くは、戦後も日本に帰り大学に就職しています。また、その師から学んだ卒業生も研究者として医科大学や医学研究機関に職を得ました。」

最初、墓荒らしをして標本収集。

「「新鮮な人の脳」を使った論文」 下「」引用。

「健全で健康なヒトの脳がなぜ手に入るのか? 仮に事故や刑死による遺体ならそのように書くのが科学論文のルールです。しかし、そのような言葉は全く出てきません。これが、鈴木解剖学教室が「主力を注で」取り組んだ脳の研究の内実だったのです。
 では、この研究は戦後に問題視されたことがあったのでしょうか? 満州医科大学のこの事件に対して社会的審判が下ることはほとんどありませんでした。日本の医学界も戦時中の非人道的研究を問題として取り上げませんでしたし、研究者自身も口を閉ざし、そのような研究論文を業績洲から外し隠蔽しようとしました。しかし、全国学界誌や専門の商業誌に掲載された論文自体は消すことはできません。」

愛新覚羅憲均。下「」引用。

「生体実験をした愛新覚羅憲均という清朝の王家の出身で、満州医科大学専門部の卒業生がいます。彼は「満州国」建国後かつぎあげられて、満州国軍衛生部の最高位につきました。戦後戦犯としての供述書には、自身の部下に抗日軍の患者を使って生体実験をすることを命じていたことが綴られています。-略-」

↑中国人の権力者も同じ中国人に生体実験を行った……。

差別が根底にあったが、多民族蔑視だけではなかったが事実では? 下「」引用。

「旧日本軍の軍医による生体解剖は、中国東北部に限らず日本が侵略していった地域で広く行われ、軍医の間ではいわば常識のように蔓延していたことが明らかになっています。そのような空気が、関東軍から指導を受けた満州国軍にも伝わったと解釈することができるかもしれません。
 要するに、医学犯罪の要件のように言われる多民族蔑視は必要条件ではないということです。」

横山正松「生体実験を拒否した生理学者」

関連記事 上 

人道に反するなら……。下「」引用。

「多くの大学教授も、川村のように弟子に「人道に反するなら断れ」とは言いませんでした。なぜなのか? そのことを掘り下げる必要性を感じています。個人のレベルだけではなく、社会、国家の問題としてなぜ「人道に反するなら断れ」と癒えないようになってしまっていたのか? イラク戦争のような国家レベルの非人道的行為を許してしまっている現代にも共通する問題です。」

戦後も府中監獄で。下「」引用。

「きちんと調べたわけではないのですが、高杉晋吾という人が、七三一部隊の隊員で戦後も活躍した人が府中の監獄で受刑者をつかって実験をやったと報告しています。戦中も戦前もやっていた可能性はあると思います。-略-」

新潟大学で。下「」引用。

「常石 -略-五○年代くらいまでは新潟大学を中心にしてツツガムシ病の研究の一環として精神科に入院している患者さんへの発熱療法というのがありました。発熱することによって精神科の疾患が軽減されるとして療法していたのです。これもまぁ人体実験です。発熱療法でツツガムシ病の人体実験をおこなったというのも何人かの報告があります。」

反省している人は一人もいない満州医科大学。東大も反省していない。下「」引用。

「医学界が総体的に反省していません。戦争遂行の最高責任者の天皇が免責され、ある意味で日本の社会全体が責任をとる機会を逃してしまったと思います。」

七三一部隊には脳外科がなかったので、満州医科大学に運んだという。

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