“バリア・フリー”ということばには、どうしても「障害者のために………」という語感があるように思います。だから、その発展形として“ユニバーサル・デザイン”が登場したのでしょう。対象を障害者に限定しないで「みんなのために………、みんなをつなぐ………」を目的とします。障害者はみんなのなかの1人にすぎません。
“バリア・フリー”が単に物理的構造の問題ではなく、最大の“バリア”は「人々の心の中にある」という結論に達したように、“ユニバーサル・デザイン”もまた単なるデザインではなく、社会的なありようの問題です。
これを「障害児が普通学校に就学すること」に敷衍すれば、現在の教育体制の中では、教員や保護者の多くは「障害児が普通学校に就学するのは、障害児個人の問題だ」と認識しています。だから、学校の中にはバリアがたくさんあります。手すりや段差や階段や、「1人の障害児のためにエレベーターをつけるなんて………」「毎日親が付き添いなさい」と言います。やはり最大のバリアは「障害児がなんで普通の学校に来るの!」という精神的なバリアです。
でも、少数とはいえ、障害児を暖かく迎え入れている学校もあります。そんな学校で楽しく過ごしているのは障害児だけではありません。障害児が楽しい学校は、こどもたちみんなが楽しい学校です。
“バリア・フリー”が単に物理的構造の問題ではなく、最大の“バリア”は「人々の心の中にある」という結論に達したように、“ユニバーサル・デザイン”もまた単なるデザインではなく、社会的なありようの問題です。
これを「障害児が普通学校に就学すること」に敷衍すれば、現在の教育体制の中では、教員や保護者の多くは「障害児が普通学校に就学するのは、障害児個人の問題だ」と認識しています。だから、学校の中にはバリアがたくさんあります。手すりや段差や階段や、「1人の障害児のためにエレベーターをつけるなんて………」「毎日親が付き添いなさい」と言います。やはり最大のバリアは「障害児がなんで普通の学校に来るの!」という精神的なバリアです。
でも、少数とはいえ、障害児を暖かく迎え入れている学校もあります。そんな学校で楽しく過ごしているのは障害児だけではありません。障害児が楽しい学校は、こどもたちみんなが楽しい学校です。