磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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新聞記者が危ない-内そとからの砲火-

2009年09月14日 | 読書日記など
『新聞記者が危ない-内そとからの砲火-』
   大谷昭宏・著/朝日ソノラマ1987年

やはり時代は変化してきている……。
--良いほうにも、悪いほうにも……。
でも、悪いほうが多いですね……。



昭和62年5月3日、かつて読売新聞大阪本社での著者の上司・黒田清からの電話。下「」引用。

「「大谷君か、朝日新聞の阪神支局が襲われて、記者が二人、銃で撃たれたの知ってるか」
「えっ、さっきテレビのニュースの最後にぎりぎり、西宮市内で朝日の記者二人が撃たれたというのが流れていましたが、-略-」

黒田軍団と〈戦争〉……。下「」引用。

「私たちが読売をやめた時、『朝日ジャーナル』や一部の週刊誌が、「黒田軍団の崩壊」などと書いたことや、それと前後して黒田さんが『文藝春秋』誌に自ら「新聞が衰退するとき」を執筆したので、あるいはすでにご存じの読者もおられるかも知れないが、かつて私たち大阪読売の社会部には“黒田軍団”などと呼ばれるものがあった。これを組織と呼ぶ人もいたし、あるいはあまり好意的でなく、派閥とみていた人もあるかも知れない。どちらにしても私たちからすると、それは出たり入ったりの多い、単なるきしゃたちのグループだったような気がするのだが、ここではあえて、黒田軍団という呼び名をそのまま使わせていただく。もちろん私もその一員であった。
 その軍団の特徴を問われれば、私はまず大阪読売に三千回にもわたって連載された〈戦争〉と、その連載にあわせて昭和五十一年から八回にわたって大阪・心斎橋の大丸百貨店で開かれた「新聞記者が語り継ぐ〈戦争〉展」であると思う。-略-」

社を辞めましても……。下「」引用。

「そして私は昭和六十二年一月十日、黒田さんとともに、親しくしていただいた読者にこんなあいさつ状送らせていただいて、読売新聞を去ることにしたのである。-略-
 社を辞めましても、ジャーナリストであることをやめるのではなく、二人、力を合わせて新しい仕事をはじめるつもりです。-略-
  昭和六十二年一月十日   黒田清 大谷昭宏」

「戦争」を書いたことになるのか? 下「」引用。

「そして新聞記者になってからの十四年間、八月六日が近づくと大阪の原爆被爆者の記事は書いた。外地で見つかった日の丸の旗の持ち主を探している外国人がいることも記事にした。だがそれが「戦争」を書いたことになるのだろうか。
 私は翌年の昭和五十七年六月にも再びこの孤児と、そしてその孤児を産み出す大きなきっかけになった「満蒙開拓団」の取材のために中国を訪ねた。
 その時は吉林省にまで足を延ばしたが、公安局からの規則は以前にも増して厳しく、わが子をこの大陸に残してきたという年老いた母が、記憶を辿って関係者の所に行くことさえ許されなかった。
 そしてその年の八月、第六回〈戦争〉展で私たちは「敗走の大陸」のコーナーを設けた。」

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