若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

社会的なお手盛り ~ 社会というものはありません。あるのは個人と家庭だけです ~

2017年12月02日 | 政治
熊本市議会の「子連れ市議」こと緒方市議の続編



○「社会的な問題」を笠に着たお手盛り


「子育ては社会的な問題。個人の問題にしないで」 子どもを連れて議場に入った緒方市議の思いと今後 2017.12.1
======【引用ここから】======
自身が妊娠してからの事務局の対応にも、強い疑問を持った。緒方市議は、現状の市議会環境は子育て世代の議員やスタッフが安心して働けないと思い、託児所の設置を求めた。議会内にいる各議員のスタッフは女性が多いため、彼女らの働きやすさ向上も念頭にあったという。しかし、事務局からの答えは一貫して「個人でどうにかしてください」との答えだった。
個人でベビーシッターを雇うことも可能だったが、この「個人で」という対応に、子育て世代が直面している難しさが表れていると感じたという。

「子育てはみんなでするものなのに、親だけの責任と思われてしまう。子どもを育てているのに、まるで育てていないかのような働き方を要求される。こういうことが親の負担になって虐待などの社会問題に繋がったり、少子化を進めているというのに、個人の問題として扱われてしまう現状に、おかしい、と心に湧いてくるものがありました。たくさん寄せられる子育て世代の悲痛な声を、いい加減聞いてほしいと思いました」

======【引用ここまで】======

いかに「子育ては社会的な問題」であろうとも、その施策が
「市議会に託児所を設置しよう」
ではお話にならない。
市議が議会事務局に圧力をかけ、財政当局に予算要求させ、議会に補正予算が上程され、自分が審議に携わり議決に加わる。そして税金で託児所が設置され、市議が子どもを預けることができるようになる。

自分の利益になることを自分で決める。こういう手法を「お手盛り」という。
自分が妊娠した後に、「社会のみんな」ではなく議員関係者(主に緒方氏自身)が利用する託児所の設置を求めることが、他の人から見たらどう映るか。
受益者と費用負担者が多数存在すると構図が複雑になってよく分からなくなることがあるが、今回の託児所設置で恩恵を受けるのは議会関係者(主に緒方氏自身)しかおらず、お手盛りの構図がハッキリクッキリと浮かび上がる。

○お手盛りは醜い


もし緒方氏の要望どおり議会棟に議会関係者用の託児所を設置したら、どうなるか。

まず、熊本市役所の職員は不満を述べるだろう。
「市議は日ごろ偉そうなことを言っておきながら、マスコミまで使って、自分達だけ税金で優遇されるよう美味いことしやがって」
と。
次に、これを伝え聞いた熊本市民も不満を述べるだろう。
「市は税金ばっかり徴収して、『市民の育児環境を整備します』なんて言いながら、真っ先に自分の職場で育児環境を整備したよwwだいたい、市議って月収60万以上、年収で1000万くらいあるんだろ」
と。

キレイゴトと利益誘導とのギャップがあまりに大きくて、非常に醜い。嫌悪感すら覚える。
自分への利益誘導がハッキリしている点、いわゆる「モリカケ騒動」の安倍首相よりも醜い。

緒方氏は税金の使い道に影響力を行使することができる市議という権力者なのだが、上記引用元の緒方氏発言を見ていると自身が市議であるという認識がなく「子育て世代のいち市民」と勘違いしているようにすら思える。

その点、熊本市議会事務局は分かっている。

緒方市議の赤ちゃん同伴騒動、未だ収まらず 熊本市議会事務局「要望書の提出など、他にやりようあった」2017.11.27
======【引用ここから】======
議会事務局によると今年1月頃、緒方議員から、「子どもを連れて議会に参加したいので託児所を作って欲しい、だめな場合はベビーシッター代を公費で出してほしい」との要望があり、事務局側は、市民が子供を預ける際には個人的にお金を払っていることを挙げ、「気持ちは分かるが、議員のために税金で作ることはできない。個人で預けてきてください」と回答してきたという。
======【引用ここまで】======

「気持ちは分かるが、議員のために税金で作ることはできない。」
そのとおりである。

○「社会的な問題」なんて存在しない


よく「社会的な問題」という表現が使われるが、これを詳細に見ていくと、受益者も費用負担する者も結局は特定の個人なのだ。

今回の託児所の件は受益者がごく少数(主に緒方氏自身)なので分かりやすいが、複数の受益者と費用負担者が入り混じり、誰がいくら負担し、誰がいくら利益を受けているか分からないということも多々生じる。分かりにくいのだが、詳細に観察していけば結局は個人の問題に行き着く。

「社会的な問題」と言えば聞こえがいいが、結局のところ、個人のところで生じる負担をどの個人に転嫁するかという問題になる。「社会的な問題」を行政の力で解決しようとすることは、負担を強制的に誰かに押し付けることを意味する。自発的に負担するのであれば不満は生じないが、負担を押し付けられたら強い不満が生じる。

また、行政を介することで徴収と給付の関係が複雑になり、その複雑さに付け入って非効率や不合理が横行する。新規参入制限により既存業者が有利になる、補助金を騙しとる等だ。

緒方氏の主張に見られるような、自称『社会的な問題』を行政的手法で解決することはまず無理だ。むしろ、解決しようとする過程で新たな問題が発生する。この連鎖を断つべく、緒方氏のような「○○は社会的問題だから行政が施策を講じなければならない」という声をこれからもひとつひとつ批判していこう。

マーガレット・サッチャー「社会というものはありません。あるのは個人と家庭だけです。」

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