代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

フィリピンに「日本=解放の手助け」論が成立しないのは何故か?

2006年06月07日 | 歴史
 最近コメントのやりとりで議論になった中から、気になった話題を独立したエントリーとして論じたいと思います。本日は、私の5月13日の記事に対するコメントで、山澤さんが紹介して下さった「第二次世界大戦後、日本へのアジア各国の評価」という記事について考えてみたいと思います。その記事は、アジア各国の指導者の中には、日本がアジア諸国の独立の手助けをしたと考えている人々が多いという事実の紹介です。

 「日本はアジアの解放の手助けをした」という声を集めると、その中には、インドネシア人、インド人、ビルマ人、マレーシア人の声がよく出てきます。その反面、同じ南方であっても、フィリピン、ベトナム、カンボジア、ラオス、パプアニューギニア、ソロモン諸島といった国の人々からこうした声は出てきません。これらの国々では「日本が解放の手助けをした」と思われていないようです。
 また、インドネシア、ビルマ、インドなどであっても、日本が解放の手助けをしたと考えている人々は一部でしょう。
 当たり前のことですが、一部の声が全体の声であるかのように考えてはいけません。とかく人間は、自分にとって耳障りのよい言葉には耳を傾けますが、そうでないものには耳を閉ざしてしまうことが多いものです。
 
 以前、藤岡信勝氏が「自由主義史観」を掲げて論壇に登場した頃、「インドネシア人はみんな、日本のおかげで独立できたと感謝している」と平気で書いているのを読んで、「この人は本当に学者なのか?」と呆れかえったものでした。インドネシアには、そのように考えている人がいるにせよ、多数ではありません。おそらくは2-3割もいるかいないかの水準でしょう。ろくにインドネシアのことを知りもしないのに、「インドネシア人はみんな・・・」といい加減なことを堂々と言える感覚に信じられない思いがしたものでした。「つくる会」の捏造体質は、この頃から始まっていたように思えます。
 
 また、そうしたことを思っていてくれているアジア人がいることは事実ですが、日本人の方から恩着せがましく「日本のおかげで」なんて言ってはいけないと思います。日本人がそういう発言をすると、そういう人々の日本に対する「想い」も冷めてしまうでしょう。恩着せがましく「我々のおかげで・・・」なんて言われたら、逆にムッとして「いやそんなことはない」と言いたくなってしまうのが人情というものです。基本的には、アジア諸国の独立は、独立を願う人々の心と運動が成し遂げたものなのですから、恩着せがましく言ってはいけません。

 また、そんなことを言うなら、ソ連がつくったコミンテルン(第3インターナショナル)の方が、日本なんかよりもはるかに一貫して植民地の独立を支援してきました。もっとも、コミンテルンは余計なイデオロギーを外部から注入しようとして害悪もまた多かったのですが、それについては日本も同様です。
 必要以上に自分を過大評価しようとする尊大な態度は、藤原正彦さんじゃあないですが、「品格」を汚すのです。
 以上のことは、主として「つくる会」系の人々に対して申し上げたいことです。
 
 耳障りの良い言葉だけ集めるのではなく、アジアに存在する錯綜した複雑な感情をそれぞれ読み解く必要があるでしょう。
 私はフィリピンに暮らしていた経験があるので、フィリピン人の感情はある程度は分かります。そこで何故フィリピンでは「日本=解放の手助け論」は成立しないのか、少し考察してみます。日本人はフィリピンの歴史などほとんど知らないと思われるので・・・。
 
 フィリピン人100人にインタビューしたとして、「日本がフィリピンの解放を手伝った」と答える人は一人も見つからないのでしょう。少なくとも私はそういう主張をするフィリピン人を見たことも聞いたこともありません。
 
 太平洋戦争中に、日本が形式的であれ独立を与えたのは、ビルマとフィリピンの二カ国だけです。インドネシアには独立を与えていません。独立させてもらっていないインドネシアに「解放の手助け論」が存在するのに対し、実際に独立させてもらったフィリピンに「解放の手助け論」が存在しないのは興味深い事実だといえるでしょう。

 じつはフィリピン人は、自分たちの独立運動の力によって、宗主国である米国に対し将来の独立を約束させていました。1935年にはフィリピン人のマヌエル・ケソンを大統領とする「コモンウェルス政府(独立準備政府)」を発足させていたのです。この独立準備政府は、1946年に正式にフィリピン共和国として独立するはずでした。日本軍の力など借りずとも、独自の力で独立は達成されるはずだったのです。

 ところが1941年12月、真珠湾攻撃と同時に日本軍がフィリピンに侵攻します。フィリピン独立準備政府は、マッカーサー率いる米国極東軍(ユサッフェ)とともに抗戦しますが、日本に破れます。ケソン大統領はマッカーサーとともに敗走し、ワシントンにフィリピン亡命政権を樹立しました。

 日本軍は過酷な軍政を2年近く続けた後、1943年11月にフィリピンを「独立」させます。大統領はホセ・P・ラウレルでした。ワシントンに亡命政権もありましたから、この時点でフィリピンには二つの政府が存在することになりました。日本軍の駐留下で独立した「フィリピン共和国」は、「第二共和制政府」と呼ばれています。(ちなみに「フィリピン第一共和制」とは、1899年にスペインからの独立戦争を経て誕生したアジアで最初の共和国政府のことです。この共和国は、米国の侵略を受けて壊滅しました)
 
 さて、1942年からの2年ちかくの過酷な日本軍政の中で、フィリピン全土で抗日ゲリラ活動が活発化していました。反米感情から当初は日本に協力した住民も多かったのですが、日本軍の横暴によって民心は次第に日本から離れていき、アメリカ時代を懐かしむようになっていました。第二共和制政府の独立にも関わらず、多くのフィリピン人は、ワシントンの亡命政権がフィリピンの正統な政権であると考え、米軍が日本軍を追い出してくれることを待望するようになっていました。

 こうした中で、逆説的なのですが、第二共和制政府と、その大統領のホセ・P・ラウレルは、フィリピン史の中でそれなりに評価されています。その理由は、「ラウレル大統領が決して日本の傀儡にならなかった」という理由なのです。
 
 私がフィリピンに留学していた頃、まだあまりフィリピン史の知識のなかった当時、学校に飾ってあったフィリピンの歴代大統領の肖像画を見て驚いたことがありました。第3代大統領としてラウレルの肖像画が掲げられていたからです。
 私はそこに居合わせた友人に、「あれー、ラウレルって日本の傀儡じゃないの。フィリピン人はラウレルを正統な大統領として認めるの?」と聞きました。
 その友人は笑いながらこう答えました。「そんなことを言うなら、戦後の歴代大統領なんてみんなアメリカの傀儡さ。ラウレルが日本の傀儡だったとしても、アメリカの傀儡じゃなかったのは彼だけじゃないか」。

 ちなみにそのラウレルの肖像画には、彼の事績の紹介として「日本軍による過酷な占領下にあって、懸命にフィリピン人を守ろうと努力した」という主旨のことが書かれていました。 

 例えば、1943年11月に東京で大東亜共栄圏について話し合う「大東亜会議」が開かれます。当然、ラウレル大統領も招かれました。その際、日本側は、ラウレルの演説草稿を事前に検閲しようとしたのです。同席していたクラロ・レクト外務大臣は日本側に対し、「一国の大統領の演説を事前に検閲されては、国家の沽券に関わる。検閲しようというならフィリピン代表団は引き上げる」と主張し、検閲要求を撥ね付けます。
 結局、ラウレルは検閲を避けるため、草稿なしでの演説を行います。「大東亜共栄圏は、それを構成するただ一国の利益のためにあってはならないのです」という主旨の発言をし、大東亜共栄圏の理念を擁護しながらも、日本を堂々と批判したのです。ちなみに、私は大東亜会議の翌日の『朝日新聞』を調べたことがありましたが、ラウレルが「草稿なしで演説した」という事実のみが書かれ、演説内容には何も触れられていませんでした。こちらは検閲で削除されたのでしょう。

 その後、日本軍はラウレル政権に対し「米英に宣戦布告せよ」と再三にわたって要求しましたが、ラウレルはそれを拒み続けました。そして最後まで米国に宣戦布告しなかったのです。フィリピンは不幸なことに、日米の最終決戦場に指名されてしまった関係で、太平洋戦争の最大の激戦地になりました。
 ラウレルは、アメリカと日本という二つの帝国主義国が自国を舞台にして戦争を繰り広げようとする中で、フィリピン人が戦争に巻き込まれるのを可能な限り回避しようと努力しました。日本軍の要求に屈せず、遂に米国に宣戦布告しなかったのです。フィリピン人は今でも、こうしたラウレルの態度を高く評価しているのです。(もっとも、ラウレルの努力があっても、日米決戦の中でフィリピン人は150万人も犠牲になりました)

 山澤さんが紹介してくれた「第二次世界大戦後、日本へのアジア各国の評価」の中で、ビルマのバー・モウは、「われわれの多くの者が長い間さまよい、救いを求めて与えられなかった荒野から、われわれを救い出してくれたのは、東洋の指導国家日本であった」と述べています。このバー・モウは、大戦中に日本が独立させたビルマ国の首相だった人物です。バー・モウの場合、多分に日本の言いなりの傀儡首相の側面が強く、今のミャンマーではあまり尊敬されていないようです(私はミャンマーに行ったことがないのでミャンマー人の感情は分かりません。誰か詳しい方がいたら教えてください)。だから、バー・モウの発言を読んで喜ぶのは、ちょっと危険だと思います。

 ラウレルがフィリピンで尊敬されているのは、過酷な状況の中にあって決して傀儡にはならなかったからです。ラウレルは戦後に、対日協力の罪で戦犯容疑をかけられましたが、裁判で無罪を勝ち取ります。そして、米国とフィリピンの不平等通商条約を改定するために奔走するなど、米国にも日本にも屈しなかった気骨ある政治家としての生涯を全うしました。
 ラウレルは戦後になって日本との国交回復にも尽力しましたが、決してビルマのバー・モウのような日本に媚びるような発言はしませんでした。日本人の耳障りによい発言をしなかったが故に、ラウレルは日本ではあまり知られていないのかもしれません。

 結論をまとめると、フィリピンでは、日本がフィリピンの独立を助けたとは誰も思っていません。しかし逆説的にも、日本が「独立」させた共和国政府の大統領の姿勢は評価されています。そしてラウレル大統領に対する高い評価は、日本軍の評判の悪さと表裏なのです。
 
 長くなってきました。この続きも後日書きたいと思います。
 


最新の画像もっと見る

56 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2006-06-07 19:24:41
フィリピン現代史の話をありがとうございました。いやー、知らない話ばかりでした。
返信する
トラックバックありがとうございました (山澤)
2006-06-08 01:19:42
両面思考が必要ですね。るいネットは右左を越えて、事実だけを拠り所にしたいと思っていますので、代替案さんのこういうトラックバックは大歓迎です。以下るいネットより引用



>1.己(日本)を知る=日本的本源性が世界的共認を得られる普遍的可能性を徹底して突き詰めること。それなしでは単なる「おらが国自慢」に留まり、むしろ周辺国家の反発を受け、かえって実現が遠ざかっていく。



>2.敵(アメリカ)を知る=本源性の対極である私権原理の行く末、具体的にはアメリカの覇権主義は今後どうなっていくのか、の具体的な「現実的な力関係の分析とそれに対抗し制御していく世界共認ネットワークをつくっていく努力」が不可欠である。それなしでは軍事力も経済力も宝の持ち腐れどころが国の内外秩序に対してマイナスにしかならない。





http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=113796





返信する
コメントどうも (pixie酒田市民#0619)
2006-06-08 22:23:54
あなたはわたしを作る会の連中の同志のようにお考えなのかもしれないが、

わたしはあんなアメリカの飼い犬とは相容れません



少しは骨のある人間のようだ



今後が楽しみである
返信する
山澤様 ()
2006-06-09 21:42:13
 紹介して下さった記事の内容、おおむね賛成です。

 このエントリーは、フィリピンの政界エリートの話題でしたので、いずれフィリピン民衆の中の錯綜した感情についても書きたいと思います。

返信する
pixie酒田市民様 ()
2006-06-09 22:30:23
>あなたはわたしを作る会の連中の同志のようにお考

>えなのかもしれないが、



 このエントリーはpixie酒田市民様を批判しようと書いたものではありません。また、pixie様が「つくる会」的な史観を持つ方ではないということも、あの投稿を見れば了解できます。



 ただ、一面的な情報だけ集めて「史観」を正当化してしまおうとする「つくる会」的な態度に対する批判ではあります。ものごとは多面的に見なければならないという・・・。

 続き、また書きますのでよろしくお願いいたします。 

返信する
期待している (pixie酒田市民#0619)
2006-06-09 23:34:49
今後の健闘を期待する



わたしのブログにもどんどん批判してくださればうれしい
返信する
pixie酒田市民#0619 ()
2006-06-10 23:58:12
 ありがとうございます。今後ともpixie様のブログも拝読させていただきます。よろしくお願い申し上げます。
返信する
Unknown (111)
2007-12-14 21:28:49
>アメリカ時代を懐かしむようになっていました

「1898年12月に、アメリカは米西戦争でフィリピンの独立を援助するために
スペインを破ったにも関わらず、後のパリ条約において2,000万ドルで
フィリピンを購入し、自国の植民地にしようとした。1896年以来スペインからの
独立のために戦ってきたフィリピン人達は6月12日に独立を宣言したが、
アメリカからは8月14日に11,000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られた。
アメリカはフィリピン侵略のために残虐の限りを尽くし、
反抗するフィリピン人の60万人を虐殺した。」
返信する
Unknown (111)
2007-12-14 21:39:28
アメリカは「独立」と同時にフィリピンと米比間の無関税貿易や
米国人や米企業の内国民扱いを定めたベル通商法を締結させ経済的に羽交い締めにし
更に数々の軍事協定を結んで軍事拠点も確保
挙げ句の果てには独立直前にベル通商法に反対した議員を議会から追放
政治、経済、軍事と従属化においた上での名ばかりの独立
返信する
111さま ()
2007-12-21 23:27:13
 すべてご指摘の通りです。ただ、「反抗するフィリピン人の60万人を虐殺した」に関しては異説もあり、比米戦争のフィリピン人犠牲者は、70万人という歴史学者もいれば、20万人という学者もいて正確な数字は定かではありません。
  
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。