オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

ブリジストーン。

2017年03月24日 18時05分33秒 |   源頼朝

道了尊の足はこうやってお狐さまに固定されてるんですよ。この蛇はどこから生えてるんでしょう? 道了様の足にも青スジが立っていることを見ると、狐と狗賓の共同作業で生やしているのかもしれない。


3月の6日・7日に行った伊豆旅行の日記の続きです。(前回のあらすじ



石橋山の遠景をぜひ写真に撮りたいと昔から思っているのですけど、この辺りは運転上の難所(思わずスピードを出しすぎる)ので撮れたことがないのです。いつも帰ってきてから後悔するんですけど、また来たいなー。この付近の道路は運転していてめちゃくちゃ楽しいんですよね。

★『源平盛衰記』(巻二十<禰の巻>)より。
(八牧夜討から13日が経った)8月22日には、兵衛佐(頼朝)北条佐々木を先手として、伊豆と相模の2ヶ国で頼朝に心を寄せる300余騎を引き連れて、早川尻に陣を張った。しかし早川党(だれ?)が進み出て言った。ここはいくさ場にはよくありません。湯本の方から敵が山を越えて簡単にうしろに回れるから、包囲されてしまったら大変です。一人も逃げられないでしょう。だから頼朝は米噛・石橋という所まで引いた。そこで山の上の方の腰に垣楯をかき、下の大道を切って塞いで引籠った。
これを聞いた大場三郎景親は、武蔵と相模の勢を招集し、弟の俣野五郎景尚、長尾新五、長尾新六、八木下五郎、漢揚五郎など鎌倉党は全員が大場の側につき、海老名源八権頭季定、その息子・荻野五郎季重、荻野彦太郎、荻野小太郎、河村三郎能秀、曽我太郎祐信、佐々木五郎義清、渋谷庄司重国、山内滝口三郎経俊、滝口四郎、稲毛三郎重成、久下権頭直光、その子・次郎実光、熊谷次郎直実、岡部六弥太忠澄、浅間三郎、広瀬太郎、笠間三郎をはじめとした300余騎が家子郎等を動員して総勢3000余騎。8月23日の辰時(=午前8時頃)には大場三郎景親を大将軍として、3000で石橋の城に押し寄せ、谷を前に隔て、海を後にしたところに陣取った。
落日が西山に傾く頃(それまで何をしていたのか)、稲毛三郎重成が進み出て言った。「日は既に暮れた。夜のいくさは敵味方が見え難くなるから決戦は明日だな」。しかし大場は言った。「明日まで待てぬぞ。明日には敵は大軍となる。うしろから三浦の者たちが来るからな。前と後ろを同時に防禦するのはただでも大変なうえに、ここは道が狭く足元が悪い。小勢な今のうちに佐殿を追い落し、明日は全力で三浦と勝負すべきだ」。これを聞いた皆が「そうだそうだ」と同調し、三千余騎が声を揃え時を造った。佐殿の側も応じて鳴矢を射通し、それに山神が答えたので、敵も味方もきわめて大軍のようだった。
大場が進み出て両軍の前に弓杖を突き立て、鐙蹈張立を上げて言上を言った。「平家は桓武帝の御苗裔である。葛原親王の御後胤として代々将軍位を蒙り、古から朝家の御守であった。天下の逆乱を解決し海内の賊徒を鎮圧し、武勇の名で他に勝るものは無い。弓矢の誉が当家の伝だ。特に太政入道殿(=平清盛)は、保元平治の凶賊を鎮治してより公家の重臣として太政大臣の位にある。子も孫もみな朝家の重官におわす。その平家の治世をいったい誰が軽しめるのか。南海西海の鱗に至るまで平家の威は届いている。東国北国の誰もが平家の意を奉るのだ。ここに今、ステキでステキな平家に対して合戦をしてみようなどと企てた者は誰か、言ってみよ! おそらくは竜車に向かって蟷螂の斧を振り上げる虫の如き者だろうがな! 名を言って見よ」
すると北条四郎(=時政)が歩み出して声を張り上げた。「お前は知らんだろうがな、わが君は清和天皇第六皇子、貞純親王の御子、六孫王より七代の後胤、八幡殿の四代の御孫、前の右兵衛権佐殿なのだ! 傍若無人の景親が申すことは尾籠だな! 平家は悪行が身に余って、朝威を蔑にしている。早急にかの一門を追討して逆鱗を休ませよという院宣が太政法皇(=後白河法皇)より下されているのだ。ここの御旗の頭に挟んである錦の袋に入っているのがそれだぞよ。よく拝むがよい。されば佐殿こそニッポンの大将軍であるぞよ。平家こそ今は朝家の賊徒よ。綸言を賜ったからにはすぐさま戮誅するしかない。その家人と称する輩とその党類を追討して後、花の都に上り、われわれは逆臣を誅す。景親よ、ただちに聞け! 故・八幡殿が奥州の貞任宗任をお攻めになって以来、東国の者は代々源氏の御家人である。お前の父祖もそうだったではないか。馬に乗りながら詳しく子細を話すのもおかしなことだ。後の事もよくよく考えるが良い。佐殿の御伴には時政父子全員と佐々木太郎定綱兄弟四人、加藤太光胤兄弟と、沢六郎、近藤七、新田七郎父子、城平太、小中太、公藤介父子、土肥次郎父子、新開荒太郎、土屋三郎、岡崎四郎とその子与一、懐島豊田次郎などが付き随っている。そのほかにも院宣や御教書を受け取った者が、夜を日に継いで馳せ参っておるぞ。王事は平家に崩されるほど脆くはない。八虎の凶徒に荷担して後悔するな。急いで甲を脱ぎ手を合わせて降参せよ」
それを聞いて大場は言った。「むかし八幡殿の後三年の軍に御伴して出羽国仙北の金沢城を攻めたとき、16歳にして先陣を承り、右の目を射られながら反撃し、敵を討ち捕りて名を後代に残した鎌倉権五郎景政の末葉・大場三郎景親を大将軍として、その兄弟親類已下3000余騎がここにいるのだ。お前たちはそれ程の大事を思い立ちながら、ずいぶん数が少ないではないか。誰がついて行くかは知らんが、逃げた方がいいぞ。命ばかりは助けてあげよう」。北条はまた言った。「景親の先祖のことはよく知っている。いかに口は口、心は心というが、お前の一族が三代仕えてきた主君になぜ背くのか。忠臣は二君に仕えずというではないか。そのうえ十善帝王の院宣に向かって弓矢を放たんとは、死んだ後の冥加もおぼつかなくなってしまうよ。勅命に背くは剣の上を歩くが如しという。そんなことすべきではない。早く降参しなされ」。大場は重ねて言った。「源氏の先祖は誠に主君だった。しかし昔は昔、今は今。恩こそ主よ。源氏が朝敵と成り給うたあと、わたしは身の置き所がなかった。それ以降、景親が平家の御恩を蒙ることは海よりも深く山よりも高い。恩は木石なり。どうして世になき昔の主君を懐かしがって今の恩を忘れられるか。勇士は諂(てん)の如し。ただいまより全力でもってお前たちを追い落としてくれよう」。そう言うと三千余騎が我も我もと勇めき合った。北条はまた言った。「欲は身を失うというが、まさに大場のことだな。一旦の恩に耽れて重代の主を捨てようとするとは。弓矢を取る身は軽々しいことはせぬべきで、生きても死んでも名こそ惜しむものだ。景親よ、権五郎景政の末葉と名乗りながら先祖の首に血をあやす、欲が深すぎて武士ではなくなったな」。
大場の言うことも北条の言うことも道理にかなっていたので、一同は一斉にどっと笑った」

・・・なんか、昔の戦いって面白いなあ。
800年前のこの掛け合いが、地図で見ても容易に脳内で臨場感もって映像として再現できそうな地形なのが、これまた面白い。



この付近の山(石橋山程度の小さな山)の名前を知りたいんですけど、私は全然資料を持ってない。
石橋山古戦場にも10年前に行ったことありますけど、「どうやってあそこに行くの?」と叫んでしまいたくなるようなところにあります。



前回には見た記憶の無い立派な駐車場がありました。(「平成二十一年十二月吉日建立」と書いてあります。)



真田だけど「六文銭」ではなくて「三両引き」でした。三両引きは「三浦氏」の紋ですって。(※佐奈田与一義忠は岡崎四郎義実の長男で、岡崎四郎義実は三浦介義継の末子(4男?))



駐車場のすぐ下に「古戦場」の碑があるのですが、そのすぐそばに「石橋山古戦場 200m」の看板があります。ここじゃないのかい。





付近は急斜面にたくさんの果樹園と数軒の民家が建っているような、道ばかりがぐねぐねしている集落で、曇天でなければおそらく相模湾の景色が抜群に良いだろう。急斜面にはいろいろな種類の果物と、意外にたくさんの花が咲いています。200m歩くと真田が死んだ「ねじり畑」があり、そこから「佐奈田霊社」の方にのぼっていく石段があるのですが、地図によるとこの石段のことを古戦場という(らしい)。



佐奈田霊社への石段。急な傾斜に石碑と石仏が豊富です。



ねじり畑。ねじれているかどうかは実は良くわかんない。



すぐそばに「文三堂」。ねじり畑を見下ろす小高い丘の上にあります。
真田与一義忠の忠臣、豊三家康はこんな近くにありながら、与一の窮地に駆けつけることができなかったんですよね。「豊三」は「ぶんざ」とよむのだそうです。(どういう意味だろう) 豊三は「文三」ともいうのですが、彼の名字は伝わっておらず、おそらく岡崎家ゆかりの家康なのでしょうが、戦いの最中にも敵の稲毛三郎重成から温かい言葉をかけられていることからも分かるように(しかし彼はそれを断り8人を道連れにして死ぬのですが)、土肥次郎をはじめとする中村党はともかく、三浦党と鎌倉党はこの戦いが始まるまでは、とても仲の良い同士で親しい顔見知りだったんだろうな、と思います。25歳の真田の家来が58歳の家康で、真田と家康は固い絆で結ばれていて一緒に死んだ、というのが泣けますね。(※『源平盛衰記』では真田与一義忠は「佐奈田與一義貞」、豊三家康は「文三家安」、岡崎四郎義実は「岡崎悪四郎義真」ですけど)。なお、相模の真田家は信州の真田家とは全く縁もゆかりもないそうです。与一には2人の子供がいたと書かれているのですが、子供たちが真田を名乗ったかどうかは不明です。





文三堂のまわりにも独特な顔立ちをした石仏がいっぱいあって、元治とか文久とかの年号が彫り込まれています。



うすぐらくてよく見えませんが、家康の墓石を覆う鞘堂のような感じで、家康公の肖像画が幾点か飾られている。そして墓石の前には不自然に広いスペースがあって、何かの決起集会でも開けそうな感じですね。

ねじり畑から階段を上って「佐奈田霊社」へ。





「与一塚」。
この下に佐奈田神の御遺体が埋められています。



こんな変な場所に祀られている小神社なのに、随所がやたら豪華です。ただの地神ではない感じ。ここも六文銭ではない(しつこい)。どんな人に崇拝されているんでしょうね。一般に佐奈田霊社は「せき・たん・ぜんそくの神様」と言われていて、私は酷い喘息持ちなので、だから今回も訪れたのですけど、(前回来たとき売り場?にいたおばちゃんがせきによく効くという「真田飴」をタダでくれたんですが、「真田紐」は売ってませんでした(しつこい)。今回は大雨だったので、おばちゃんもおらず、真田飴も買えませんでした)、見回すと、せきとかぜんそくより、「消防」とか「警察」とか「左官」とか、そういう関係の碑が多いような。(いろんな碑がやたら多いです)。「小田原一聲會」というのは小田原の鳶職人たちの木遣歌の保存会?だそうです。





中には「そろばんの碑」も。なんで?



独特な顔立ちの、“豚鼻の”狛犬。





別角度から。



世にも珍しい。子供が背中にいる、背負い狛犬なのです。



あいにくの雨天で。目の前に海があるのに、写真では真っしろです。


そこから、湯河原五所神社を経て湯河原温泉郷へ。




本日の宿は「旅館 魚判」さんです。



干物屋さんに併設された旅館です。
お魚がとてもおいしそうで、だから決めたのです。

前々日にじゃらんで予約したのですけど、なぜか私が予約したのは、「朝はゆっくり眠れる夕食のみの朝食無しプラン」(15150円)でした。でも、よりによって干物の宿でアジの開きの朝食無しなんてありえないでしょうが。(普段の私は朝食なんて食べませんが)。チェックインの時、朝食の追加をお願いしました。(+2000円ぐらいだそうです)。だったらなんで朝食無しのプランで予約したんだって話ですけどね。(たぶん2日前の予約だったから、そのプラン以外の選択肢が無かったんだと思う。たぶん)

最近の私は、旅行に行ったときの食事の後の居酒屋巡りも趣味にしておりますので、チェックインをしてから(16時半ぐらい)付近をぶらりとしてみました。ところがなんと! 付近には一軒も居酒屋が無いじゃありませんか!
湯河原って町は極めて変な地形の町でして、海岸付近は施設が密集していて、少し内地に入った湯河原駅付近もとても繁華していてわが旧浜北市(じんこう8まんにん)よりも囂しく、「なんでこの町は市じゃなくてただの下足柄郡湯河原町なんだろう?」と思うほどで、駅の周辺には飲み屋もおびただしかったのですけど、実は湯河原町は東西に長くて温泉街は奥の奥の方にあり、私の宿から湯河原駅は歩いて行ける距離には無かったのでした。なんで!?
湯河原では高い宿ほど奥の方にあるという傾向にあります。隠れ宿ほど高級なのだなあ。私の宿は決して高い方では無かったのでしたが、それでも繁華街には歩いて行けない。

ひとっぷろあびてお待ちかねのお食事です。



おお、いきなりお刺身が美味しい。さすが湯河原です。



縞鰺、真鯛、間八、伊佐木だそうです。
私は縞鰺が世界一好き。真鯛も世界一好き。ただ、量は少ない。(ふつうだが)
どうせこのあと一人二次会へは行けないことはわかっているので、この時点で追加料理「サザエの壺焼き」(100g648円)と「カワハギの刺身」(100gあたり1080円、1匹は大体200g)を注文しました。





先付は玉子焼きとタケノコのゼリー寄せですって。



ひきあげゆば。



里芋の天ぷらのあんかけ。



ぶりの照り焼きとキンカン。



お椀。


ブイヤベース。写真じゃ見えないけど、下にハマグリが入っています。



酢の物(タケノコとキクラゲ)。



締めのご飯。

総じて、野卑なわたくしなどにはとうてい似合わない、とても手の込められた、とても美味しいお料理の数々でした。やっぱり湯河原はお魚がおいしいから一緒に食べるなにものかもがおいしくなるな。

以下は追加のお料理。(結構序盤に出ました)



ああうまい。どうして私は1つしか頼まなかったのか!



カワハギ。



透き通ってる!





これがなかなか醤油に溶けなくて。(溶かすもんじゃないのか)

皮剝って本当においしい。あとで領収書の明細を見たら、1200円でした。標準サイズは200gだそうなので、これは標準サイズより小さかったのですね。浜名湖にもカワハギはたくさんいるはずなのに、どうして気賀でカワハギの刺身を食べられるお店は無いのでしょうか。(舞阪にはありそうですが)





日本酒も2合ぐらい飲んだ(「丹沢山」(神奈川)と「地上の星」(新潟))。

担当してくださったお姉様がそれはそれは愉快な方で、とても心地良かった。(息子さんが私と同じくらいですって)。このあと飲みに行ける所は無いか尋ねたところ、やっぱり宿の目の前のラーメン屋ぐらいしかないとのこと。うーーむラーメンかー。私も決してラーメンは嫌いな方じゃないんですけど、酔っ払ってるときに食べたくは無いなぁ~。うーん、でももうちょっと飲みたいなぁ~、どうしよっかなあ~、行こっかな~、行きたいなぁ~、ぎょーざでも食べちゃおっかなあ~~、などとウジウジしているうちに寝てしまい(結局行かなかった)、何度か起きて温泉に3回ぐらい入り、ダラダラしているうちに朝になっていました。温泉宿って最高!

朝ご飯です。



なんと、これ以上無いくらいに正統派。



熱望していたアジの開きも、滅茶苦茶理想的。やっぱり港町で食べるアジが世界一うまいんですね。



小田原と言ったら蒲鉾。伊豆と言ったら山葵漬け。不自然に皿にスペースが開いていたので「まだなにか乗るのか?」と思ったらこのままでした。配置的に山葵漬けが主役で蒲鉾は従者なのだろうな。でも一人暮らししていると蒲鉾って意外と食べなくなるもので、うまいカマボコなんて久しぶりに食ったのでとても新鮮でした。ボコ、うまいなあ。



ゴールデンオレンジ(黄金柑)。
柑橘王国伊豆の中でも、ゴールデンオレンジって小田原・湯河原・沼津あたりの名物なんですって。私は果物ってあんまり食べないので、そんな名前のものがあることも知りませんでしたよ。「ミカンって全部ゴールデンじゃん」って。

このお宿はもっともっと魚をメインにした宿泊プランが他にあるそうなので、また来たいです。
さて、今日の予定はせっかく湯河原に来たし、真鶴か岩の方で時間を潰そうと考えていたのですが、お姉様がやけに「湯河原梅園」をオススメしていたので気が変わって、そっちの方へ行くことにしました。



「幕山」の「梅園」。今年は全体的に花の盛りが遅くて、ちょうど見頃が過ぎ去った頃だったそうです。
昨日の大雨がウソかのような晴天。
・・・うーーむ、私、この山のこの梅園、何年も前に見に来たことがありますな(忘れていた)。

「幕山」という山の名の由来は、源頼朝がここで幕府を開くことを決意したから、、、 ではなくて、切り立った岩肌が何ヶ所かにあって、それを遠目に見ると岩肌の切り立ち具合がちょうど「幕を張ったように見える」から、だそうです。「ばくざん」ではなくて「まくざん」。「土肥の城山」とも混同しやすいので注意が必要なのですが(別の山)、決してこの幕山と幕府は関係ないと思うんですけど、湯河原では「幕岩は伊豆半島一の開幕パワースポット」とされている。



これ、五所神社にもありましたけど、「幕岩と一緒に写真を撮る」と頼朝(もしくは政子妃の)幕府パワーを頭から浴びられるのだそうです。
「頼朝主従に次々と危機が襲ってきた山中では、土肥の大杉、小道地蔵(頼朝寺)、しとどの窟、自鑑水、立石、兜石、、、 などで危機を乗り切り、「頼朝開運街道」と呼ばれています。その奇跡を起こしたのは、街道を支える幕山の岸壁「幕岩」です。柱状節理で大地のエネルギーを直接受けられるスピリチュアルスポット。力強い愛情パワーを深呼吸して取り入れましょう!」
ありがたやありがたや。

梅の見頃は最終盤だとはいえ人が一杯で、でもその人々は大きく分けて「梅を見に来た人」「岸壁でロッククライミングをする人」「山頂を目指す山登り・ハイカーの人」の三種類に分かれていたのが面白かった。私はきのうは見えなかった青い青い相模湾を綺麗な所から眺めたく思い、けっこう上の方まで登ったのですけど結局見られず、汗だくになって引き返してきました。

「小道地蔵(頼朝寺)」って行ったことないですね。どこにあるんですかね。(宿に置いてあった観光ガイドには書いてあった気もする)。伊豆で頼朝探しをするときには抜群の効力を発する静岡県田方地区文化財保護審議委員等連絡協議会編の『伊豆の頼朝~史蹟と伝説~』(昭和54年)ですけど、湯河原と真鶴と石橋山の史蹟についてはまったく何も載っていないのです。なぜならそこは静岡県ではないからです。どこかで適当な本は売ってないでしょうか。

さて、そこから相模湾を眺める絶好スポットを捜すために、南下して伊豆山を目指します。
伊豆山神社と走り湯に寄ろうと思ってたんですけどうっかり通り過ぎてしまい、伊豆山の細い道路では容易に引き返すことが出来なかったので、しかたなくMOA美術館を目指すことにしました。あそこなせ景色が良いに違いない。

若い頃の私がどのくらい美術が好きだったのか分かんないんですけど、(高校と大学生だった時分はずっと美術部でしたヨ)、MOA美術館はまだ行ったことがありませんでした。なんだよMOAって。(Museum of Artの略だそうです。つまり美術の博物館の美術館かい。ああくどい)。それが最近10年くらい「行かねば」と思っていたのは、有名な源頼政の肖像画がMOA美術館蔵だと知ったから。


<MOA美術館蔵 源頼政像>(ウィキペディアより拝借)

ドキドキしながら館内を巡ったのですけど、結論を言うと源頼政の絵は飾られていませんでした。ええいっ、1600円返せぃっ。
でも有名な西行法師の絵はあったので、良しとしましょう。よかったよかった。



MOA美術館は何が凄いのかといったら、全部写真撮影自由なところです。(珍しいと思う)
そして館内は異様なほど広く、そして展示方法がとてつもなく贅沢なところです。
なんでこんなスペースにこんな余裕を使っているのだ。もっときっちきっちに詰めれば、この10倍の物を飾れるだろうに。いや、もっと普通に詰めて飾れば、この10分の一のスペースで済んで歩くのに疲れずに済むのに。(と貧乏性の私は思うのでした)

貴重な物ばかりがずらりと並んでいるのですけど、無粋な私は心が疲れてしまって、「あれ? そもそも私ってアートって好きなんだっけ?」になどと自分の存在にも疑念を考えたりもしてしまったりするのでした。

とはいえ、興味深い物もたくさんあって、
一番感慨深かったのは無準師範の書!



無準師範(ぶじゅんしはん)は静岡の大聖者である聖一国師(しょういちこくし=40年前の静岡県人は小学生のときに必ずこの人の伝記を習ったものだ。現在はどうなんでしょう?茶と麺類の神さま)の中国の先生で、日本には来たことがなかったはずですが、日本には多大な影響を及ぼした人です。



ほら、やっぱりMOA美術館から見下ろす相模湾が最高だった!!




(・・・もう少しだけ続くのじゃよ)
コメント
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