小林真 ブログ―カロンタンのいない部屋から since 2006

2006年開設の雑記ブログを2022年1月に市議当選でタイトル更新しました。カロンタンは40歳の時に飼い始めたねこです

「幸福なシーシュポス」~祖父の物語その3

2007-09-25 23:51:34 | 身のまわり
「週刊日記」の番ですが、意外に長引いたこの記事から。すみません、あまりに長くなりました。

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今年はまだまだ暑いけど、一番好きな季節。一生で今まで、三人の家族がこの世を去ったのは、みなこの季節でした。もしも最後にみる世界が選べるなら私も、春より夏より冬より、この伸びやかで翳りがある美しい光線の中がいいと思います。

gooブログでは恒例、Mixiでは初めての家族命日書き込み。ちょっと過ぎましたが、18日はポーツマス条約の1905年に生まれ、2004年に99歳手前で死んだ祖父の命日です。

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いつのことだったのだろう。自分が車に乗っていたような気がするから高校生の頃ではなく大学を卒業して帰って来た頃か。何やら思うことがあるらしい祖父が、
「ちょっと、まこ、来てくんど」
と、頼みに来たのは。

「なに、おじいちゃん」
春だったか秋だったか。暑くも寒くもなかったような、ののほんのした空気の中、わが家では「東のバラック」と呼ばれる、これは鉄骨だけ近所の大工さんにつくってもらって、それができる前にあったバラックに使っていたトタンを祖父が貼ってコールタールを塗りつけた、こっちは昭和一桁生まれの教育公務員だった父によれば「みっともない」けれど、今風にいえば「リユース」な建物。呼びに来た祖父について、その東のバラック北側部分に行った。

「これ、ここ、持っててくれっか」
そういう祖父の手には、これも先代バラックの一部だったと思われる、隅っこのかけた木材が立っている。雨は降ってなかったから適度に硬く柔らかさもある、この土地固有の粘土質の土には何の固定する設備もない。
(ああ、こうやってつくるんだ)
おそらく祖父が八十代で孫の私が二十代の半ばだから二十年ほど前。それまで長いこと不思議に思いつつ、まあどっちでもいいことだから放っておいた、一つの“謎”が融解した瞬間でもあった。

今もわが家敷地内にはいくつか、祖父の作品群が存在している。
その東のバラックのコールタール塗装と北側付け足し部分、「西のバラック」、それから小さい「畑の小屋」。
さらに現存しないものの記憶をたどると、旧母屋の土間だった台所に張った床、旧母屋本体から東にせり出してつくられていた「旧東のバラック」、母屋普請の時に「現東のバラック」に自ら張った床。西の方には枯れた木が積まれた粗末なバラックづくりがあったような気がするし、現在の家のブロック塀から母屋までは今は撤去された竹を張った柵、もうほとんど干上がってしまった日本地図のかたちをした池は、「北海道」以外は私が子どもの頃に左官屋さんかなんかが来てつくっていたが、生まれた時からあった「北海道」部分はきっと、祖父のがつくったものではなかったか。

それらがどの程度、祖父自身の作品なのかはよくわからない。けれどそれが戦後生まれのわれわれが考えるのとは、まったく違った制作プロセスで行われていたことだけは確かだ。
たとえば作品名「東のバラック北側付け足し部分」。私がアシストしたその制作場面を、「シネマトグラフ」提唱者、ロベール・ブレッソンの文章化は至難の業と思われる映画的手法を小説に取り入れようとした保坂和志『キャットナップ』の冒険を見習い、勇気を振り絞って描いてみよう。

「持っててくれっか」
祖父にいわれた柱は、何かの梁であったのか、ところどころにほぞ穴が開いている。いわれた通りに柱を持っていると、祖父はバラック本体からその柱に向かって、この建築部分の「仮の」梁を延ばした。
そこでその梁と柱を釘か、それともひもか何かだったかも知れない。とにかく何かで固定すると、今度は地面と平行でバラック北側のトタン壁とも平行に、つまり横の梁を延ばす。すると今度はその横の梁を始点にして両側の地面に向かう、これは現在も残っている「本番の」柱を下ろした。それから横の梁と本番の両側の結び目から、またバラック北面への梁を延ばして、これでだいたいの骨組ができる。そうすると最初に私が持たされた、「仮の柱」は撤去されるのだ。
細かいところは間違っているかも知れないが、大まかな作業の工程はこうだったと思う。学校やら書物やらで余計な知識をつけてしまったわれわれは、建物はきちんと土台をつくって、その上に柱か、ツーバイフォーなら面、そういう上部構造を載せていくと思い込んでいる。だが、どこで学んだかわからない祖父の方法は、最初に真ん中の「仮の柱」を置いて、そこから左右に広げていくというもの。それは土台から側面という手順からまったく外れてはいるけれど、その後でこれも読書を通して知ったクモの巣の張り方にも似て、構造物の重量を考えればもっとも合理的ともいえる、まったく無駄のないやり方だった。
といっても祖父の方にはこの見事な技術を孫に伝達しようという教育的意図はないらしく、ただ150センチに満たない自分には届かないところを支える「高さ」として179センチになっていた孫を利用しただけに違いない。作業の途中で、
「もう、いいかんな」
と放免してくれた。
その後の私は、多分当時はそれが大事と思っていたのか、それともただの暇つぶしかの用事のために外出し、帰って来た頃にはすでに現在もその場に残る「東のバラック北側付け足し部分」は完成し、祖父にとってそれを入れるのが目的だったらしきあれやこれやが、ずっと前からそこが自分の場所だったかのように、安心し切って鎮座していた。

なぜか彼岸になって光は秋の色になっても、夏のような空気が祖父のいた畑をなでていた3日前の昼、祖父の作品集である敷地内の建築物を調べてみた。
全体の構造は、どう考えても堅固とはいえない。これでよく風雨に耐え、二十年以上も建っているなと感心するほどだ。
件の「土台」を見よう。建物の輪郭に沿って並んでいるのはいずれも「石」の素材。それも、東京駅に使われたことを市が誇りにしてい地産のレンガだったり、ものすごく軽そうなブロックだったり、つまりあるものを集めてきた「リユース」品で、同じようなものが庭の母屋と離れをつなぐ飛び石などに使われているその「石」の土台から、これもいつのものだかわからない木製の柱が伸びているのだが、その接点がよくわからない。ある部分は、これもどこから取ってきたかわからない部材でレンガと木がつながっているし、ある部分はブロックの穴に向かって木材から釘が打ち付けられているように見えるが、それでもどうやって「石」と「木」がつながっているのかわからない部分がある。

つまり、何がどうなっているのかわからないけど、決して崩れないまま二十年以上、石の上にだいたいは垂直に柱が立っているのだ。さらに柱から上部の構造も、主に釘、たまに針金などで固定されてはいるが、たまたまあっただけに過ぎない木材が行き当たりばったりに積み重ねられているだけで、どう考えても計画的に建設されたとは思えない。
なんでこれで建ってるんだろう。石とか木とかトタンの金属とかが、何だかわからないまま二〇世紀最初に生まれた百姓の手によって集められ、不思議な力で二十年以上そのままでいる。当の石とか木とか金属とか本体にとってみれば、それは案外気持のいいあり方なのかも知れないけれど。
中には祖父が親しんだ、草刈やいつ買ったのかわからない肥料、これは祖父がほしがるので買うのにずいぶん苦労して探した覚えがある唐鍬などが、静かに時を見送っている。なぜか姉のものだったスチール製の学習机もあって、引き出しにはこれもいつのものかわからない釘とか野菜の出荷の札、写らないマジックだのが入っているが、この机はこれをつくった時にはすでに八十を超えていただろう祖父が一人で持って来たのだろうか。

祖父が不思議な素材を集めて拵えたその空間の現在の役割は、父や私が、ゴミ置き場に出す前の空き缶とか新聞紙とか、新たに買った農具とかをを雨に濡れないように置いたり、時々ねこどもが中に入って遊んでいるだけだ。そこで今回は父親に、どうのようにしてあれらの建築物がつくられていたか、さらに父親自身はあれがつくれるかときいてみたが、戦後民主主義信者の答えは「わからん」「できん」、「おれなんかと違っておやじ(祖父)なんかのやり方は、『知識』じゃなくて『経験』だから、よくわかんねえんだ」というまったく想定内のものであり、もちろん私にしたって同じことしかいえわけがない。

祖父の「作品」とは何だったのか。九十九年の一生のほとんどの時間をこの敷地、そして田畑で過ごした祖父は、稲や野菜をつくり、私は知らないウシ、こっちはお乳を飲んだこともあるヤギ、卵をよく食べていたニワトリを飼い、時にはこうした建築物をつくった。
これもいつだったか、祖父のところにプラスチックの台の上に金属の目のようなものがついた竜のようなかたちの枝があって、
「何これ」
ときくと、
「鬼怒川;かどうか忘れたけど、どこか観光地の川の名前:に行った時、あんまりかたちがいいんで、なんかつくるべえとと思って拾って来たん」
などという。なんと、アートじゃないか。その枝木竜に完成の瞬間は来なかったけど、精神としてのアートが成り立っている。
では、これらの建築群はどうか。枝木竜と違って役には立つものの、本当は実用かどうかなんて関係ない、いってみれば「暮らしのアート」というようなものだったと思う。

祖父にとっての目的は、まずはただ農具などを雨からよけるための「屋根」だったろう。その目的のために、そだなぁ、ここに小屋でも建てんべか、と考える。
じゃあ、このくれえの高さでいいからこのくれえの木がいる、じゃあ、ここにレンガがあるんでこれ土台にすんべ、じゃあ、この木くっつけんのはこれ、じゃあ、ここちょっとひきいから、このきれっぱしはさんどくべ、ちょっとゆりいから、この針金でしばっときゃいいんべ……。
作業はきっとこんな風に「じゃあ」という接続詞でつながって、そのうちこの建築物ができたに違いない。それは思っていたかたちと同じでではないが、かといって違いもしないだろう。なぜならば、明確なかたちなど思い描いてもいなかったろうから。
たとえば小学生の頃、きちんと計画して遊ぶことがあっただろうか。誰かのところに行って、誰と会ってどこかへ行く。決めていたとしてもそのくらいで、あとはその時に起こることにまかせて夢中で遊んでいると、いつの間にか日が暮れていただろう。
祖父の小屋づくりはきっと、こんな子どもの時代の遊びに似たものだったろう。何だか知らないうちに建築物を家のあちこちにつくる祖父に祖母はあきれてはいたが、「おじいさんは、草刈ってると花でも何でも刈っちゃうんだよ」とこぼすことはあっても、きっちりしたものが好きだった祖母にしては奇妙なかたちの小屋づくりへの批判はきいたことがなく、母屋普請の間の一か月では、祖父がバラックに張った床の上で楽しそうに寝起きしていて、それを見た叔父の一人などは「いやー、いいなあ、『生活』って感じがして」といっていた。

最近になるまで、毎日同じ時間に起きて、同じように畑に行ったり家の仕事をしていただけの祖父母の暮らしは不思議だった。何がおもしろいんだろう。かわいがってくれた祖父母は大好きだったけど、それはずっと不思議で、今だってわかったなんてとてもいえない。
『シーシュポスの神話』。同世代の芸術かぶれによくあるように高校の頃にアルベール・カミュの小説でその物語を知った私は、罰として巨大な石を山頂まで運んで行き、頂上に近づくと重みでまた落ちて繰り返すというこの物語に祖父母のような暮らしを重ね合わせて、ある種の恐怖を感じていた。祖父は何かをいつもつくっていたが、またそれをいつも壊していた人でもある。

だが、今になって感じるようになってきたのは、実はそんな暮らしぶりへの憧れなのだ。
小屋をつくって屋根まですき間が開いていたら、ちょうどいい木切れを見つけてきてはさんでこと足りる、祖母からきいた餃子の皮を小麦粉でつくろうとして海苔の缶のふたを使ったけどよくできなかったという話のように、身の回り、あるものですべてを間に合わせて、決してそれ以上は望まない、そんな暮らしが案外、本当は人間に“ちょうどいい”のではないか。
だけどわれわれは、あのすき間風がひゅんひゅん入り、蚊帳なしには寝られない暮らしには耐えられないし、餃子が食べたければ、餃子の皮を買うならいい方で、既製品の、または焼いてある餃子を食べる暮らしから逃れられない。

だからこそ今は思う、実はシーシュポスは幸福なのでないかと。
進歩のいい面だけを享受してネガティブな面を拒否するのは虫がいいとは思いながら、二一世紀初頭の暮らしに余計なものばかりが感じられてならない。本当は家なんて屋根と壁があれば、雨風がしのげればいいのかも知れない、食べ物は近くで季節に採れるものを食べれば十分かも知れない。

そう思いつつ涼しい空を見上げれば、昼の暑さを忘れられる中秋の名月。昨日かと思ってうっかりしてたらそこは昭和1ケタ、父親がすすきを取って来て、まんじゅうを買って来た。
今日は思いのほか黄色がかっていない月は、きっと祖父が若い頃に見たのと変わらないだろうから。

祖父の話は
その1http://blog.goo.ne.jp/quarante_ans/e/d2529debbaa83f8cd274ce3ea41628ab
その2http://blog.goo.ne.jp/quarante_ans/e/823a7a27d27dbdc76d3716f35c073df3

(Phは前の「畑の小屋」。BGMは accuradio ~all that jazz。編集してたら、今、キース・ジャレット『ケルン・コンサート』のA面が。嬉しい)
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