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植民地での敗戦

2017年05月13日 | 頑じい
1945(昭和20)年に入ると日本の戦局は厳しくなり、各地でアメリカ軍の空襲が多くなりました。私の家族は、大阪空襲の通路に当たる奈良に住んでいました。毎日アメリカの爆撃機が空を覆うように通過していきました。(戦後知ったのですが、アメリカの何とかいう偉い学者が奈良の文化財の保護を進言して、結果的に奈良は一度も空襲を受けませんでした)4月に空襲のない植民地大連に戻り、私は旧制中学校に入学しました。そして8月15日、日本は敗戦しました。実質4か月の旧制中学校は勤労奉仕ばかり、授業はほとんどありませんでした。
それまで植民地の主人であった日本人の生活は、一夜にして逆転しました。地位もすべての財産も失い、召使たちは去りました。私の父は満州奥地から帰宅できず、兄二人は兵隊に取られていたので行方不明、家には母と姉と私が残っていました。
やがて日本人は、港湾の倉庫を避難所(収容所?)としての集団生活を始めました。そこにいるかぎりは安全でした。姉は髪を切って丸坊主になり、私は街に出て、机から抜き出した引き出しを抱えて煙草を売りました。
敗戦の半年後の寒い朝、目覚めると母は死んでいました。栄養失調です。それでも私たちは、満州奥地にいた日本人に比べると幸運だったと言えます。