昨日は憲法記念日。現行の日本国憲法が「米国の押し付け」であると安倍首相は主張し、それが改憲を正当化するの最大の論拠になっている。それに対して、明治期に日本各地の民衆が起草していた私擬憲法と現行憲法の精神の連続性に注目が高まり、「現行憲法の精神は決して押し付けられたものではない」という世論も高まってきている。
大きなきっかけになったのは、美智子皇后の昨年10月20日のお誕生日の際の談話であったと思う。天皇と皇后は、2012年1月に武蔵五日市の郷土資料館を訪れ、五日市の地主・教員・農民などが自由民権運動の高まりの中で討議を重ねて起草した五日市憲法草案の資料をご覧になり、その内容に深い感銘を受けたという。
五日市憲法草案の中には、「基本的人権の尊重」「法の下の平等」「言論の自由」「教育の自由の保障」などが盛り込まれており、美智子皇后は、「当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも四十数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。」と述べられた。天皇・皇后両陛下はまさに憲法の制約によって政治的な発言が自由にできない中でも、現行憲法の精神は明治の民衆の中にすでに育っていたことを述べられ、間接的に、現行憲法がGHQの押し付けであるという安倍首相の歴史観に反論されたのだ。
宮内庁のサイト参照。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h25sk.html
私は美智子皇后のお言葉そのものにも感銘を受け、「現地に行かなければ」と思っていたところであった。ゼミの学生たちも興味をもってくれたので、昨日、学生たちと「五日市郷土館」に行ってみた。
日本各地にあるのと変わらない何の変哲もない郷土資料館であるが、その2階の一角に「近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願い」を今に伝える当時の学習討論会の資料が展示されている。その資料を熱心に見入っている天皇・皇后両陛下の写真も掲げられていた。私も胸に熱いものがものが込み上げてくるのを感じた次第である。
本日(5月4日)の『東京新聞』の「特報面」でも篠ケ瀬祐司記者が、自由民権運動がつくった私擬憲法の中でも最も民主的な内容を持つ土佐の植木枝盛が起草した「東洋大日本国憲法案」を紹介している。同記事によれば、現行憲法の作成過程の中、GHQも強い関心を寄せていた民間の「憲法研究会」の草案は、植木や立志社がつくった私擬憲法を参考にしていた。つまり現行憲法は、明治に自由民権派のつくった憲法構想と連続性があり、決して押し付けられたものではないのだ。
これまで私は、幕末に起草された日本最初の民主的憲法構想として、慶応三年の赤松小三郎の「御改正口上書」をブログで紹介してきた。
明治期の私擬憲法に注目が集まる中で、まだ赤松の構想への注目は弱い。これは薩長中心史観の呪縛によるものだと思う。しかし徐々に赤松建白書への関心は高まりつつあり、歴史雑誌などでも紹介されるようになってきている。5月10日発売の『文藝春秋』6月号に宮原安春氏の「暗殺された民間憲法構想第一号の建白者(仮題)」という巻頭エッセイが掲載される予定だという。赤松の憲法構想の紹介である。改憲問題がますます大きくなる中、幕末に芽生えていた民主的憲法構想への注目を呼びかけたい。ぜひ『文藝春秋』6月号の記事を読んでいただきたい。
赤松の建白書は幕末の激動の中で薩摩・越前そして徳川慶喜などに働きかけるために起草された七か条のものであり、まだ私擬憲法案という体裁には至っていない。しかし短い中に、議会制民主主義や人民の平等など、憲法に相当する規定が盛り込まれている。
五日市憲法草案や植木枝盛の憲法案と赤松建白書を読み比べてみても、赤松案は遜色がないばかりか、時代がもっとも遡る案でありながら、かつもっとも民主的な内容でないかと思われるのである。赤松建白書、五日市憲法草案、植木枝盛の「日本国国憲案」はいずれも、江村栄一著『日本近代思想大系 憲法構想』(岩波書店、1989年)に収録されているので参照されたい。
天皇と立法府(議会)の関係を見てみよう。
五日市憲法草案 〔明治14(1881)年〕
まず五日市憲法草案は、基本的人権など国民の権利に関してすばらしい条文が並んでいるが、他方で天皇大権を規定しており、天皇は議会の上位に位置付けられている。
五日市憲法草案の35条には、「国帝は、国会ニ議セズ特権ヲ以テ決定シ、外国トノ諸般ノ国約ヲ為ス」とあり、国会に諮ることなく天皇が条約を締結する権利が規定されている(ただし国境を変更するような条約修正には国会の承諾が必要とされている)。
また同第38条では「国帝ハ、国会ヨリ上奏シタル起議ヲ充否(いんぴ)ス」とあり、天皇は国会の決議に対して拒否権を行使することができる。天皇の権限は議会より強い。他方で同86条では、国会が国帝の起議を修正する権を有すとされ、議会にも天皇の決定を修正する権利が盛り込まれている。しかし38条と86条は明らかに矛盾している。
五日市憲法草案は、国民の権利を規定した第二篇に最大の独自性があるが、第一篇の「国帝」に関しては、嚶鳴社の私擬憲法を丸写しにしているそうである。それゆえ、第一篇の天皇大権の規定と第二篇の国民の権利保障の条文のあいだには矛盾が見られる。
植木枝盛の日本国国憲案 〔明治14(1881)年〕
植木枝盛の「日本国国憲案(東洋大日本国憲法案)」では、議会の権限が大きい民主的な案になっているが、第94条には「皇帝ハ立法議会ト意見ヲ異ニシテ和セザルニ当タリ、一タビ其議会ヲ解散スルコトヲ得」とあり、天皇の法案への拒否権と議会の解散権を認めている。しかしながら再選挙で召集された議会が、同じ法案を通した場合、もはや天皇はそれを拒否することはできないとされている。とはいっても天皇に議会への拒否権と解散権が認められているのは、議会制民主主義にとってはかなり大きな制約条件となっている。
赤松小三郎「御改正口上書」〔慶応3(1867)年5月〕
赤松小三郎の案では、天皇と議会の関係に関しては、「国事は総て此両局(上・下の議政局のこと)にて決議之上、天朝へ建白し、御許容之上、天朝より国中に命じ、若(もし)御許容無きケ条は議政局にて再議し弥(いよいよ)公平之説に帰すれば、此令は是非とも下さゝることを得ざることを天朝へ建白して、直に議政局より国中に布告すべし」と規定されている。
赤松は、天皇と内閣総理大臣と各国務大臣をあわせて「天朝」と呼んでいる。つまり「天朝」とは、天皇個人ではなく、首相と内閣など行政府全体を指す言葉として用いられている。「議政局」とは選挙で選出された立法府を指す。
天皇を含めた天朝(行政府)は、議政局(立法府)の決定に対して異議を唱えることはできるが、議会が再議して「これでよし」とした場合、天朝の反対を押し切ってただちに布告できるとされている。天皇に議会の解散権も拒否権も与えられていないという点で、明治の私擬憲法の中で最も民主的とされる植木枝盛の憲法構想よりも、さらに議会の権限が強い民主的な内容であることが分かるであろう。
基本的人権や言論、集会、結社の自由など国民の権利規定に関しては、さすがに五日市憲法や植木枝盛の憲法案が詳細である。赤松小三郎は国民の権利に関してはあまり多くを述べていない。しかし赤松建白書の第三条には「国中之人民平等に御撫育相成、人々其性に準じ充分を尽させ候事」とある。これは簡潔な文章の中にも、すべての国民が法の下に平等であること、職業選択の自由があり、個々人の好みと能力に応じてそれぞれ自己実現する権利があることを高らかに謳い上げている。
大きなきっかけになったのは、美智子皇后の昨年10月20日のお誕生日の際の談話であったと思う。天皇と皇后は、2012年1月に武蔵五日市の郷土資料館を訪れ、五日市の地主・教員・農民などが自由民権運動の高まりの中で討議を重ねて起草した五日市憲法草案の資料をご覧になり、その内容に深い感銘を受けたという。
五日市憲法草案の中には、「基本的人権の尊重」「法の下の平等」「言論の自由」「教育の自由の保障」などが盛り込まれており、美智子皇后は、「当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも四十数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。」と述べられた。天皇・皇后両陛下はまさに憲法の制約によって政治的な発言が自由にできない中でも、現行憲法の精神は明治の民衆の中にすでに育っていたことを述べられ、間接的に、現行憲法がGHQの押し付けであるという安倍首相の歴史観に反論されたのだ。
宮内庁のサイト参照。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h25sk.html
私は美智子皇后のお言葉そのものにも感銘を受け、「現地に行かなければ」と思っていたところであった。ゼミの学生たちも興味をもってくれたので、昨日、学生たちと「五日市郷土館」に行ってみた。
日本各地にあるのと変わらない何の変哲もない郷土資料館であるが、その2階の一角に「近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願い」を今に伝える当時の学習討論会の資料が展示されている。その資料を熱心に見入っている天皇・皇后両陛下の写真も掲げられていた。私も胸に熱いものがものが込み上げてくるのを感じた次第である。
本日(5月4日)の『東京新聞』の「特報面」でも篠ケ瀬祐司記者が、自由民権運動がつくった私擬憲法の中でも最も民主的な内容を持つ土佐の植木枝盛が起草した「東洋大日本国憲法案」を紹介している。同記事によれば、現行憲法の作成過程の中、GHQも強い関心を寄せていた民間の「憲法研究会」の草案は、植木や立志社がつくった私擬憲法を参考にしていた。つまり現行憲法は、明治に自由民権派のつくった憲法構想と連続性があり、決して押し付けられたものではないのだ。
これまで私は、幕末に起草された日本最初の民主的憲法構想として、慶応三年の赤松小三郎の「御改正口上書」をブログで紹介してきた。
明治期の私擬憲法に注目が集まる中で、まだ赤松の構想への注目は弱い。これは薩長中心史観の呪縛によるものだと思う。しかし徐々に赤松建白書への関心は高まりつつあり、歴史雑誌などでも紹介されるようになってきている。5月10日発売の『文藝春秋』6月号に宮原安春氏の「暗殺された民間憲法構想第一号の建白者(仮題)」という巻頭エッセイが掲載される予定だという。赤松の憲法構想の紹介である。改憲問題がますます大きくなる中、幕末に芽生えていた民主的憲法構想への注目を呼びかけたい。ぜひ『文藝春秋』6月号の記事を読んでいただきたい。
赤松の建白書は幕末の激動の中で薩摩・越前そして徳川慶喜などに働きかけるために起草された七か条のものであり、まだ私擬憲法案という体裁には至っていない。しかし短い中に、議会制民主主義や人民の平等など、憲法に相当する規定が盛り込まれている。
五日市憲法草案や植木枝盛の憲法案と赤松建白書を読み比べてみても、赤松案は遜色がないばかりか、時代がもっとも遡る案でありながら、かつもっとも民主的な内容でないかと思われるのである。赤松建白書、五日市憲法草案、植木枝盛の「日本国国憲案」はいずれも、江村栄一著『日本近代思想大系 憲法構想』(岩波書店、1989年)に収録されているので参照されたい。
天皇と立法府(議会)の関係を見てみよう。
五日市憲法草案 〔明治14(1881)年〕
まず五日市憲法草案は、基本的人権など国民の権利に関してすばらしい条文が並んでいるが、他方で天皇大権を規定しており、天皇は議会の上位に位置付けられている。
五日市憲法草案の35条には、「国帝は、国会ニ議セズ特権ヲ以テ決定シ、外国トノ諸般ノ国約ヲ為ス」とあり、国会に諮ることなく天皇が条約を締結する権利が規定されている(ただし国境を変更するような条約修正には国会の承諾が必要とされている)。
また同第38条では「国帝ハ、国会ヨリ上奏シタル起議ヲ充否(いんぴ)ス」とあり、天皇は国会の決議に対して拒否権を行使することができる。天皇の権限は議会より強い。他方で同86条では、国会が国帝の起議を修正する権を有すとされ、議会にも天皇の決定を修正する権利が盛り込まれている。しかし38条と86条は明らかに矛盾している。
五日市憲法草案は、国民の権利を規定した第二篇に最大の独自性があるが、第一篇の「国帝」に関しては、嚶鳴社の私擬憲法を丸写しにしているそうである。それゆえ、第一篇の天皇大権の規定と第二篇の国民の権利保障の条文のあいだには矛盾が見られる。
植木枝盛の日本国国憲案 〔明治14(1881)年〕
植木枝盛の「日本国国憲案(東洋大日本国憲法案)」では、議会の権限が大きい民主的な案になっているが、第94条には「皇帝ハ立法議会ト意見ヲ異ニシテ和セザルニ当タリ、一タビ其議会ヲ解散スルコトヲ得」とあり、天皇の法案への拒否権と議会の解散権を認めている。しかしながら再選挙で召集された議会が、同じ法案を通した場合、もはや天皇はそれを拒否することはできないとされている。とはいっても天皇に議会への拒否権と解散権が認められているのは、議会制民主主義にとってはかなり大きな制約条件となっている。
赤松小三郎「御改正口上書」〔慶応3(1867)年5月〕
赤松小三郎の案では、天皇と議会の関係に関しては、「国事は総て此両局(上・下の議政局のこと)にて決議之上、天朝へ建白し、御許容之上、天朝より国中に命じ、若(もし)御許容無きケ条は議政局にて再議し弥(いよいよ)公平之説に帰すれば、此令は是非とも下さゝることを得ざることを天朝へ建白して、直に議政局より国中に布告すべし」と規定されている。
赤松は、天皇と内閣総理大臣と各国務大臣をあわせて「天朝」と呼んでいる。つまり「天朝」とは、天皇個人ではなく、首相と内閣など行政府全体を指す言葉として用いられている。「議政局」とは選挙で選出された立法府を指す。
天皇を含めた天朝(行政府)は、議政局(立法府)の決定に対して異議を唱えることはできるが、議会が再議して「これでよし」とした場合、天朝の反対を押し切ってただちに布告できるとされている。天皇に議会の解散権も拒否権も与えられていないという点で、明治の私擬憲法の中で最も民主的とされる植木枝盛の憲法構想よりも、さらに議会の権限が強い民主的な内容であることが分かるであろう。
基本的人権や言論、集会、結社の自由など国民の権利規定に関しては、さすがに五日市憲法や植木枝盛の憲法案が詳細である。赤松小三郎は国民の権利に関してはあまり多くを述べていない。しかし赤松建白書の第三条には「国中之人民平等に御撫育相成、人々其性に準じ充分を尽させ候事」とある。これは簡潔な文章の中にも、すべての国民が法の下に平等であること、職業選択の自由があり、個々人の好みと能力に応じてそれぞれ自己実現する権利があることを高らかに謳い上げている。
引用先URLが「不正」(?)であるとして入力が拒否されましたので省略します。「赤松小三郎」で検索すれば、出てくると思いますが。
という長文の論攷に出会いました。奥歯で噛み砕くというところまではいきませんが、どうも「福沢諭吉主義者」であるやにお見受けする平山洋氏による、赤松小三郎と山本覚馬について非常に好意的と思える視線での指摘について報告します。
平山洋氏は、赤松小三郎の「口上書」について、「広い視野と西洋の政治体制への深い理解」による「まことに水準の高い完備された」「体系性を備えた、いわば私擬憲法のさきがけともいうべき文書」であるとし、赤松「口上書」に先立つこと7ヶ月、その前年慶應二年一〇月に刊行された福沢諭吉著『西洋事情』初編中アメリカ憲法と英国政治の部が直接のモデルになっていると、双方を比較しておられます。
平山氏は「口上書」に建議された教育、課税、通貨に対応する詳細な叙述が福沢『西洋事情』にあることを示し、また「その他の軍事・産業育成・国民の健康増進等については、『西洋事情』中でも触れるところではあるが、主には赤松が西洋学者としてそれ以前に読んでいた書籍に由来する可能性もある」としています。そして、
「赤松『口上書』の中核は、立憲君主制と二院制議会の提唱であるが、その二つを詳細に説明した著作は慶應二年一〇月刊行の『西洋事情』以外にはなかった。また、発想自体が独創的というわけではないにせよ、学校教育と税の平等化について、『西洋事情』の記述は具体的かつ詳細を極めている。『西洋事情』初編と赤松「口上書」を読み比べれば分かるが、「口上書」中全七項目のうちでこれらの四項目の記述は、『西洋事情』の当該部分の要約と言っていいくらいにそっくりなのである。
慶應二年一〇月から翌年五月までの間、兵学教師となった赤松は薩摩藩京屋敷内で『西洋事情』の研究会のようなものを組織していたのではなかろうか。何しろ『西洋事情』は最終的には初編・外編・二編あわせて一五万部も販売されることになる大ベストセラーなのである。薩摩藩士を中心とする諸藩有志の関心を惹かなかったはずはない。新たな国家体制を構想するための手がかりを『西洋事情』は提供したであろう。
としています。それはそれとして、いかにも興味深いことには、山本覚馬との関連についてはるかに重大なことを述べられているのです:
「この覚馬『書付』は従来から知られていたのではあったが、近年赤松小三郎の「口上書」と嵯峨根良吉の「時勢改正」が発見されるまで、その重要性に気付かれることはなかった。具体的に何が重要なのかといえば、それは、慶應三年(一八六七)六月について書かれた次のくだりについてである。「昨卯年(一八六七)六月、私が赤松小三郎を介して薩摩藩の小松(帯刀)氏西郷(隆盛)氏へ政権返上について申し述べましたところ同意してくださいました。さらに幕府監察(大目付)へも申し上げたのですが、取り合っていただけませんでした(昨卯年六月私儀赤松小三郎を以御藩小松氏西郷氏え其段申述候処御同意に付幕府監察ゑも申談候得共更に取合不申)」とある部分についてである。つまり覚馬は、自分が大政奉還のアイディアを出して赤松小三郎を介して薩摩藩に持ちかけ、さらに幕府大目付永井尚志にも申し出たが、彼は大政奉還を拒否した、とあるのである。
この記述の裏打ちが何もなければ、ただのはったりということになろうが、われわれはすでに赤松による完備された「口上書」の存在を知っている。そして彼が慶應三年五月に福井藩松平春嶽、また嵯峨根良吉に託して薩摩藩島津久光にそれを提出し、六月から八月まで薩摩藩の小松や西郷、そして幕臣永井らと交渉しながら挫折し、九月に薩摩藩士中村半次郎によって暗殺されたことについてもである。覚馬の「書付」は前年夏から秋に掛けての動きに正確に対応していて、それはとりもなおさず大政奉還後の体制について詳述してある赤松の「口上書」の作成にも関与していたことがうかがわれるのである。
<中略>・・・薩摩の支援なしでは幕府の政権維持は不可能ということがはっきりした。そこでにわかに現実味を帯びてきたのが大政奉還論である。・・・大政奉還後の政治構想が喫緊の課題となったのである。そんなときに刊行されたのが福沢諭吉の『西洋事情』初編だったのである。慶應二年冬、赤松小三郎は薩摩藩京屋敷内に設置されていた兵学校の教師となっていた。山本覚馬に請われて西周(慶喜の補佐官)とともに会津藩の洋学校の顧問にもなっている。
以下は想像であるが、翌年五月に完成する「口上書」のアイディアは、『西洋事情』のアメリカ合衆国憲法と英国の国家体制の部分を参考に、この三人によって練られていったのではなかろうか。天皇を世襲制大統領に、各藩を米国諸州になぞらえるこの「口上書」の体制によれば大政奉還後の政局も安定するという見込みは、実際にそのように運営されているアメリカ合衆国が存在しているということから説得力をもっていたと思われる。
<中略>・・・赤松「口上書」の日付である五月一七日は四侯会議の開催中ということから、赤松や嵯峨根は京都でそれを提出したことになる。また「口上書」が提出された先は、今日では福井藩と薩摩藩だけが知られているが、実際には幕府・土佐藩・宇和島藩そして会津藩にも送られていたのではなかろうか。このような次第で慶應三年六月には大政奉還論が多くの人の口の端に上っているが、たとえ「口上書」自体を見ることができなかった人でも、『西洋事情』初編は大量に流布していて、その米国憲法の部から奉還後の政治体制にイメージをもつことはできたのである。
六月の段階で「口上書」案が採用されていれば、大政奉還後の徳川慶喜の排除などという事態は避けられたに違いない。薩摩の首脳部も四侯会議までは、慶喜に大政奉還さえ飲ませれば後は何とかなると甘い期待を抱いていたのだが、慶喜の政治手腕に並々ならぬものがあると判明した以上、将軍罷免後の政界放逐をも企図せねばならなくなった。覚馬は六月に大政奉還論は薩摩藩首脳に受け入れられたと「書付」に記しているが、それは誤った認識である。実際には慶喜の政権排除は同じ六月に定まっていて、その後も幕府と交渉していた赤松が九月初めに薩摩の手により暗殺されてしまったのも、その見込み違いによっていたのである。
・・・と、あります。じつは、平山洋氏の赤松小三郎「口上書」モデル=福沢『西洋事情』論を「福沢主義者」の我田引水論かと眉をひそめてみていたのですが(なら、福沢諭吉が提案建議すればよかったのではないのか、と)、赤松「口上書」が持ち得た役割についての平山氏の議論 ↑ を見て、あわてています。そんなことは初めて聞きました。
もしかしたら、このことこそが、赤松小三郎が現在に至るまで光を浴びなかった理由なのではないかと。薩摩が赤松小三郎を暗殺した背景が浮かび上がるような気がします。いかがでしょうか。
いまこそ・・・歴史の歯車を赤松小三郎のところにまで「戻す」べきでは。そして、同時にその歯車を動かす人間的精神の源泉を、英国の植民地主義と闘った米国の建国時代から、米国の覇権(新自由主義的グローバリズム)と闘っているボリビアに移すべきではないかと思います。
管理人様、前投稿において平山洋氏の論述に注目する余り、氏の論考からの引用部分の比重がいささか高くなってしまいました。恐縮ですが、この投稿とともにいったん削除いただきますようお願いいたします。お手数をお詫びします。
なお、本件あらためて投稿させていただきたく、よろしくご斟酌いただければ幸いに存じます。
平山洋氏の著作は、私もネットで見つけて拝読しておりました。赤松小三郎への注目が高まってきたことは大変に喜ばしいことで、拝読してうれしく感じた次第でした。とくに西周=赤松小三郎=山本覚馬ラインの重要性に着眼してくださったのはすばらしいです。徳川慶喜への働きかけも、このラインからも行われていたであろうことは、私も同意見です。
以上の投稿、平山氏の引用ということで、とくに削除する必要はないように感じておりますがいかがでしょうか。またあらためて、コンパクトに書き直されましたら、再度、投稿をお願いいたします。
福沢諭吉の『西洋事情』と赤松小三郎建白書の関連ですが、赤松も『西洋事情』を読んでいたことは間違いなく、当然、その影響を受けていると思います。ただ福沢は、合州国憲法を紹介していますが、それを日本に適用せよなどとはひとこも言っていません。
また赤松も米・英の政治制度を検討しつつ、日本独自のオリジナルな部分も出そうとしています。たとえば、米国憲法では大統領に拒否権があるということを強調していますが、赤松の場合はむしろ天皇にも大閣老(首相)にも議会への拒否権はないということを強調しています。これは天皇や大統領のリーダーシップよりも、議会の合議制を重視する赤松小三郎らしさが出ています。
いずれにせよ福沢『西洋事情』と赤松「御改正口上書」はしっかりと比較検討すべき課題だと思っています。
これは書き出すと大変に長くなりそうなのです・・・・。時間ができたらやってみたいです。
関良基様、早速のご配意まことにありがとうございます。5月13日の投稿削除のお願いを撤回させていただきます。
ものを書く場合には、典拠ソースのオリジナルな表現を生かし尊重するため、また参照の便宜のために、引用を励行するスタイルを基本にしておりますが、
公開されているウェブログへの投稿においては(当方にとってはこの「弁証法的空間」が唯一該当します)「引用」が「転載」とならぬようにすべきこと、あらためて肝に銘じます。
関様のお考えの赤松小三郎「御改正口上書」と福沢諭吉『西洋事情』の比較対照検討の必要性と偶々交叉することが強くアタマにあります。が、今に続く「力と時間の不足」のために先送りにせざるを得ず、すでに関様はご承知の平山氏指摘の内容を瓦版的にまとめたかたちとなりましたことをお詫びします。
アタマにありながら考えを追うことができないままでおりますことは:
(1)大政奉還は、まず「親藩福井ベース」(横井小楠)や「公儀スタッフ・ベース」(大久保一翁、勝海舟)の、最終的には「外様土佐ベース」の方案であったと、数十年前の日本史の受験参考書にあったそのままの認識でおりました。
しかし、会津の山本覚馬の依頼により赤松小三郎が大政奉還を新しい政体構想と一体のものとして薩摩、福井、土佐のみならず、江戸公儀と会津に具申して廻っていたこと;これが(赤松小三郎が薩摩の軍編成と訓練を熟知していたこととともに)薩摩を離れることとなった赤松小三郎暗殺の動機となったということ;それが意味するものは非常に重大ではないか。
つまり、薩摩は赤松小三郎の新しい政体構想をブロックするために赤松小三郎を暗殺によって阻止し、王政復古(=明治維新)という反動クーデターを敢行したことになる、という仮説が成り立つのではないだろうか。
(2)『西洋事情』が他方では「五箇条のご誓文」と「政体書」を生み出しているとなれば、『西洋事情』の政治思想としての核は「ない」のではないだろうか。
アメリカ独立宣言に依拠して掲げた「自立」(機会の平等)が福沢諭吉の政治哲学の核であるとして、その核はご都合主義・功利主義にもとづくものであって、それが「学問のススメ」に有名な「機会の平等のもとでの競争による格差の正当化」ありていに言って「出世主義」ということに収斂してゆくという仮説が成り立つのではないだろうか。
(3)そこでおそらく、赤松小三郎の「御改正口上書」の政体構想を評価するためには、そこで直接的に論じられた制度論だけではなく、その核となっている政治思想・哲学を透かし出して、英米紹介本としての『西洋事情』を飛び越して、アメリカ独立宣言、アメリカ合衆国憲法、イギリスの政治制度、さらには大日本帝国憲法と日本国憲法、そして自民党改憲案の「前文」と、さらには2009年ボリビア憲法前文と、直接に比較する必要があるのではないだろうか。
と、このように書いてみるだけで息切れしまして投げ首状態から出ることはとてもできません。関様お考えの赤松小三郎論を待たざるを得ないかと思います。どうかよろしくお願いいたします。
>赤松小三郎が大政奉還を新しい政体構想と一体のものとして薩摩、福井、土佐のみならず、江戸公儀と会津に具申して廻っていたこと
今のところ、小三郎が薩摩と福井に働きかけていたことは明らかですが、土佐に働きかけていたという証拠はありません。
小三郎は慶喜とも直接会っていた可能性は高いので(確かな証拠はまだ見出されていませんが)、公儀にも直接、この案を具申していたと思います。
> 新しい政体構想をブロックするために赤松小三郎を暗殺によって阻止し、王政復古(=明治維新)という反動クーデターを敢行したことになる、という仮説が成り立つのではないだろうか。
薩摩も二つに割れていて、西郷らの武力討幕派と、大政奉還プランを支持する派とがあったようです。小三郎暗殺を契機として、西郷らは異論を黙らせ、藩論を武力討幕で一本化するのに成功したといえるかも知れません。
小三郎が暗殺されたのは、ちょうど島津久光が京都を離れた直後でした。西郷と中村にしてみれば、邪魔な久光がいなくなってはじめて小三郎暗殺の実行が可能だったという仮説も成り立ちます。小三郎から直接建白された久光は、小三郎の考えに共鳴していたという仮説です。実際、久光の残した資料の中に小三郎の建白書が大事に保管されていたのです。もっとも、本当のところは謎につつまれており、解明が待たれます。
幕末の福沢諭吉は、慶喜を絶対君主として長州を武力で征伐すべきだと主張していました。将軍の専制政治を主張していたわけで、およそ民主主義的でない考えの持ち主であったわけです。
『西洋事情』は、あくまで西洋の「紹介」でしかないと思います。
関様、丁寧なフォローとご教示ありがとうございます。あわてて見直しますと平山洋氏は「『口上書』が提出された先は、今日では福井藩と薩摩藩だけが知られているが、実際には幕府・土佐藩・宇和島藩そして会津藩にも送られていたのではなかろうか」と慎重に書いておられました。「具申して廻った」と言う<尾ひれ>は当方の幼稚な勇み足です。すみません。あわてて浮き足だって勢いで書いてしまう癖を反省してお詫びします。いつも冷静なご指摘をいただくことまことにありがたく感謝しております。
さて、赤松小三郎の「口上書」が今日では、歴史に「埋もれてしまった」のとは対蹠的に、当時においては非常に大きな影響力を持ったのではないかと推測しております。あの時点では赤松小三郎の「口上書」が輝くばかり先進的なものであったこと、そしてその影響を受けて出た「有力な」建策がすべて赤松小三郎「口上書」の<顕著に後退的な翻案>であったことから、明治以降の御用歴史学は「赤松小三郎口上書」にスポットライトをあてることができなかったということではないでしょうか。それに、かけがえのない先見性と創意性をもった赤松小三郎の思想と活動とを、まさにこれからの時期に暗殺によって葬ったという、歴史に恥ずべき犯罪がじつに「かの稀有な偉人」の所業であったことから、その偉人の素顔を暴きかねない赤松小三郎の存在自体を歴史の闇に、ということであろうと思います。
地上の地位と権威に不可分の下劣な不条理というのは、関様の最新の本ウェブログ記事においてログをとればそのまま馬脚をあらわす類いのものであることが示されておりますが、まことにそのとおりで、何かあればコガネムシからウジ虫までよってたかって鼻血などなかったことにして「ログをとらせないようにする」連中が肩で風を切って、天ぷらから寿司、焼き肉まで高価で下劣な食べもの(ご好物であれば失礼を)を独り占めして我が世を謳歌していることが、まさにこの世の絶望(餓鬼草紙、地獄草紙)です。じつは、鼻血と赤松小三郎の存在が彼らにとってあきらかにそれだけ「致命的なもの」であるわけですが。
で、赤松建策ログ問題は「どこをどのように」後退させて<換骨奪胎>したのか、というのが問題であると同時に、致命的な事実を、つまり彼ら(薩長土佐)が赤松小三郎「口上書」に対応するような体系的政治理念・政体構想を端から持っていなかったということを露わにしてしまっています。
前投稿に牽きました平山洋氏のご労作を参照しますと、彼らはともかく武威で権力を掌握してからあわてて、福沢諭吉『西洋事情』をかいつまんで「五箇条のご誓文」と「政体書」をでっちあげるというありさまなのですから。
本ウェブログの以前の記事で関様が言及しておられた、明治維新史学会<編>「講座 明治維新 第2巻 幕末政治と社会変動」(有志舎、2011年 )所収の青山忠正氏による「慶応三年一二月九日の政変」(同書;p218~ )によれば同氏は赤松小三郎「口上書」が当時持ったインパクトについて、このように述べておられました。青山氏の叙述の順に追いますと:
01 ついで<2>の補足文では「江戸・京・大坂・長崎・箱館・新潟等への首府へは大小学校を営み」と見えるのだが、これは、のち土佐の政権奉還建白の別紙で、都会の地に学校を設けるべきであること、とあるのに対応する。土佐の建白実行以前、学校建設の提言は、この赤松建言書以外には見えないものである。(同書;p229)
02 具体的に、この赤松建言を、薩摩・越前が、どのように受容したか、また土佐・芸州・尾張などに情報として提供したか、などは判断の直接の手がかりがないが、全く伝えなかったとは考えにくい。土佐側にしても、政体構想の参考に供した可能性が大きい。(同書;p229)
・・・と述べられています。赤松小三郎が「口上書」を直接には薩摩と越前にのみ提出したとして、彼は薩摩・越前から何らかのかたちで各方面に伝えられてゆくことを期待し、むしろ計算していたのではないでしょうか。その結果、青山忠正氏が言葉を選びながら実質的に断定しておられるように、実際に土佐にこのように影響を与えたわけですから。ただ、赤松小三郎の思いを裏切るかたちで、でしたが。
03 「船中八策」とは、土佐出身の岩崎鏡川が『坂本龍馬関係文書』(日本史籍協会、1926年)に「新政府綱領八策」と題して収録した文書の別名だが、伝存の経過や現所蔵者などが明記されず、内容・体裁とも、きわめて不統一なものである。推測だが、維新史料編纂官岩崎は、赤松小三郎の建言書などを史料として閲覧できる立場にあり、それらをもとに半ば創作した可能性も否定できない。(同書;p231)
・・・と、おそらく青山忠正氏は内心では断定しておられます。これはまた、まことに苦笑をさそうようなかたちで、赤松小三郎の建言書が「幕末維新」の激動の中で持っていた先進的・指導的なポジションを裏書きするものだと思います。
04 その構想(引用者注:大政奉還後の政体構想)を最終的にまとめた書面が、「約定書」(薩土「盟約書」)である。・・・「議事堂」「議事院」が混用されているようだが、先の赤松建言にいう「議政局」と同じ性格の機関である。・・・この薩土「約定書」は、春嶽建言ー赤松建言ー芸州の計画のラインで具体化され、かつ洗練されてきた新政府設立構想に、土佐の将軍辞職論を付加し、さらに薩摩が兵力行使の可能性を踏まえて賛同し、成立したものと考えられよう。(同書;p235~236)
青山忠正氏が掲げておられる「前文に続く箇条書き」を見ますと、この薩土「約定書」における「議事院」は二院制を言いながら赤松小三郎「口上書」のようには明解でははありません。具体的には「議事院上下を分ち議事官は上公卿より下陪臣庶民に至るまで正義純粹の者を撰擧し尚且諸侯も自分其職掌に因て上院の任に充つ」と、ネット検索してみましたが、「議事院」自体のあり方について、これ以上の規定はないように思えます( http://nihonsi.web.fc2.com/ko3/sattogei/sattogei.htm ) 。
この「箇条書き」部分の冒頭は「天下の大政を議する全権は朝廷にあり、我皇国の制度法則一切万機議事室より出るを要す」とあり、政治の全権は朝廷にあって「議事堂」は朝廷の下部機関として朝廷による決定の法制化を担当することになっています。
さすれば「薩土盟約」は、赤松建言を換骨奪胎するどころか「赤ん坊を川に流した」ものだと言えるのではないでしょうか。こういう形で利用した以上、赤松小三郎と暗殺事件どころか、オリジナルの赤松小三郎建言まで「川に流す」のは当然かと思います。いかがでしょうか。
なるほど、関様のご指摘はみごとだと、目を開かれました。そういえば長州で藩論が二分されていたところ、藩内の武力クーデターによって「平和的勢力」が沈黙させられたと思いますが、薩摩においては、藩主島津久光と家老小松帯刀という「平和派」に対する西郷武断派のクーデターが、藩主と家老に大切にされ大きな影響力を持っていた赤松小三郎の暗殺ではなかったのか、と思います。それゆえにこそ明治以降の御用史学では赤松小三郎の存在を抹殺しなければならなかったのであろうと。
赤松小三郎に光をあてることは、薩長史観の秘められた枢要部に陽をあてることであることを、関様のご指摘から衝撃的に理解することができました。まるで、稲妻にあたったようです。福沢諭吉など目ではありませんね。