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【書評】塩沢由典著『リカード貿易問題の最終解決 ―国際価値論の復権』(岩波書店、2014年)

2014年08月06日 | 新古典派経済学批判


【書評】塩沢由典著『リカード貿易問題の最終解決 ―国際価値論の復権』岩波書店
Book Review: Yoshinori Shiozawa, The Final Solution of Ricardo’s Trade Problem (in Japanese), Iwanami Shoten, 2014    

Almost 200 years ago, David Ricardo was troubled with the problem that the relative price of commodities traded between two countries could not be determined by his theory of value. The problem was mentioned in his book, On the Principles of Political Economy, and the Taxation. Since then, nobody has been able to solve the problem in the manner of classical theory of value. The problem was finally solved by the author. This book is the detailed report. It is a historical monumental work that could induce paradigm shift from neo-classical theory. So that English translation of this book is really expected to be published.

 いまから200年前(正確には197年前)、リカードが主著『経済学および課税の原理』の中で提起し、その後の200年間、誰も解くことのできなかった問題がついに解決された。本書はその詳細な報告である。このような歴史的金字塔が日本において建てられたことは、すばらしいことだと思う。一刻も早い英訳の出版が待たれる本である。
 これは単なる貿易論の本ではない。書名だけ見ると、貿易論に特化した本かと思われるかも知れないが、そうではない。この書の真の意図は、古典派価値論の復権を通して、新古典派経済学パラダイムそのものを揚棄しようという遠大な構想にある。

 私も読み始める前は貿易論の本という認識で、事の重大性をよく理解できていなかった。読み始めるうちに単に貿易論の本ではないこと、新古典派経済学の体系そのものに挑戦する深遠な内容であることが分かり、夢中になって読み進めるに至った。

 さて、リカードが解けなかった問題とは、以下のようなものである。
 リカード本人が例示した問題だと、木綿に特化したイギリスとワインに特化したポルトガルの二国間の貿易が想定されている。イギリスは木綿を輸出しワインを輸入(ポルトガルから見ればワイン輸出し木綿を輸入)する。このとき、イギリスとポルトガルがどのような相対価格でワインと木綿を交換するのか、理論的には解けないのである。リカードが言えたことは、両財の相対価格(=交換比率)の変動幅がある一定の範囲に収まるのであれば、イギリスとポルトガルの双方に貿易利益が発生するということのみであった。

 著者の塩沢先生によれば、この問題を解けなかったことがネックになって、生産費用に応じて価格が決まるという古典派の価値論は衰退し、新古典派の価格論(財の価格は需要関数と供給関数の交点で決まる)に道を譲ってしまった。つまり、リカードがこの問題を解けなかった帰結として、新古典派経済学の興隆がもたらされたというのである。

 古典派の時代の経済学では、価格と生産量は独立した変数であった。それゆえ、価格の決定にも、生産量の決定にも人間の意志が介在する余地が十分にあり、経営者の人間性も反映可能な理論であった。しかし新古典派パラダイムでは、価格が決まれば生産量は自動的にメカニカルに決定されてしまうものとされた。そのモデルの中から、人間性は完全に消えた。人間の意志すらも理論から締め出されてしまったのだ。
 

 本書の試みが成功すれば、新古典派経済学のパラダイム ―もっぱら物理学の模倣によって構築され、人間の意志の力すらもその体系から締め出し、経済現象を機械論的・決定論的な現象として解釈しようとした誤謬に満ちた体系― は根底から崩れる。そして経済学は、古典派の伝統 ―古典派の時代の経済学は人間の倫理・道徳や政治も取り込んだゆたかな思想内容をもった体系だった― に回帰する。

 もっとも、英米経済学の模倣を専ら使命としている大多数の日本の経済学者の植民地メンタリティをかんがみるに、日本からパラダイム転換が起こることはないだろう。

 その意味でも、一刻も早い英訳が必要である。さらに、経済学の専門家以外の読者にも広く本書を呼んで欲しいと願う。たしかに数学的に難解な箇所は多い。これを書いている私も、一度読んだだけで、数学的な部分をまだ十分に理解できていない。しかし、一つ一つの定理の詳細までは十分に理解できずとも、本書を読み進め、その骨子を理解することは可能である。また、著者はそれが可能なように読者に十分に配慮して記述している。まず平易な数値例による理論の骨子の解説を先にもっていき、2国3財という最小の貿易モデルを用いて3財の価格をそれぞれ決定可能であることを示し、M国N財という一般形式の貿易モデルは後の章に来るように配置してくれている。

 新古典派パラダイムに拘泥していない読者にとっては、新古典派の主張する諸命題と、本書から導かれる諸命題の、どちらが現実をよりよく説明する能力があるのかは明らかであろう。現実を説明する能力のより高いモデルが良いモデルであるという科学の一般常識を共有する人々にとっては(経済学者は必ずしもこの常識を共有していない!)、勝負は自ずから明らかであろう。

 以下、いくつかの事例において新古典派モデルと塩沢モデルの含意がどう異なるのかを例示した。なお、著者は控えめに、本書で提示した貿易モデルをリカード=スラッファ貿易経済と呼んでいるが、ここでは塩沢モデルと表記した。

(1)自由貿易と賃金格差について

★新古典派モデル(ヘクシャー=オリーン=サミュエルソンの貿易モデル): 
 自由貿易によって貿易する双方の国の賃金率と利子率は一定の値に収れんするはずである(サミュエルソンの要素価格均等化定理)。

★現実世界:
 自由貿易によって賃金格差は埋まらない。貿易をしても賃金の高い国と低い国という差異は続く。これまで、自由貿易によって逆に賃金格差は拡大していったケースも多く見られた。利子率も無論、自由貿易によって均等化するなどということは起こっていない。

★塩沢モデル:
 国ごとの技術水準の差異をもとに、各国の賃金率の格差も説明可能である。

(2)自由貿易によって発生する失業について

★新古典派モデル
 すべての資源は完全に利用されると仮定されているので、貿易を自由化しても、衰退産業に雇用されていた労働者はすみやかに比較優位産業に移動し、失業は発生しない。(ただし、理論的に失業が発生しないと説明できているわけではなく、単に失業が発生しないと仮定されているだけ)

★現実世界
 もちろん失業は発生する。貿易を自由化しても(したからこそ)、多くの国々で失業者は増え続けている。貿易自由化の利益を世界でもっとも受けていると考えられている中国とインドですら、失業率は増え続けている。

★塩沢モデル
 貿易を自由化して、総需要が増加しないならば、失業が発生することを説明できる。

(3)貿易不均衡について

★新古典派モデル
 貿易する双方の国の輸出量と輸入量は原理的に一致するはずである。よって貿易不均衡は発生せず、貿易摩擦も理論的には起こらない。

★現実世界
 長期にわたって貿易赤字を計上し続ける国もあれば、長期にわたって貿易黒字を続ける国もあり、国際社会は貿易摩擦がたえることはない。

★塩沢モデル
 均衡を前提としていないモデルなので、貿易不均衡の発生も扱うことができる。


***********

 通常の感性をもったふつうの方が上述の新古典派モデルの三つの主張内容を知れば、「本気でそんなことを信じているのか?」と驚くことであろう。しかし本当に信じているのだ。現実をよりよく説明する理論が生き残り、そうでないものは淘汰されるという科学の原則が経済学でも通用するのであれば、パラダイムシフトは起こらねばならないといえる。

 本書の深遠な内容をとても一回で書評しきれるものではない。今回はここまでにして、関連した話題はまた別途、別の記事で論じていくことにしたいと思う。

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18 コメント

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Unknown (12434)
2014-08-08 13:30:15
私がはじめて新古典派経済学を学んだのは大学一年のときからです。なんていうか、お世話になったミクロ経済の先生もいるのでカルトの一種だといわれると気まずいのですが、まず私が学んだ経済学を大まかに説明したいです。

一年のとき使った主な教科書は、伊藤元重の「ミクロ経済学」、田代洋一の農業問題入門でした。
二年のときはマンキュー経済学マクロ編、新経済学ライブラリ<別巻6>国際経済理論と政策第3版Ⅰ国際貿易、という教科書を参考にしました。

マルクス経済学も勉強しましたが特に教科書は使わなかったです。ケインズ経済学はほとんど学んでません。それについて深く学べる科目はなかったです。
だから「資本論」に比べると、「雇用・利子および貨幣の一般理論」にはあまり興味がなかったですね。
その他、農業に関する政策や経営学、農協の問題などを勉強しました。
ちなみに、経済学自体をはじめて学んだのは高三のときです。農業高校で農業経済学を勉強しました。なんの教科書を使ったのかは忘れてしまいましたが。
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Unknown (12434)
2014-08-08 13:31:57
先のコメントで述べたように、私は大学一年のときはミクロ経済学と農業経済学を同時進行で学んでいました。どちらも難しくて大変でしたが、後者については関先生の主張に近かったと思います。
農業・農村のもたらす多面的機能についても述べられていますし(これについては高校でも勉強しましたが)、食料主権(自国の人間を飢えさせない権利)も主張しています。

リカード論を詳しく教えてくれた教授は、「この理論自体は一理あるものだが、なんでもかんでも自由化すれば世の中が良くなるわけではない。農業が衰退してその多面的機能が失われるとか、いろいろ弊害もあるからな」と口を酸っぱくして語っていました。

ただし、その弊害等については講義ではなく個人的に勉強してくれという感じでした。多分、リカード論の誤りとか自由貿易の弊害とかは、大学の図書館や資料室を探せば見つかったと思います。その先生も、学生がリカード論に対する批判的な意見を述べても快く聞いてくれたはずです。

今思えば、関先生のブログをその教授と一緒に見たらおもしろかった気がしますが。
しかし経済学を学ぶ学生や高校生には、リカード論をそのまんま鵜呑みにさせるように教えられている人が多いのでしょうか?
いや、私もえらそうなこといえるほど、リカード論の誤診については詳しくなかったです。

もっとそれについて研究した方が良かったなと反省しています。
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Unknown (12434)
2014-08-08 13:34:57
リカード論の誤診や自由貿易の弊害については、関先生やエマニュエル・トッド氏の主張から理解できたことも多いです。

自由貿易の弊害は、農業関連の問題についてなら学生のころからよく勉強していました。生態系の破壊(農業の多面的機能)や食料確保の問題、外国との農地の規模のちがい、農産物の価格非弾力性や収穫逓減の性質、これらは農業経済学だけではなく近代経済学(ミクロとマクロ)の教科書でも少し触れてます。

しかし、リカード論の誤診についてはほとんど学ぶ機会がなかったですし、あったとしても、それより先に小難しい計算を覚えないとテストで結果出せなかったです。もっとも私の努力不足もあると思いますが。

国際的賃金水準の低下についてもあまり学べてませんね。これも私個人の責任もあったと思いますが、でもトッド氏のような人が講義してくれたらかなりちがったはずです。
あとは、関税についてですね。なんていうか、関税自体の存在意義を学ぶ機会がもっとある方がよかったです。各国が自分の農業を守るために関税が必要だとは思っていますが、農業以外の視点からの必要性を考える姿勢が欠けていました。
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追記 (12434)
2014-08-08 17:39:52
「近代経済学(ミクロとマクロ)の教科書でも少し触れてます」という言い方ははあまり正確でなかったです。
近代経済学の教科書には価格の弾力性や収穫逓減について一応書かれていますが、農業と工業の差異については記されていません。ですが、それについても多くの教授が講義を通してくどいほど教えてくれたことです(特に価格弾力性のちがいついて)。
農産物は農地にどんなに肥料等を投入しても、最終的に生産量には限界があります。工業にも場合によってはあり得ると思いますが、一般的に農業の方が遥かに収穫逓減的です。
価格の弾力性もそうです。工業製品の方が安くなるほどより売れるようになります。

私のいた大学ではそう教えられましたが(自分で勉強した部分もあるにせよ)、他の大学はちがうのでしょうか?
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便乗。関税についての疑問。 (りくにす)
2014-08-08 23:26:48
『発展する地域 衰退する地域』の258ページから関税の話になっていくのですが、ここでの関税は自国の工業を保護する代わりに生活費を引き上げることで農業部門を圧迫するものとして描かれています。この本が書かれたのが1984年であり、アメリカが日本や中国に国債を買わせて食っている事態に至っていなかったりするので今の常識とは違うのかもしれません。
要するに保護したい品物のうち輸入品の価格に関税が上乗せされると、保護されている品物の生産に携わっていない人が損をするということと理解しました。そこへ農村なり都会なりに票田を持つ政治家が絡んだりして「日本のコメは高い」が喧伝されたりしたのですね。
『対米交渉のすごい国』という本を読んだことがありますが、日本も自分が強い部門では「自由貿易」を主張したりしてたので結構身勝手だなと思いました。
私は経済学は独学なので穴がいっぱいあることと思います。短大でいちおう経済学を取っておりましたが、授業は眠くて…どうして自分で本を読むときのようにいかないのでしょう。


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すばらしい学び方をされていると思います ()
2014-08-09 20:50:21
12434さま

>伊藤元重の「ミクロ経済学」、田代洋一の農業問題入門

 この2冊を並行して学ぶとはすばらしいバランス感覚と思います。新古典派とマルクス経済学を同時に学ぶことでバランス感覚を養え、偏向するのを回避できます。ベストな経済学の学び方をしていらしたと思います。

>特に価格弾力性のちがいついて
>他の大学はちがうのでしょうか?

 一般の大学の経済学部では農業と工業の違いなんて全く扱いません。同じ形状の需要曲線、供給関数として扱い、「自由化した方がよい」と教わります。

 農学部系で経済学を勉強すると、経済学部とは違った経済学の学び方ができるのだと思います。一般的に経済学部で学ぶと、農産物もすべて自由化すべきと洗脳されて卒業します。

 関税の効果に関しても、アメリカ人の書いた貿易論の教科書では、保護関税の失敗例(ブラジル、アルゼンチン、インドなど)に関しては詳しく書き、保護関税の成功例(アメリカ、ドイツ、日本など)はスルーするという偏向ぶりです。

 12434さんは、もっともバランスのとれた環境で経済学を学べた幸せなケースではないかと思われます。

 私が新古典派を「カルト」と書いた根拠に関しては、また別のエントリーで詳しく説明させていただきます。
  
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お返事ありがとうございます。 (12434)
2014-08-09 23:15:37
近代経済学(ミクロとマクロ)、マルクス経済学、農業問題入門をベースにした農業経済学は必修科目で、例えいやでもしないといけませんでした。少なくとも私が在籍中は。

当時の酪農学園の農業経済学科では、ミクロ、マクロ、マルクスについて専門の教授がいました。マルクス経済学の教授は多分今は在籍してないはずです。現在酪農学園に酪農学部農業経済学科はないです。確か農業経済学コースという名称になったはずです。ただ内容はさほど変わってないと思います。
そう考えると、酪農学園で農業経済学を専攻している学生は、今も昔もみんな一応基本的にバランス感覚がとれていることになりますか。ありがたい話です。
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Unknown (12434)
2014-08-10 00:21:28
その当時のマルクス経済学の教授はアフリカの経済を研究しておりまして、「サブサハラアフリカ(アフリカ全体から北アフリカをのぞいた地域)では緑の革命ができてない。これは農民層分解が起きていないからだ。なぜそうならないかというと、そうした国では農地は村のものとされ、個人所有が認められてないからである。この場合農地は平等に与えられる。豊かになった者はその分だけ農地が持てないようになる。つまり緑の革命ができるためにはまずは農地の個人所有や売買を認めて、これに投資する意欲を持たせなければいけない」と講義で教えてくれました。
その教授の現地調査によると、アフリカの国々では人間はみな平等に生きなければならないという思想が根強いようです。話によると教授はある一人の少年に、「お前はおれより金を持っているのだから金をよこせよ!」といわれたことがあるらしいです。
それで言い返した言葉が、「おれは昨日からなにも食べていない。お前が持っているその金(日本円で10円くらい)をよこせ!」といったら本当にくれたと聞きます。
もちろん「昨日からなにも食べていない」というのはうそだし、金は返したそうですが。

その講義を受けていたときは、確か福田首相が「アフリカに緑の革命を起こすべきだ」と主張していたと思います。その教授に「福田首相はアフリカで緑の革命が起きない仕組みを知ってないのですか?」と質問したら、「全然わかってないな」といわれたと思います。

しかし関先生が紹介してくださった中国の農業・農村事情から考えると、農地の個人所有は必ずしも社会にとって有益とは限りませんね。
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古典派価値論 (塩沢由典)
2014-08-14 01:31:43
関良基さま みなさま

深く読み込んでいただいた上の書評、感謝します。『リカード貿易問題の最終解決』は、たしかに貿易論の本ですが、わたし自身がリカード貿易論に取り組んだ動機は、関さんが指摘されているように、古典派価値論の復権のためです。古典派価値論にとって、ミル流の貿易理論=国際価値論しかないということは、大きな欠陥=欠落でした。そのため、J.S.ミル以降、新古典派価値論への流れができたのではないかとまで思っています。

逆に国際価値論が古典派価値論の延長上に構築できたことは、古典派価値論が(地代論と国際価値論とを含めて)現代資本主義の重要なほぼ全側面をカバーする価値論として復活できることを意味します。現在の(主観価値論、均衡理論などの特徴をもつ)新古典派価値論には、さまざまな欠陥があることはよく知られています。しかし、それに代替するものがないために、Jevons(1871)以降、新古典派価値論が主流を占めてきました。ようやくこの状況を転換させるときが来たのではないかと期待しています。

古典派価値論は、J.S.ミルまでの時代に展開されたものという意味ではありません。20世紀にはSraffa(1960)という偉大なエポックがありましたが、21世紀の今日、更なる発展が必要と考えています。そのためには、古典派経済学にこびりついている色々な狭雑物を取り除くことも大切です。その概略としては塩沢・有賀編『経済学を再建する』(2014)の提案編を見てください。

なお、関さんの書評に2日間遅れて、岩田昌征先生による書評が「ちきゅう座」
http://chikyuza.net/archives/46556
からでました。また、『経済セミナー』の9月号に荒川章義さんの書評が載っています。あわせて参照いただければ幸いです。

秋山先生のブログ
http://ameblo.jp/chichukai/day-20140808.html
も、6月に4本(6.9, 6.16, 6.23, 6.26)、7月に1本(7.22)、8月に1本(8.8)と引き続き紹介・議論されています。とくに8月8日の投稿は、『最終解決』に「日本銀行には,物価安定以上のものを期待すべきではない.」と書いてある一文に対する全面的批判です。お褒めいただくばかりでなく、こうした批判も歓迎します。

わたしは、金融理論は、これから勉強しようというくらいで、専門家とはとてもいえませんが、秋山先生のご批判にもかかわらず、(実質利子率を含めて)利子率に働きかけて景気を改善しようという政策思想には、やはり否定的です。いちばん重要なことは、実体経済の景気を良くすることです。いまの経済は、尻尾が犬を振り回している状態です。これはむかしJ.E. ミードが使ったたとえです。もちろん、ここで犬は実体経済、尻尾は金融経済です。

実体経済に働き掛けるといっても、旧来のケインズ政策、すなわち土木工事を中心とする公共投資ではうまく行かないでしょう。こはケインズ理論のまちがいというより、状況の大きな変化によります。有効需要の原理はいまも有効ですが、コンクリート漬けにすることでは経済状況は回復しない。これが現在の問題と思っています。景気対策に国土強靭化を考えるのは的外れです。その答えをどうだすか。これがわれわれに問われている課題でしょう。

簡単な構想は、SUREという小さな出版社から『今よりマシな日本社会をどう作れるか』(2013)という本を「しゃべって」います。残念ながら、この本は、普通の書店にもAmazonにもおいてありません。購入するにはちょくせつSUREに注文してもらわなければなりません。
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返信遅れて申し訳ございませんでした ()
2014-08-25 23:30:27
塩沢由典先生

 返信遅れて申し訳ございませんでした。
 岩田昌征先生の書評はさすがでした。私の書いたものなどが恥ずかしくなってしまいました。追って、私も先生のご著書のトピックに関連する記事を書きたいと思っております。
 また先生のコメントも、新しいコメント欄に留めておくのはもったいないので、新記事で紹介させていただきます。
 
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