IV.むらさき色の部屋(虹の世界) D047.[パープル・ルーム] ユリカは、窓一つないうす暗い廊下のようなところにひとり寝ころんでいた。 起き上がって、あたりを見まわした。廊下のつきあたりに、むらさき色のドアがセロファンを透かしたように、ぼんやりと輝いていた。 「バイオレット、パープル・ルーム?」 ドアに書かれた文字を読んだ。 「バイオレット……、パープル・ルーム」 どこかで聞いた言葉だと思った。 「ルームは部屋のことでしょう。バイオレットはバケツのことじゃないし、何だろう」 ドアの前の階段にすわりこんで考えた。 ただ考えていても仕方がないので、ユリカは恐いけれど部屋の中に入ることに決めた。 「1、2の、3」 ドアを開けると、セロファンで透かしたように、あたりはむらさき色ばかりだった。 光の中に、まるでヨーロッパのどこかにありそうな、素敵なお城と素晴らしいお庭があった。でも色はやはりむらさき色だけだった。 ふりむくと、後ろには、ドアがなかった。きれいな大きな池にうすむらさき色の二羽のつがいの白鳥が羽づくろいをしていた。白鳥といっても、薄いむらさき色なのだが。 5、6歩、お城の方に歩いて行くと、後ろからだれかがトントンと背中を叩いた。 「キャー!」 ユリカは驚いて、とび上がった。 「あはは、すまん、すまん」 ユリカは、どこかで見た人物だと思った。 「いやー、お珍しい! お客様だからね。つい、うれしくなってしまった」 ひげを豊かにはやしたおじいさんは、とっても楽しそうだった。でも、ユリカは感じの悪いへんなおじいさんだなと思った。それで「失礼よ」と文句を言った。 そんなことを言われても、おじいさんはにこにこしていて 「失礼か? 失礼、失礼」 と冠を手にもって、頭をさげてあやまった。そして、また頭に冠をかぶって、ふんぞりかえった。 ユリカはこんな人に会ったことがあるような気になった。でも、本当の世界ではなくって、物語の本などに出てくる者だった。いや、待ってよ。『王様と乞食II』に書かれてあった王様にそっくりである。でも、あれはテレビ・ゲームのことだわ。 「ねぇ、あなたは頭に冠をかぶり、豊かなおひげをはやされているから、もしかしたら……」 でも、こんな時代に王様なんて、時代遅れな人はいないと思った。今の王という人たちは、こんな絵本に出てくるような恰好はしていないわ。とても時代遅れよ。 だけど、その男は、その後の言葉がききたくって「もしかしたら?」と言い、ニタニタして、胸を張った。
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暗闇の中に水滴の音が聞こえる。
水道の蛇口から水滴が落ちる。
暗い台所に水滴の音が響く。
ポタリ……、ポタリ……。
青空に鳩が飛んでいる。何十羽と鳩がいる。
ポーポーと鳩は芝生の中を歩いている。
餌をやる老婆。
美しい公園だ。鳩もいるし緑もある。
うららかな陽射しは私の足どりを軽くさせる。
白い建物の前に老人が座っていた。
「中に入っていきませんか」
と老人は招いてくれた。
私はべつだん用事もなかったので、
「はい」
と、返事した。
カツコツカツ、
老人の靴音がやけに頭に響く。
カツコツカツ、
ここは美術館なのだろうか。
なぜか心が落ち着いてくる。
カツコツカツ・カツッーン!
老人は立ち止まった。
ガラスケースがあった。
その中の帳面が動いて白紙のページが開いた。
私は少し気味悪かった。
老人が
「この帳面は……」
と言っていると、どこからか声が聞こえてきた。
「どうして僕は、いつまでたっても、白紙のままなんだ」
帳面がしゃべっている。
「いつまでたっても子どものままなの。
国語の漢字の勉強でもいいし、算数の計算でもいいから……。
落書きでもいいから。僕に何か書いてくれないの。
もう何十年も白紙のままなんだ」
足がすくんだ。本当に帳面が話しかけている。
老人は目を閉じ、そして目を開きまた話しだした。
「おまえにはちゃんと書いてある。
鉛筆じゃなく墨でもないもので書いてあるんだ」
老人はそう話してから、
私に次ぎに行くように指示し、先に歩いた。
すると変形した瓶が、
「おじさん、僕のお腹のなかにはどうして
醤油だのお酒だの入れてくれないの」
老人は肩の力を抜いて、
やさしく変形した瓶に語りかけた。
「おまえのお腹のなかには、あの時死んだ人たちの、
あの時の為に苦しんでいる人たちの涙が詰まっているんだ」
老人はそういうと、寂しそうな顔をして先に進んだ。
次は服だった。ボロ切れとしか言えない服だった。
「どうして、おじさん。
ぼくはだれにも着てもらえないの、誰にも……。
誰かに手を通して欲しいのに、
やさしく人間をつつみたいのに」
老人は疲れた表情で、でも力強く、
「今、おまえを着ているのは平和だ」
「平和?」
と、私の口からこぼれてしまった。
しかし、老人は続けた。
「服よ、おまえの好きな人間たちの本当の心じゃ。
やさしく包んでやってくれ」
老人は言い終わると、すぐに私を直視した。
「そう平和じゃ、今は平和じゃ……」
「どうしてですか。交通事故だってあるし、
核兵器の恐怖もあるし……」
「平和じゃ、あの時にくらべたら、
あの時はひどかった。言葉じゃいえやしない。
人間とは思えやしないんだよ。
すべてがすべてのことが、あの時は……」
と、頭をかかえてすわりこんだ。
そして立ち上がり、服にしんみりと、
「のう、服よ。そこでおまえがそ
ういうふうにしている間は平和じゃ」
「ああ、おじさん、そうだよね。
帳面も瓶もこうしている間は平和なんだね。
こういう冷たいガラスケースのなかに
僕らがいるうちは平和なんだね。
だから、おじさん。
僕はここで、こうしているよ。
平和を願う心に着られているよ」
それから、しばらく老人と話した。
そして別れしなに一言老人は、
「本当に、平和はくるだろうかね」
そういい去って行った。
僕は後ろ姿に何もいえなかった。
ぼろ家に帰ってきた。
水道の蛇口から水滴の落ちる音が気になって眠れない。
意識はもうろうとしていた。
それは夢だったのか現実だったのか……。
老人の姿は青年の姿にかわり、
軍服を着た青年の姿は、風にふかれて、
ボロボロになってゆき消えた。
ポタリ……ポタリ……そして今も続く。
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「アンネの日記」三冊
アンネの日記は世界一のベストセラーといわれています。
聖書をのぞくと書きますが、
そのうち、コーランも除くようになるでしょうね。
こう書くと、必ず電話帳が一番だという人がいることでしょう。
まず、「アンネの日記」のタイトルですが、
最初は「後ろの家(隠れ家)」というアンネ・フランクが名付けたものです。
日本ではこれで売れないだろうと、「光ほのかに」とされ、
後に「アンネの日記」となったようです。
下は『目でみる「アンネの日記」』から引用させていただきました。
『目でみる「アンネの日記」』は後日、Upします。
ぼくが小学生のときに読んだのは、
「光ほのかに」というものです。
かなり哲学的に翻訳されていて、翻訳者の教養が高いと思います。
そののち、深町眞理子・訳の「アンネの日記」が出版され、
その後に完全版というものが出版されました。
深町眞理子にはファンレターを書きましたが、
返事はきませんでした。深町さんの訳は、日本語が何しろ美しい。
アニメ化もされましたが、評判はもう一つでした。
アンネ・フランクはこのような乙女チックではありませんし、
快活で聡明な少女でとても魅力のある人物です。
さらに、完全版と同時に一万円位の
『アンネの日記 研究版』も出版されたと思います。
これは高価で購入できず、図書館で借りました。
「アンネの日記」には三つのテキストがあり、
今まで出されたものでも、テキスト違いがあるということも
理解できると思いますし、どうして三つのテキストがあるかも
理解できるものです。その他の項目も興味深いです。
下に跋文や、目次を掲げました。
『アンネの日記 研究版』
オランダ国立戦時資料研究所編/深町眞理子訳/文藝春秋1994年
「跋文 『アンネの日記』のオランダ語版(『隠れ家』)と、他の諸外国語版が生まれるまでのオットー・フランクの役割については、本書第五章で詳細に述べた。すくなからず個人的な動機がかかわっていた。亡き娘への強い愛着と、「日記」を出版することにより、アンネの胸に秘めた最大の願い 《いつの日か著名な作家になりたいという》を実現することになるという目的意識、そして、亡き妻をはじめとして、アンネが「日記」のなかでけっして快くは描いてはいない他の人びとへの、彼なりの配慮と敬譲の念、などである。と同時に彼は、出版社側のさまざまに理由で行った、原稿の修正と縮約にも最終的に同意した。こうしたすべては、たんにね亡き娘の手になるこの文学的遺産、この“ヒューマン・ドキュメント”の真髄とも言うべき部分を、自分にとって適切かつ妥当と思われるかたちで出版したと願うだけのものにあっては、自然であり、うなずけない姿勢ではない。しかしながら、彼の許諾のもとにオランダ語版の最大に挿入された、「読者にはあまり興味のないであろう二、三の箇所を除いては、オリジナル・テキストの原形はそのまま保たれている」との一行は、明白な過小表現というよりは、もうすこし含みのある、それなりに意識的な表白と見なすべきだろう。オットー・フランクが死ぬまでこだわりつづけたのは、出版された「日記」のなかに、その“真髄”はすべて含まれており、これで議論には決着がついているとの信念だった。いかに説いみても、彼はこの気持ちを変えさせることができなかった。結果として、長年のあいだ「日記」が多くの人びとの目から見て、しだいに重要な役割を演じるようになり、それを一個の文学作品というよりは、むしろ歴史的な記録として見る傾向が強まると、彼がそれへの攻撃をかわすことは、しだいに困難になった。前掲の国立科学研究所による報告は、アンネ・フランクの「日記」のa、bいずれのテキストも、一九四二年から四四年のあいだに彼女自身の手で書かれたこと、この事実を疑問の余地なく立証している。「日記」がだれか別人によって(戦後にか、またそれ以前にか)書かれた作品であると主張は、この報告で決定的にくつがえされたのである。このたび、アンネの原稿の二通りのテキストが公刊することにより、それらを在来の短縮版 『アンネの日記』とは比較する機会を読者に提供したことになるが、この結果と、本書第五章で語られている出来事とをあわせかんがかみるとき、われわれは確信をもってこう主張できる。すなわち、短縮版『アンネの日記』が さまざまな修正と削除とを含んでいるにもかかわらず まさしくアンネの書いたものの“真髄”を伝えており、編集または出版社の作業にたいし、“捏造”との表現をあてはめる根拠はない。われわれに関するかぎり、『アンネの日記』には、原稿の信憑性の点でも、それに本来そなわった固有の質の点でも、いささかもこれを疑うべき理由は存在しない。完本『アンネの日記』の内容が描きだす彼女の姿は、一九四七年に出た最初の版におけるそれと、いささかも異なるところはなく、もし相違があるとすれば、十三歳から十五歳までの彼女の成長と、そして彼女の内面生活と作家としての進歩、この両面において、より充実した、より詳細な実像を伝えている点だけである。われわれの掘りさげた調査があっても、また「日記」の完本の出版があっても、依然としてアンネ・フランクは、これまでどおりの姿で生きつづけている。われわれは本書を出版することにより、従来長年にわたって提起されてきたあらゆる疑問にたいし、決定的な答えが出すことができたと信じている。歴史的な記録としての彼女の「日記」は、まいや万人にひらかれたものとなった。それを実現するにあたり、われわれは、オランダ王国教育科学相A・ペイス博士による力強いご支援を得た。博士は、一九八一年、国会での質問にたいする答弁をしめくくるにたいし、またべつの、しかし同様に重要な要素を強調されたのだった。「私は断固として『日記』の完本の出版を、アンネ・フランクへのオマージュとしてのみならず、おなじく第二次大戦中に殺された他の百万人を超えるユダヤ人の子供たちへの、われわれの心からなる敬意のしるしと見なすものであります」
目次
第1章 "…出生地、フランクフルト・アム・マイン"
第2章 逮捕と連行
第3章 密告はあったか
第4章 収監と移送
第5章 『隠れ家』の出版と各国語への翻訳
第6章 戯曲『アンネの日記』をめぐる紛糾
第7章 日記の信憑性にたいする攻撃
第8章 アンネ・フランクの日記として知られるテキストの文書調査、ならびに筆跡鑑定報告―その要約
アンネ・フランクの日記
アンネの日記は世界一のベストセラーといわれています。
聖書をのぞくと書きますが、
そのうち、コーランも除くようになるでしょうね。
こう書くと、必ず電話帳が一番だという人がいることでしょう。
まず、「アンネの日記」のタイトルですが、
最初は「後ろの家(隠れ家)」というアンネ・フランクが名付けたものです。
日本ではこれで売れないだろうと、「光ほのかに」とされ、
後に「アンネの日記」となったようです。
下は『目でみる「アンネの日記」』から引用させていただきました。
『目でみる「アンネの日記」』は後日、Upします。
ぼくが小学生のときに読んだのは、
「光ほのかに」というものです。
かなり哲学的に翻訳されていて、翻訳者の教養が高いと思います。
そののち、深町眞理子・訳の「アンネの日記」が出版され、
その後に完全版というものが出版されました。
深町眞理子にはファンレターを書きましたが、
返事はきませんでした。深町さんの訳は、日本語が何しろ美しい。
アニメ化もされましたが、評判はもう一つでした。
アンネ・フランクはこのような乙女チックではありませんし、
快活で聡明な少女でとても魅力のある人物です。
さらに、完全版と同時に一万円位の
『アンネの日記 研究版』も出版されたと思います。
これは高価で購入できず、図書館で借りました。
「アンネの日記」には三つのテキストがあり、
今まで出されたものでも、テキスト違いがあるということも
理解できると思いますし、どうして三つのテキストがあるかも
理解できるものです。その他の項目も興味深いです。
下に跋文や、目次を掲げました。
『アンネの日記 研究版』
オランダ国立戦時資料研究所編/深町眞理子訳/文藝春秋1994年
「跋文 『アンネの日記』のオランダ語版(『隠れ家』)と、他の諸外国語版が生まれるまでのオットー・フランクの役割については、本書第五章で詳細に述べた。すくなからず個人的な動機がかかわっていた。亡き娘への強い愛着と、「日記」を出版することにより、アンネの胸に秘めた最大の願い 《いつの日か著名な作家になりたいという》を実現することになるという目的意識、そして、亡き妻をはじめとして、アンネが「日記」のなかでけっして快くは描いてはいない他の人びとへの、彼なりの配慮と敬譲の念、などである。と同時に彼は、出版社側のさまざまに理由で行った、原稿の修正と縮約にも最終的に同意した。こうしたすべては、たんにね亡き娘の手になるこの文学的遺産、この“ヒューマン・ドキュメント”の真髄とも言うべき部分を、自分にとって適切かつ妥当と思われるかたちで出版したと願うだけのものにあっては、自然であり、うなずけない姿勢ではない。しかしながら、彼の許諾のもとにオランダ語版の最大に挿入された、「読者にはあまり興味のないであろう二、三の箇所を除いては、オリジナル・テキストの原形はそのまま保たれている」との一行は、明白な過小表現というよりは、もうすこし含みのある、それなりに意識的な表白と見なすべきだろう。オットー・フランクが死ぬまでこだわりつづけたのは、出版された「日記」のなかに、その“真髄”はすべて含まれており、これで議論には決着がついているとの信念だった。いかに説いみても、彼はこの気持ちを変えさせることができなかった。結果として、長年のあいだ「日記」が多くの人びとの目から見て、しだいに重要な役割を演じるようになり、それを一個の文学作品というよりは、むしろ歴史的な記録として見る傾向が強まると、彼がそれへの攻撃をかわすことは、しだいに困難になった。前掲の国立科学研究所による報告は、アンネ・フランクの「日記」のa、bいずれのテキストも、一九四二年から四四年のあいだに彼女自身の手で書かれたこと、この事実を疑問の余地なく立証している。「日記」がだれか別人によって(戦後にか、またそれ以前にか)書かれた作品であると主張は、この報告で決定的にくつがえされたのである。このたび、アンネの原稿の二通りのテキストが公刊することにより、それらを在来の短縮版 『アンネの日記』とは比較する機会を読者に提供したことになるが、この結果と、本書第五章で語られている出来事とをあわせかんがかみるとき、われわれは確信をもってこう主張できる。すなわち、短縮版『アンネの日記』が さまざまな修正と削除とを含んでいるにもかかわらず まさしくアンネの書いたものの“真髄”を伝えており、編集または出版社の作業にたいし、“捏造”との表現をあてはめる根拠はない。われわれに関するかぎり、『アンネの日記』には、原稿の信憑性の点でも、それに本来そなわった固有の質の点でも、いささかもこれを疑うべき理由は存在しない。完本『アンネの日記』の内容が描きだす彼女の姿は、一九四七年に出た最初の版におけるそれと、いささかも異なるところはなく、もし相違があるとすれば、十三歳から十五歳までの彼女の成長と、そして彼女の内面生活と作家としての進歩、この両面において、より充実した、より詳細な実像を伝えている点だけである。われわれの掘りさげた調査があっても、また「日記」の完本の出版があっても、依然としてアンネ・フランクは、これまでどおりの姿で生きつづけている。われわれは本書を出版することにより、従来長年にわたって提起されてきたあらゆる疑問にたいし、決定的な答えが出すことができたと信じている。歴史的な記録としての彼女の「日記」は、まいや万人にひらかれたものとなった。それを実現するにあたり、われわれは、オランダ王国教育科学相A・ペイス博士による力強いご支援を得た。博士は、一九八一年、国会での質問にたいする答弁をしめくくるにたいし、またべつの、しかし同様に重要な要素を強調されたのだった。「私は断固として『日記』の完本の出版を、アンネ・フランクへのオマージュとしてのみならず、おなじく第二次大戦中に殺された他の百万人を超えるユダヤ人の子供たちへの、われわれの心からなる敬意のしるしと見なすものであります」
目次
第1章 "…出生地、フランクフルト・アム・マイン"
第2章 逮捕と連行
第3章 密告はあったか
第4章 収監と移送
第5章 『隠れ家』の出版と各国語への翻訳
第6章 戯曲『アンネの日記』をめぐる紛糾
第7章 日記の信憑性にたいする攻撃
第8章 アンネ・フランクの日記として知られるテキストの文書調査、ならびに筆跡鑑定報告―その要約
アンネ・フランクの日記