磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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科学全書1 核兵器と核戦争

2008年08月20日 | 読書日記など
『科学全書1 核兵器と核戦争』
   服部学・著/日本科学者会議・編/大月書店1982年

いろいろなことが書かれてありますし、意味あることが書かれてあります。
どれを紹介すればいいか、悩むほどです。



第二次大戦中、ドイツは動力として原子力を研究していたという。
--ヘッヒンゲン村に、小型の原子炉をつくろうとしていた……。

オット・ハーンは語る。下「」引用。

「私は一度も原子兵器について仕事をしたことはないし、私は何の関係もありません」
と語り、平和利用に対しての栄誉も受けなかったという。

フレデリック・ジョリオ・キュリー(1900-1958)のことも書かれてありました。

--原潜と核兵器。
原潜に初のミサイル搭載は、アメリカのハリバット号。
レギュラスII型ミサイル五基を装備。
このミサイルは戦術用小型核弾頭をつけることが可能。

--1968年5月2日、米原潜ソードフィッシュ号佐世保で放射能事件でデータ捏造。下「」引用。

「ところが六月以降の発表値は急に減衰がとまってしまった。三宅泰雄博士や猿橋勝子博士は日本学術会議での検討会や『科学朝日』(一九六八年九月号)でこの問題をとりあげ「まったく、ふしぎな異常海水というほかない」と指摘していた。
 この日本分析化学研究所が、その後も原子力潜水艦の放射能調査でデータをねつ造し、偽造したガンマ線スペトログラフや分析結果を科学技術庁に提出していた事件が、一九七七年一月二七日の衆議院予算委員会で、不破哲三議員の質問によって明らかとなった。」

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佐藤栄作は「原則」から「政策」へ。下「」引用。

「一九六七年の第五七臨時国会では、核兵器を「つくらず」「持たず」「持ちこませず」のいわゆる非核三原則を、はっきり原則して述べている。しかし六八年の第五八通常国会では、これが「政策」であると表現を変えて後退し、歴代内閣もその表現を受けついできている。
 しかし非核三原則はなにも佐藤栄作氏が考えついたものではない。広島・長崎・ビキニと、三たび核兵器の被害を受けた日本の国民の、日本の国内に核兵器があってはならないという意志こそが、非核三原則の基礎となるものである。」

--1971年7月、米国防総省の顧問していたエルズバーグ博士
1961年ごろに、岩国基地沖に水爆をつんだ米海軍揚陸艦(LST)が長期停泊を明らかにする。
--1981年5月22日ワシントン、記者会見。下「」引用。

「一、日本の多くの基地が、全面核戦争のさいには、アメリカの核攻撃の基地になることになっていた。
一、全面核戦争のさいは、在日米軍は、事前協議によって日本政府から証人を得て沖縄から核兵器を運びこむ原則になっていた。
一、しかし日本政府の承諾が得られず、安保条約に違反することがわかっていても、緊急事態にはそのまま運びこむという危険を冒す用意があった。
一、沖縄から日本全土へ核兵器を持ちこむという原則の例外は、岩国基地の沖合二○○メートルに係留されていた米海軍揚陸艦につみこまれた核兵器だ。
一、岩国沖にあった核兵器は、艦上攻撃機用の一・一メガトンの戦術核爆弾(水爆)で数十発あったはずだ。
一、日本の限られた政治家たちは、米空母が核兵器をつんだまま日本に入港していることを知らされていた。
 岩国沖にいたLSTはサン・ホアキン・カウンティ号という名前だったことまで、その後判明した。
 こうして非核三原則のうちの「持ちこませず」の原則はふみにじられてきた。」

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岸、福田、大平首相は核保持論を展開。それを批評! 下「」引用。

「「自衛のための最小必要限度の核兵器」などというものがあるとすれば、世界の核軍拡競争がとどまるところを知らずにすすめられるというようなことにはならなくてすんだはずである。」

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