障害児と学校 → 頑じいの歯ぎしり

障害がある子とない子と → 頑固爺の「ごまめの歯ぎしり」

障害児が楽しい学校は………

2006年11月30日 | 障害児
   “バリア・フリー”ということばには、どうしても「障害者のために………」という語感があるように思います。だから、その発展形として“ユニバーサル・デザイン”が登場したのでしょう。対象を障害者に限定しないで「みんなのために………、みんなをつなぐ………」を目的とします。障害者はみんなのなかの1人にすぎません。
  “バリア・フリー”が単に物理的構造の問題ではなく、最大の“バリア”は「人々の心の中にある」という結論に達したように、“ユニバーサル・デザイン”もまた単なるデザインではなく、社会的なありようの問題です。
   これを「障害児が普通学校に就学すること」に敷衍すれば、現在の教育体制の中では、教員や保護者の多くは「障害児が普通学校に就学するのは、障害児個人の問題だ」と認識しています。だから、学校の中にはバリアがたくさんあります。手すりや段差や階段や、「1人の障害児のためにエレベーターをつけるなんて………」「毎日親が付き添いなさい」と言います。やはり最大のバリアは「障害児がなんで普通の学校に来るの!」という精神的なバリアです。
 でも、少数とはいえ、障害児を暖かく迎え入れている学校もあります。そんな学校で楽しく過ごしているのは障害児だけではありません。障害児が楽しい学校は、こどもたちみんなが楽しい学校です。

日本の教育に未来はない  

2006年11月28日 | 教育
 学校選択制、教育バウチャー制、学校評価制、全国学力テスト、教員免許更新制、成果主義賃金、こうした文教政策を通底するのは、競争によって格差を作り、格差に応じた予算や賃金の配分によって、更に競争を激化させるという思想です。そういう政策を徹底し、政府が直接的に教育を統制するために教育基本法を「改正」しようとしています。
  ひるがえって子どもたちは、勝ち組みは勝ち組みにもぐりこみ、その位置を確保するために神経をすり減らし、負け組みは無気力と自己否定に沈み込み、それが いじめや不登校や自殺という形で噴き出しています。
   明治以来、他国に追いつけ追い越せと血眼になってきた日本では、社会全体が競争主義という経済活動の原理に支配され、教育の世界でもそれが当然視されていますが、ほんとうにそれは当然なのでしょうか。どこの国でもそうなのでしょうか。
  ひところ、“ゆとり教育”が提唱されたことがありましたが、現在はまた「ゆとり教育のために日本の子どもの学力は低下した。学校5日制を廃止して、もとの6日制に返すべきだ」などという意見が声高に叫ばれるようになりました。 “ゆとり教育”当時に、現場にほんとうに“ゆとり”があったら、今日のような事態まで追い込まれなかったでしょう。“ゆとり教育”の唯一の遺産、学校5日制によって、かろうじて日々を耐えている子どもが見えていますか。いや、教師自身がかろうじて日々を耐えているような状態ではとても無理でしょうね。

“学校選択制”で学校が壊れる!

2006年11月27日 | 教育
 小泉内閣の「郵政改革」に変わって、安倍内閣の目玉は「教育再生」。 「教育にも競争原理を取り入れれば、教育全体の質が向上する」という感覚で、その切り札が“学校選択制”です。近く内閣の諮問機関、教育再生会議が「学校選択制……バウチャー制度の導入」についての見解をまとめて発表するそうですが、どの世界でも流れを読んで先走りする連中がいます。もう待ちきれぬとばかりに東京のいくつかの区が品川区を先頭にして走り、埼玉や金沢や川西など後を追うところが続出しています。たしかにその読みはまちがっていないでしょう。諮問会議なんて初めっからそのつもりで選ばれた委員の会議ですから。 
 バウチャー制度とは、行政当局が学校の授業料に充当できるバウチャー(利用券)を交付し、児童・生徒は自分で選択した学校にその利用券を渡して授業を受ける。学校は、獲得した利用券に応じた予算配分を受ける制度です。1週間ほど前、NHKスペシャルで特集がありましたが、学校選択の条件となるのは、学力テストの成績(荒川区などはすでに独自のテストを実施して結果を公表しているようです)、スポーツ部活の成績、荒れてない学校、通学の安全などです。当然生徒が集中する学校と、逆に激減する学校が出てきます。いったんダメ学校の噂が立ったら、おしまいです。150人を切った学校は廃校になります。立派な名分ができ、労せずして合理化ができるわけです。学校の廃校は、住民の意識を暗くし、地域全体の地盤沈下にもつながっています。
  かつて全国学力テストで、試験当日勉強が出来ない子を欠席させたり、試験監督者が暗に正答を教えたり、答案を改ざんしたりという不正が続出しましたが、成績結果が学校自体の浮沈にかかわり、ひいては教員の給与や人事に関わる現在は、あのころ以上に深刻な状況です。また部活は、当然勝利至上主義となり、現在高校で見られる有名指導者に生徒がついて入学や転校する状況が、中学校でも発生しています。 
 これらを障害児の立場で見るとどうなるかは、話すまでもないでしょう。

人は誰しも

2006年11月18日 | 障害児
 「人に迷惑をかけてはいけません」という徳目は、何の疑念もなく使われている。でも、「迷惑をかける」ということは実態として「人のお世話になる」ことではないか。お世話してくださった方がそれを迷惑と感じるか、世話することに喜びを感じるかは別として、人は誰しも、生まれたときから死ぬときまで、他の人に迷惑をかけながら生きているのだと思う。特に、障害者は、迷惑をかけないで生きることができない。

「どれだけ迷惑をかけているか考えなさい」

2006年11月17日 | 障害児

 この辺で実例をあげたいんだけど、それがたいへん難しい。実例は個人情報だし、個人が特定されると障害児本人や保護者にかかる圧力が増加するおそれもある。だから実例といっても肝心なところをあいまいにせざるを得ない。

 先日、県内のある市で、障害児の保護者と人権擁護委員との人権相談に立ち会った。内容は、普通学級から特殊学級への執拗な転級勧奨である。学校側は保護者に「あなたの子どもが周囲にどれだけ迷惑をかけているか考えなさい」と言う。決して「あなたの子どもは、迷惑です」とは言わない。そう言えば、迷惑に思っているのはそれを言った人(校長か教員、あるいはその両者)であり、追い出しているのもその人であることが明確になる。それに対して、「周囲に」なんて言うと「私はいいんだけど、他の人の迷惑をかけることは許せない」というニュアンスも出てくる。そして、「あなたが考えて、あなたの責任で処理しなさい」と言っているのであって、追い出した責任も後ろめたさ(があればの話だけど)も感じなくて済む。そんなやり方で、たくさんの障害児が普通学級から出ていったのだ。


教育現場は変わらない

2006年11月12日 | 障害児
 1995年2月、文部省は14年ぶりに「就学指導の手引き」を改定しました。これからは、本人や保護者の意見をよく聞き、尊重して、就学先を決めるよう指導しています。 2002年9月、文部科学省は学校教育法施行令を「改正」しました。同省はこれまで障害児を障害児学級や養護学校に分離してきました。現実にはそれに従わず普通学級に在籍する障害児が増加する一方なのに、その存在を無視し具体的な支援策もとらず、実数の調査すらしませんでした。 しかし、国連はすべての政府に対してインクルーシブな教育を提唱し勧告している現在、さすがにこれまでのかたくなな分離のままではやっていけなくなったのです。そこでこれまでの「特殊教育」から「特別支援教育」衣替えすることになりました。普通学級にも障害児がいることを認め、在籍がどこであれ、その就学の場で特別な支援をする教育です。 しかし、現在の教育現場は、習熟度別学習、必修科目履修偽装、いじめ自殺、全国一斉学力テストの世界、さらにはバウチャーの導入が図られ、学校評価による褒賞予算、教師には褒賞給与の世界です。つまりは競争原理に縛られて、子どもも教員も保護者もストレスがいっぱいです。 障害児がいると学力テストの平均点が落ちます。それは、担任教師の評価を落とし、学校の評価を落とします。だから特に校長が障害児の排除に一番熱心なのです。障害児にとっては、「特殊教育」から「特別支援教育」への変更は名前が変わっただけです。