若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

「政府-正統性=暴力団」 ~ 政府に新たな役割を持たせない ~

2017年05月24日 | 政治
以前、当ブログにて「公務員 - 合法性 =ヤクザ」と述べたことがある。

○「公務員-合法性=ヤクザ」「労働組合=-合法性」「公務員+労働組合=ヤクザ」 - 若年寄の遺言
○公務員とヤクザの違い ~合法的略奪の反道徳性~ - 若年寄の遺言

今回は、この視点をもとに「国家」「政府」を見てみよう。

国家の三要素とは -意味/解説/説明 | 弁護士ドットコムで法律用語をわかりやすく
=====【引用ここから】=====
国家の三要素とは、「領土・国民・主権」であり、「国家」であると認定されるために必要な基準要項のことを意味する。法学・政治学の観点から、これら「領土・国民・主権」をもつものを「国家」としている。
-----(  中略  )-----
主権について、正統な物理的実力のこと。この実力は、対外的・対内的な性格をもって、排他的に行使できなければならない、つまり、主権的でなければならない。
=====【引用ここまで】=====

暴力団ミニ講座その5
=====【引用ここから】=====
5) 縄張り
「縄張り」とは、暴力団が正当な権利を持っているわけでもないのに、他の暴力団組織が活動することを拒否し、自己の権利として主張している勢力範囲のことです。

-----(  中略  )-----
こうした、暴力団の縄張り意識には、要するに、一定の土地とその区域内において、その集団が独占的、恣意的に支配する権利と、さらにその内外を明確に区分する境界の意識の3つが含まれているわけです。
=====【引用ここまで】=====

この二つの説明がよく似ていると思ったのは、私だけだろうか。

国家(≒暴力団とその縄張り)の範囲内では、実力行使によって他の国家を排除した独占的な権益が生じている。政府は、暴力団と同じように自身の実力によって縄張りから他の政府の影響力を排除し、縄張りからの上納金を集めている。

この二つの説明の中で、政府と暴力団が違うのはどこかと言えば、マックス・ウェーバーが言うところの「正統(当)性の有無」である。つまり、

「公務員 - 合法性 = ヤクザ」

という式が成り立つのと同様に、

「政府  - 正統性 = 暴力団」

という式が成り立っている。
政府と暴力団の違いは、ほとんど「正統性の有無」しか無く、これ以外の、例えば成り立ちや行動原理、あるいは政府指導者間の駆け引きと暴力団のそれ、といったものは非常によく似ていると言える。

暴力団は、誰も頼んでもいないのに勝手に「ここは俺たちの縄張りだ」と主張し、他の暴力団の影響力を排除し、その実力を背景にして飲食店等に対し「ここはうちの縄張りだ、みかじめ料を払え」と脅してくる。政府も、個々の住民が同意していようがいまいが無関係に「ここは我が領土であり、お前は我が国民だ」と主張し、刑罰を背景に徴税している。

さてここで、一定のみかじめ料の収入が見込める地域で、既存の暴力団が手を引いて空白地帯ができたら、他の暴力団は好機と見て縄張りを広げようとするだろう。同様に、日本国政府という正統性を(一応)備えた暴力団が、日本国という縄張りを放棄したらどうなるだろうか。今が好機とばかりに、他国政府が縄張りを拡大してくることが予想される。また、国内的には、日本国政府という上位の暴力団が消えたことで、暴力団が自身の勢力拡大に乗り出すことだろう。

こうした事態に対し、無政府資本主義者は、民間警備会社との契約による治安維持を主張している。これを採用すれば、隣町を縄張りとする暴力団の拡大は防げるかもしれない。しかし、民間警備会社と契約する者の中には、「民間警備会社が有する実力をもって逆に隣町を縄張りとする暴力団を制圧し、隣町との間で抱えていた水利権や廃棄物処理のトラブルを、うちの町にとって一方的に有利な形で解決してしまおう」と考える人も出てくるだろう。国内的には、
暴力団 対 暴力団、
暴力団 対 民間警備会社、
民間警備会社 対 民間警備会社
という群雄割拠時代の幕開けとなり、同時に、他国政府が介入してくるというわけだ。

「アラブの春」の顛末を見ても、既存の国家の枠組みの全否定によって武装勢力の乱立が起きてしまうよりは、政府の権限に一つ一つ制限を加えていくやり方のほうが良いのではなかろうか、と思う今日この頃。

政府は「国防」というサービスを提供するために設立された組織ではない。暴力団が拡大し長期間にわたって存在し、正統性(らしきもの)を備えたに過ぎず、厄介な存在であることに変わりは無い。政府も暴力団も無ければ無い方が良い。ただ、これを全部なくすことができるのか。例えば、日本政府を無くしたところで
「アメリカ政府と中国政府とロシア政府とが分割して縄張りを主張するようになるだけではないか?」
「別の暴力団が台頭して日本国政府が就いていたポジションに就こうとするだけではないか?」
という疑問が残る。

さて。

リバタリアニズムには、国家の存在を認めるか否か、国家の役割をどの程度認めるかという点から、「古典的自由主義」「最小国家主義」「無政府資本主義」といった分類がなされている。言ってみれば、国家を、その中の統治組織である政府をどこまで小さくするかというゴールの設定に関する議論である。
政府≒暴力団という視点からは、
「政府は暴力団の親類であって好ましい存在ではないがある程度の役割を認める(古典的自由主義)」
「政府は暴力団の親類であって好ましい存在ではないが根絶は難しいからきつくきつく拘束しておくべき(最小国家)」
「政府は暴力団の親類なのだから根絶すべき」
といった議論になるだろう。

ここまでの議論について、私自身、どこをゴールに設定するのが理論的に正しいのか、また現実的にどこまで可能なのか、ここ数年ほど迷いに迷っているというのが現状である。

ただ1つ言えることは、

人権や差別問題や政治的公正を重視した政治

を称揚する発想や姿勢は、通常、リバタリアニズムの考え方からは出てきにくい、ということだ。政治によって課題解決を図るのは、政府(≒暴力団)の強制力によって遂行されることを願うという非リバタリアニズム的思考法である。

・政府(≒暴力団)の手によって保障される人権
・政府(≒暴力団)の手によって解消される差別問題
・政府(≒暴力団)の手によって実現される政治的公正

部落差別を解消しようと政府が施策を打ち出したことで、同和利権を生み出してしまったように、政治で解決しようとする意図は別の歪みを生じさせ新たな問題を引き起こす。もし、現時点で政府が特定の課題解決に積極的でないのなら、そのままにしておくのがベターである。そして、政府に介入させずに課題解決を図る道を探らなければならない。

政府は、実力をもって住民からみかじめ料を取ることを生業としている組織である。こういった組織は、雁字搦めに拘束し、住民へ影響の無いところでの縄張り争いに専念させよう。政府は、本能として他国政府や国内の暴力団との縄張り争いをしようとする。これ以外、政府には何もさせないことが、かえって人権保障や差別の解消に寄与するだろう。
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今村会見録にみる「国の責任」とは何か?

2017年05月01日 | 政治
「東北でよかった」発言で辞任した今村(前)復興大臣。
この発言を擁護する気は全くないのだが、その前に物議を醸した「自主避難は自己責任」会見についてはちょっと考えてみたい。前大臣の発言がどうのではなく、質問した記者の側の思想・思考方法に対し疑問が生じている。

以下、その会見録を部分抜粋。

今村復興大臣記者会見録[平成29年4月4日]
=====【引用ここから】=====
(問)・・・3月17日の前橋地裁の国とそれから東電の責任を認める判決が出たわけですけれども、国と東電は3月30日に控訴されました。ただし、同じような裁判が全国で集団訴訟が起こっておりますし、原発は国が推進して国策ということでやってきたことで、当然、国の責任はあると思うんですが、これら自主避難者と呼ばれている人たちに対して、国の責任というのをどういうふうに感じていらっしゃるのかということを、国にも責任がある、全部福島県に今後、今まで災害救助法に基づいてやってこられたわけですけれども、それを全て福島県と避難先自治体に住宅問題を任せるというのは、国の責任放棄ではないかという気がするんですけれども、それについてはどういうふうに考えていらっしゃるでしょうか、大臣は。
(答)このことについては、いろんな主張が出てくると思います。今、国の支援と言われますが、我々も福島県が一番被災者の人に近いわけでありますから、そこに窓口をお願いしているわけです。国としても福島県のそういった対応についてはしっかりまた、我々もサポートしながらやっていくということになっておりますから、そういうことで御理解願いたいと思います。


-----  (中略)  -----

(問)福島県、福島県とおっしゃいますけれども、ただ、福島県に打切りの、これは仮設住宅も含めてですけれども、打切りを求めても、この間各地の借り上げ住宅とか回って、やっぱりその退去して福島に戻ってくるようにということが福島県の、やはり住宅設備を中心に動いていたと思うんですが、やはりさっきも言いましたように、福島県外、関東各地からも避難している方もいらっしゃるので、やはり国が率先して責任をとるという対応がなければ、福島県に押し付けるのは絶対に無理だと思うんですけれども、本当にこれから母子家庭なんかで路頭に迷うような家族が出てくると思うんですが、それに対してはどのように責任をとるおつもりでしょうか。
(答)いや、これは国がどうだこうだというよりも、基本的にはやはり御本人が判断をされることなんですよ。それについて、こういった期間についてのいろいろな条件付で環境づくりをしっかりやっていきましょうということで、そういった住宅の問題も含めて、やっぱり身近にいる福島県民の一番親元である福島県が中心になって寄り添ってやる方がいいだろうと。国の役人がね、そのよく福島県の事情も、その人たちの事情も分からない人たちが、国の役人がやったってしようがないでしょう。あるいは、ほかの自治体の人らが。だから、それは飽くまでやっぱり一番の肝心の福島県にやっていっていただくということが一番いいというふうに思っています。
 それをしっかり国としてもサポートするということで、この図式は当分これでいきたいというふうに思っています。
(問)それは大臣御自身が福島県の内実とか、なぜ帰れないのかという実情を、大臣自身が御存じないからじゃないでしょうか。それを人のせいにするのは、僕はそれは……。
(答)人のせいになんかしてないじゃないですか。誰がそんなことをしたんですか。御本人が要するにどうするんだということを言っています。
(問)でも、帰れないですよ、実際に。
(答)えっ。
(問)実際に帰れないから、避難生活をしているわけです。
(答)帰っている人もいるじゃないですか。
(問)帰っている人ももちろんいます。ただ、帰れない人もいらっしゃいます。
(答)それはね、帰っている人だっていろんな難しい問題を抱えながらも、やっぱり帰ってもらってるんですよ。
(問)福島県だけではありません。栃木からも群馬からも避難されています。
(答)だから、それ……
(問)千葉からも避難されています。
(答)いや、だから……
(問)それについては、どう考えていらっしゃるのか。
(答)それはそれぞれの人が、さっき言ったように判断でやれればいいわけであります。
(問)判断ができないんだから、帰れないから避難生活を続けなければいけない。それは国が責任をとるべきじゃないでしょうか。
(答)いや、だから、国はそういった方たちに、いろんな形で対応しているじゃないですか。現に帰っている人もいるじゃないですか、こうやっていろんな問題をね……。
(問)帰れない人はどうなんでしょう。
(答)えっ。
(問)帰れない人はどうするんでしょうか。
(答)どうするって、それは本人の責任でしょう。本人の判断でしょう。
(問)自己責任ですか。
(答)えっ。
(問)自己責任だと考え……。
(答)それは基本はそうだと思いますよ。

=====【引用ここまで】=====

政府の責任って何だろうか。

何か困りごとが起きた際に、「政府は責任をもった対応をしろ」と要求するのは簡単である。言いやすいし、聞こえも良い。しかし、政府は際限なく分配をするわけにはいかない。そこで、税金を分配する際には「住民から集めた税金を、○○という客観的条件を満たした人に配る。」といったルールを作る。ルールに該当した人は金を貰うことができ、ルールに該当しなかった人は何も貰えない。

政府は、住民から税金を徴収し、この集めた金を配る。政府は、基本的にこれしか出来ない。政府に対し「責任を持って支援しろ」と要求するのは、政府の向こう側にいる納税者に請求書を送付しているのと同じことである。

昨今流行りの「権利と義務はセット。義務を果たした者だけが権利を主張すべき」論も、根っこは同じだ。社会権・社会保障給付については、まず納税の義務に基づき納税者が納税をしなければ、政府は給付をすることができない。社会権を声高に叫ぶということは、その裏打ちとなるべき納税義務の強化を要求するのと同じことであり、つまり、「社会権の強化=政府による住民の管理強化」ということなのだが、この危険性はなかなか理解されない。「政府による監視社会に反対する!」という論者が、同時に「政府は生存権をしっかり保障すべきだ!」と言うのを聞くと、うんざりして頭が痛くなる。

さて。

話が脱線したが、責任という言葉は多義的であり、何を指しているか不明確な場合が多い。ここで仮に、責任の中身を上述のような「最終的な経済的負担」という意味で考えたとき、責任を負っているのは納税者である。政府自身が富を生み出しているわけではない。政府は、納税者から税を徴収して、途中でピンはねして、別の住民に配るという作業をしているに過ぎない。「最終的な経済的負担」という意味では、政府は常に無責任な存在である。政府が無責任な支払いをするのを防ぐために、客観的なルールは欠かせない。

一方、責任の中身を
「何かを決定し、その決定に何らかの誤りが発覚した時、その決定をした者はその職を辞する」
「何かを決定し、その決定に何らかの誤りが発覚した時、前回の決定内容を変更する」
といった政治的責任と考えた時、政府には大いに責任がある。

今回の件であれば、国策として「火力、水力、原子力、太陽光のベストミックス」と称して発電方式ごとの目標割合を定め、電源立地地域交付金などで立地自治体を従わせて目標割合へ誘導するということを長年続けてきた。発電所のある自治体へ様々な形で補助金や交付金をばら撒いたため、「(損害賠償や住民対策なども含めた)発電方式ごとの、発電に要する費用」の実態が不明確になっている。

この意味での責任を追及するのであれば、発電方式ごとの割合目標を政府が定めるという電力政策そのものを放棄するよう要求するのが筋だ。「政府なら発電方式ごとの最適な割合が分かるし、その割合を実現できる」というのが誤りであると明らかになったのであるから、これを放棄させなければならない。

上記を踏まえて、改めて引用した会見録を読んでほしい。

会見録に登場する記者は、「国として責任をとるべきだ」ということを繰り返しているが、その中身は、「自主避難者へ支援しろ(金を払え)」の繰り返し。栃木、群馬、千葉からの自主避難者を福島からの自主避難者とを混同しており、この記者の主張から、支払いの基準と成りうる何らかの客観的条件を読み取ることはできない。「○○という客観的条件に該当する人に対しても政府は支援をするようにしろ」というルール変更の要求ではなく、かといって、「政府は出来もしない電源ベストミックスを放棄し、電力を市場に委ねるべき。電力分野への政治介入をやめるべきだ」という政治的責任の追及でもない。そう、この記者は今村前大臣と同じかそれ以上に無能なのだ。

政府が「国は無責任だ!」という非難を恐れ、この記者のような要求に応じ続けていくと、徒に納税者の負担が増え続ける。この記者は、正義の味方を気取って政府に対し責任追及しているつもりで、実は、納税者に対する請求書をせっせと書いているに過ぎない。
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自民≒共産≒保守≒リベラル

2017年04月06日 | 政治

○2017年4月2日号 しんぶん赤旗日曜版 東工大教授 中島岳志さん
=====【引用ここから】=====
今、私のような保守の立場の人たちが"困っている"ことがあります。政策から政党を選ぶというインターネットのシミュレーションをやると、何回やっても共産党を選んでしまう。一番遠いのが自民党と維新。保守の私としては、この現象を深く考えるべきですが、同時に面白い現象だな、と思っています。
=====【引用ここまで】=====

この人の考える「保守」って何だろう。

=====【引用ここから】=====
 対立軸は「リベラルVS保守」だとよくいわれます。しかし本来の保守思想は、フランス革命のような急進改革を批判し、リベラルや自由主義を目指すものです。
 しかも保守主義者は「議論」を重視し、自分以外の「他者」の言い分や叡智(えいち)を尊重して合意形成をはかる。だから、リベラルと保守というのは実は、相性がいいのです。

   ----(中略)----
 本来の保守からいえば、資本主義には一定の歯止めが必要です。国家が一定の再配分を行い、秩序を安定させないといけないのに、市場の論理がすべてに優先されます。
=====【引用ここまで】=====

議論を重視し、合意形成を図る。資本主義に対し一定の歯止めをかけ、国家が再分配を行い、秩序を安定させる。これを指して「保守」と呼ぶのであれば、そりゃリベラルと相性は良いだろう。保守とリベラルの違いは、自民党風の介入を好むか、共産党風の介入を好むか、といった風味の違いでしかない(共産党風の上意下達な民主集中制が、『議論を重視』とは・・とても思えないが)。この「違いは風味だけ」という点が、かえって同族嫌悪を引き起こしているのだろう。

さて、この赤旗記事を読んでいくと、「新自由主義」というマジックワードが登場する。このマジックワードは面白いもので、対立する者に「新自由主義」のレッテルを貼ると、鋭い批判をしたつもりになれてしまうのだ。こうした症状は、山口二郎氏や内田樹氏、出水薫氏などに見られたものであるが、この中島氏はどうだろうか。見てみよう。

=====【引用ここから】=====
自民党が本来の保守でなくなる大きな転換点になったのは、1982年に誕生した中曽根内閣です。アメリカでレーガン大統領、イギリスでサッチャー首相が台頭した時期です。ラディカルな市場主義、小さな政府、官から民への規制緩和・・・。こういう新自由主義路線が「保守」のマスクをかぶりだし、財界を含めこれが「保守」だと思い込んだ。それが安倍政権で極に達した感があります。
=====【引用ここまで】=====

(第1次安倍政権はともかく)現在の安倍政権が実現した政策、あるいは実施しようとしている政策の中に、ラディカルな市場主義、小さな政府、官から民への規制緩和といった新自由主義路線に沿ったものが一つでもあるだろうか。いや、一つ二つの例示じゃ足りないだろう。何せ「新自由主義路線が安倍政権で『極に達した』」と述べているのだから。

規制緩和が骨抜きになったアベノミクス、マイナンバー、労組まがいの賃上げ要請、社会保障負担の増加、まち・ひと・しごと創生、「我が事丸ごと」地域共生社会、公的マネーの筆頭株主化、プレミアムフライデー、飲食店での喫煙禁止、共謀罪・・・どれをとっても、個人や地域社会への介入強化、市場原理の抑制の方向に作用している。

安倍政権は、個人の活動や地域社会に介入し市場経済を抑制しようとしている。色や形が違うだけで、共産党も介入と抑制を好む点では同じなのだ。

何となく安倍政権が気に食わない中島氏。気に食わないのは別に結構なことなのだが、どう気に食わないかを具体的に述べずに「安倍政権は新自由主義だー」と主張して気の利いたことを言ったつもりになってしまうというのは、山口氏、内田氏、出水氏と同様の症状を発したとみていいだろう。

新自由主義の立場(リバタリアンもこれに属するであろう)から見れば、自民党も共産党も保守もリベラルも大差ない。冒頭の「保守とリベラルは実は相性がいい」という中島氏の分析は、的確である。保守を標榜している人が支持政党シミュレーションで共産党支持になってしまうというのも、別におかしなことではない。ただ、今の安倍政権が新自由主義に見えてしまうというのは、現実認識が歪んでしまっているとしか言いようがない。

安倍政権のようなダメ政権を新自由主義に押し付けることなく、保守≒リベラルの側で仲良く引き取ってほしいものだ。
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今、改めて読むべき白川前総裁の講演録 ~ 無為無策こそ最良の策 ~

2017年03月15日 | 政治
世の中には、

管理通貨制度という、無限に富を生み出せる人類唯一の打ち出の小槌

なんてことを主張する中高数学科教員が存在する。
このように、リフレ派の愚かな一部は、「富=通貨」と勘違いし、これを土台に社会や経済の理論を考え、政府や日銀のとるべき政策を論じている。そして、アベノミクスを礼賛し大規模な金融緩和を求め続けた。

しかし、打出の小槌はこの世に存在しない。商品やサービスといった富を生み出すのは個人の行為であって、通貨量の変化は、既存の富の配分過程に影響を与えるに過ぎない。

新しく1万円を追加発行した場合、発行直後なら、この1万円で従来1万円だった物をそのまま買える。この瞬間だけは無から有を生み出したように見えるが、新通貨が流通するにつれて価値が薄まる。最終的には、1万円で買えるのは以前の9千円相当だった物・・・といったような事態が生じる。

このように、価値が薄まる前の通貨を入手した人は得をし、従来の通貨を持っていた人は通貨価値が薄まった分だけ損をする。この損得が生じることによって、富が移転し、経済の動きに一時的な変化が生じる。しかし、あくまで一時的なものでしかないし、富が増えているわけではない。

さて、数学好きな人達の経済談義に対しては、次のような懐疑が生じている。

2年目のアベノミクス=「異次元の金融緩和」の現況とその課題― ゆうちょ・かんぽの国債保有問題の周辺(その2) ―
=====【引用ここから】=====
 実質金利がマイナスになれば、家計も企業も、預金のような形で資産をもっていると目減りしてしまうので、我先に消費、投資をするようになり、完全雇用が達成され、景気が回復し、需給ギャップが解消されて適度なインフレが起こる好循環が生まれるというものだ。
 実質金利をマイナスにすることによって、人々が消費や投資をするインセンティブを持つという議論は、一般論としては理解できるが、あまりにも抽象的である。
 まず現実には、家計も企業も「期待」だけで行動するわけではなく、実体経済面で投資、雇用が発生して、人々の期待が変化することを考えると、徹底的な金融緩和それ自体によって先行的に人々のインフレ期待が形成されるメカニズムについては、必ずしも説得的に示されているわけではないと言えよう。

=====【引用ここまで】=====

人々の消費や投資に向けたインセンティブ形成のメカニズムの説明が不明確で説得的でない、というインフレ期待に対する懐疑は、現実のものとなった。リフレ派の絶大な支持をうけ黒田日銀は異次元緩和を実施したものの、目標とした物価上昇2%を達成することはできなかった。人の心は数学のとおりにはいかないものである。

だいたい、消費の多くを占める個人の消費者が、期待インフレ率の動向を理解し把握しているわけがない。期待インフレ率の代表的な指数としてBEIが挙げられているが、「そもそもBEIなんて聞いたことがない」という人がほとんどだろう。個人の消費者は、原油価格の上昇によるガソリン高騰、豊作によるキャベツの安売り、勤め先の業績悪化による給料の下落といった、目に見える形での値動きを材料に「次に何を買うか」を判断していると考える方が自然だ。BEIの動向から判断して「よし、新車を買うのは今だ」と決心する人がどれくらい存在するだろうか(ゼロとは言わないけれど)。

期待インフレ率が全く影響しない、とは言わないが、現実の動きは、

(1)インフレ期待 → 消費や投資に向けたインセンティブの変化

という直接的、即時的なものではなく、

(2)BEIの変化 → 投資に向けた企業判断への影響 → 新商品開発の期間の変化、生産量の変化 → 雇用数の変化、小売価格の変化、賃金の変化 → 消費者の消費行動の変化 ← 社会保険料の増加による手取りの減少

などといった、間接的、長期的、複線的な動きで考える必要があろう。この複雑な(2)の動きを、リフレ派は軽視している。(1)の側面を重視し(2)を軽視するリフレ派の議論からは、「円周率=3」で計算してロケットを打ち上げるような危うさを感じ続けている。点火ボタンを押したけど打ち上がらないので、もう一度点火作業に取り掛かったら爆発した・・・なんてことにならなければ良いのだけど。

さてさて。

黒田日銀の掲げた政策が失敗し、期限内の目標達成ができず迷走する中、今更ながら白川前総裁の講演録を読んでみた。白川氏は、私のリフレ派に対する懐疑について適切に答えてくれている。
白川氏は、上記の数学的なインフレ期待に対し次のように述べている。

【講演】白川総裁「物価安定のもとでの持続的成長に向けて」(きさらぎ会) : 日本銀行 Bank of Japan
=====【引用ここから】=====
こうした現実の中で形成されてきた物価に関するある種の常識的な感覚、すなわち「物価観」こそが、経済理論では「インフレ予想」という用語で抽象化されているものの実像だと考えられます。消費者が物価は上がるものではないという「物価観」を背景に、企業の値上げを受け入れられないため、企業でも賃金を含めてコストを抑制する動きが続き、デフレからの脱却に時間がかかっているという面もあるように思います。やはり、経済の成長力を強化し、賃金の引き上げを実現していく、という実体的な変化を起こすことが不可欠です。
=====【引用ここまで】=====

経済理論から数学的に弾き出されるものだけでなく、感覚としての「物価観」を重視する白川氏。リフレ派の単純な議論よりも、ずっと説得的である。

この白川氏は、リフレ派から「無為無策でデフレを放置した」と批判されていた。この講演が行われたのも、政府からデフレ脱却のための大規模な金融緩和を求められていた時期である。白川氏への批判や圧力については、次のようなものが挙げられる。

20兆円の追加緩和要求 背景に政府の苛立ち 日銀法改正議論加速も2012.10.23
=====【引用ここから】=====
 政府が日銀に、資産買い入れ基金を100兆円規模に増額する大幅な追加金融緩和を求めるのは、これまでの緩和が小出しで、デフレ脱却や円高修正が後手に回ってきたとのいらだちが根っこにある。30日の金融政策決定会合の結論が不十分とみられれば、日銀法を改正し、政府に総裁解任権などを持たせて金融緩和を強制しよう、といった議論が加速すると予想される。
=====【引用ここまで】=====

追い詰められた白川日銀(2012年12月16日)  - Entrance for Studies in Finance Gooblog Edition
=====【引用ここから】=====
総選挙で追い詰められた白川日銀(2012年12月16日)
 白川日銀総裁は2012年12月16日の衆議院選挙の結果、追い詰められた。衆議院選挙では、2%の物価上昇率目標を掲げた自民党が大勝した。12月18日に自民党本部に訪れた白川日銀総裁に対して安倍自民党総裁は、日銀と政府の間の政策アコード締結、物価目標導入を要請した。安倍総裁は選挙結果を受けて、12月19日から12月20日に開催される金融政策決定会合で、物価目標導入の結論を出すことを求めた(物価目標の設定に踏み切らない場合は日銀法改正に踏み切るとした)。

=====【引用ここまで】=====

といったように、あの頃は、連日にわたって日銀に対する要請が報じられていたなぁ…という記憶がある。

白川氏は「日銀の金融緩和によって意図する通りのインフレ率に誘導することはできない」ということを認識しつつも、与野党からの圧力に屈して不必要な金融緩和をしてしまった、というのが私の印象だ。

日銀や政府が行うべきことは、積極的な無為無策である。白川氏は無為無策だったから批判されるべきではなく、無為無策に徹しきれなかったから批判されるべきである。異次元緩和やマイナス金利などの金融緩和策を打ち続けた現在の黒田総裁など、論外である。無為無策に徹しきれなかった点、リバタリアンとしては物足りなさを感じる。しかし、そこを差し引いても白川氏の講演録は示唆に富んでいる。

次に、講演録の中の「需給ギャップ」について読んでみよう。

【講演】白川総裁「物価安定のもとでの持続的成長に向けて」(きさらぎ会) : 日本銀行 Bank of Japan
=====【引用ここから】=====
需給ギャップの意味
次に、デフレ脱却を巡る第3の論点、すなわち需給ギャップの意味についてお話しします。

~~~( 中略 )~~~
需給ギャップは、一般に「需要不足額」として認識されているため、これを埋めるだけの需要を政策的に付ければ、ギャップが直ちに解消してデフレから脱却できるはずだ、という議論がなされることがあります。
=====【引用ここまで】=====

さあ出てまいりました、「需要不足額」。

マクロ経済学、ケインズ経済学で言うところの総需要、有効需要の不足というアレである。マクロ経済学の教科書を読むと最初の数ページで嫌になってしまうのだが、その理由の一つにこの「総需要」という概念がある。これがどうもしっくり来ない。マクロ経済学というのは、需要と供給の全体を把握でき、両者の大小を比較できるということを当たり前の前提として「今は需要不足だから~」と言うわけだが、果たして現実に即した形で把握できるのか、個別の需要と供給の対応関係を無視しているのではないか、という疑念が頭を離れない。

これについて、白川氏は次のように述べる。

【講演】白川総裁「物価安定のもとでの持続的成長に向けて」(きさらぎ会) : 日本銀行 Bank of Japan
=====【引用ここから】=====
需給ギャップというのは、あくまで現存する供給構造を前提に、それらに対応する需要不足を捉えたものに過ぎない、という点です。社会や経済は常に変化するものであり、日本でも、高齢化や女性の社会進出、価値観の多様化などによって、新しいタイプの需要が潜在的にはどんどん生まれていると考えられます。
~~~( 中略 )~~~
こうした未充足の需要、すなわち成長分野における「供給不足」は、需給ギャップにカウントされていません。つまり、変化の激しい経済にあっては、需給ギャップは、既存の財・サービス供給に対する需要不足のみを捉え、新たな潜在需要に対する供給不足を捉えていないという意味で、非対称な概念となっています。言い換えると、本来「需給のミスマッチ」と認識すべき部分まで、「需要不足」という形で示されているということです。
=====【引用ここまで】=====

需給ギャップは、現存する供給構造に対応する需要不足を捉えたものに過ぎず、未充足の需要に対する供給不足がカウントされていない、という白川氏の指摘。この点についても納得である。

昔からある商品Aは20単位の供給過剰で在庫の山だが、今年始まった新しいサービスBの供給は全然追い付いていない、とする。ここで、サービスBはどのくらい足りないのかは通常分からない。現実の経済は、こうした個々の財・サービスの過不足の無数の組み合わせによって成り立っているわけだが、これらを合算した数字に意味はあるのだろうか。

長期的には、供給過剰な商品Aの生産を減らし、そこに携わっていた労働者は退職することを余儀なくされるだろう。一方、新サービスBの供給は増えていき、その過程で新たな雇用が発生するだろう。AからBへの生産要素、労働力の移行が進まなければ、Aが余りBが足りないという状況は改善されない。

【講演】白川総裁「物価安定のもとでの持続的成長に向けて」(きさらぎ会) : 日本銀行 Bank of Japan
=====【引用ここから】=====
そう考えると、持続的に需給ギャップを改善していくためには、潜在需要を顕在化させるように、経済の変化に合わせて供給構造を作り変えていくことが必要です。そのようにして掘り起こされた需要は、人々が自発的に求めていた需要ですから、その後も支出増加と収益・所得増加の好循環につながる性格のものです。このように、需給ギャップの改善についても、短期的なマクロ経済政策に加えて、新陳代謝の活性化を含め、新たなビジネスが生まれやすい経済構造に変えていく、という取り組みが重要な役割を担うと考えられます。
=====【引用ここまで】=====

「経済の変化に合わせて供給構造を作り変えていく」
「新陳代謝の活性化を含め、新たなビジネスが生まれやすい経済構造に変えていく」

これを実現するため、日銀にできることは何もない。
これを実現するため、政府がすべきことは補助金による特定分野の育成や新たな制度の創設ではない。規制緩和のみである。
新規の交付金や優遇措置、金融緩和を始めず、今やっている補助金や規制を廃止する。日銀や政府の積極的な無為無策が、今こそ必要である。
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プレミアムフライデーでデフレ的傾向を変えませう ~ 日本の身分制 ~

2017年02月23日 | 政治
プレミアムフライデーの実施方針・ロゴマークが決定しました(METI/経済産業省)
=====【引用ここから】=====
1. プレミアムフライデーとは
個人が幸せや楽しさを感じられる体験(買物や家族との外食、観光等)や、そのための時間の創出を促すことで、
(1) 充実感・満足感を実感できる生活スタイルの変革への機会になる
(2) 地域等のコミュニティ機能強化や一体感の醸成につながる
(3)(単なる安売りではなく)デフレ的傾向を変えていくきっかけとなる
といった効果につなげていく取組です。
官民で連携し、全国的・継続的な取組となるよう、この取組を推進するための「プレミアムフライデー推進協議会」が設立されました。本日、第1回会合が開催され、実施方針・ロゴマーク等が決定しました。また、本取り組みを進めるに当たっては、働き方改革などライフスタイルの変革ともあわせて推進してまいります。

=====【引用ここまで】=====

政府当局が一定の政策目的のために特定の生活様式を推奨し、スローガンを掲げ、官民で連携し全国的・継続的な取組みを国民に促す。
戦前の
「欲しがりません 勝つまでは」
「月月火水木金金」
「胸に愛国 手に国債」
と、大した差はない。

月末金曜日に休んだり早退できる業種や企業は限定されている。プレミアムフライデーを活用できる人はごく一部だ。外食、旅行、サービス業などに従事する人とっては忙殺される業務が追加されるだけだし、編集や経理等で週末・月末締切の仕事を抱える人も休むどころではないだろう。金曜どころか隔週土曜日まで仕事で、最後に有休取ったのがいつか思い出せないような人からは「何がプレミアムフライデーだ馬鹿野郎」と反感を買っていた。時給で働く人にとっては、単純に収入減となるおそれもある。

「金曜日に有休使って買い物や旅行に行こう」なんて、大きなお世話だ。いつ働き、いつ休むかは、雇う側と雇われる側の契約で決めれば良いのであって、政府が口出しする必要性も妥当性も存在しない。契約で全て決めるべきであって、契約に不満なら辞めれば良い。再就職先が少なくておいそれと辞められない、というのは、正社員の解雇規制が強固過ぎて雇用の流動性が失われているからだ。

プレミアムフライデーは、サービス業を除くホワイト大企業の正社員や官公庁閑職部署の公務員といった上級国民と、それ以外の下級国民という身分格差を固定、拡大する方向に作用するだろう。


それにしても、

(3)(単なる安売りではなく)デフレ的傾向を変えていくきっかけとなる

というくだりは、変な意味で感心してしまった。
安倍首相は、
「アベノミクスでデフレから脱却しつつある」
と言ってきた。経産省の中の人としては、「デフレ脱却のため」という表現を再度用いることで「今までやってきたアベノミクスではデフレ脱却できないの?」とツッコミが来ることを避けたい。首相の顔に泥を塗りたくない。そこで、

「デフレ的傾向を変えていく」

という表現を新たに編み出した、経済産業省 流通政策課の担当者。上役や関係者の面子を保つための配慮、作文に労力を費やした結果なのだろうと推察する。「アベノミクスの成果によりデフレから脱却しつつありますが、未だデフレ的傾向にはあります。このデフレ的傾向を変えていくきっかけを経産省が作り、デフレに逆戻りしないようはたらきかけます」といった作文の苦労の跡を感じたのは、私だけだろうか。

アベノミクスの成果は、散々なものである。
金融緩和をしたが、物価上昇2%の目標を達成することはできなかった。
財政出動は、旧態依然の補助金行政や看板の付け替えに終わった。
成長戦略は、医療・農業・教育・雇用などのいわゆる岩盤規制にはほとんど手付かずのまま。
無駄と非効率は温存され、豊かさや利便性の向上はもたらされず、社会保険料負担は上昇し続け、可処分所得や実質所得は減り続ける。

そんな中、「アベノミクスによるデフレ脱却が上手くいかなかったので、追加施策を打ち出した」なんてことは口が裂けても言えない。そこで新たに「デフレ的傾向を変えていくきっかけ」という婉曲な表現を採用した。これぞ霞ヶ関文学と言えよう。

さてさて。

貨幣数量説における流通速度は一定ではなく、金融政策でインフレ率を狙い通りにコントロールすることはできなかった。そもそも望ましいインフレ率が何%なのか誰にも分からないし、デフレ脱却は必要ない。 GDPはおおよその経済規模を示しているに過ぎず、「GDPの増加=便利で豊かになった」という評価は妥当でない。政府が旗を振って消費を促すというのは、短期的には景気が上向くかもしれないが、長期的に続けられるものではない。

政府がやるべきは、金融政策でも財政政策でもない。小手先の働き方改革やプレミアムフライデーでデフレ的傾向を変えていくことでもない。霞ヶ関文学でお茶を濁すことでもない。雇用に関する法制度、特に本丸である解雇規制を撤廃し、正社員と非正規という身分制の壁に穴を開けることだ。今こそ「身分から契約へ」である。
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