ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

159日目 真田氏ゆかりの信州上田巡り(2)

2016-08-21 11:28:29 | 甲信越
2016年7月17日(日)


前日は日焼け止めを塗ったにもかかわらず、塗り方が下手っぴだったためか、思いっきり真っ赤に変化した部分があってとてもヒリヒリしていて、お湯を浴びたり着替えたりするたび、悲鳴を上げたいくらいの苦痛。
おまけに旅に出れば毎度の事なのですが、足裏に数箇所水膨れができてしまい、一歩踏み出すたびに激痛が走る。
こんなズタボロの状態の中、この日の上田観光はほぼ城攻めに終始。

県立上田高校→
よく城跡なんかには学校があったりするけど、ここは「上田藩主居館跡」。
関ケ原の合戦後に上田城が破却され、再建も許されなかったので、真田信之はここでしぶしぶ(?)上田を統治することとなる。

(606)長野県上田市役所
上田藩主居館跡のお堀越しのアングル。
古くは国府が置かれた信濃国の中心地で、明治~大正期は製紙業が地域経済を牽引したものの衰退し、今では輸送関連機器や精密電気機器などの機械金属製造にとってかわる。
平成18年に上田市・丸子町・真田町・武石村が新設合併をし、新しい上田市が成立。
人口は約16万人。

↓市役所に面した道を西に行くと、上田の一大観光地・上田城があります。


二の丸橋から下を覗く→
二の丸堀跡である「けやき並木遊歩道」で、かつて電車が走っていた所。

↓中へ入ると、用意よろしく「信州上田真田丸大河ドラマ館」があります。


まだ開館時間前なのだけど、この行列→
なので、先にお城から見ることにします。

上田城は天正11(1583)年に真田昌幸によって築かれ、少しの兵力の昌幸が徳川の大軍勢を撃退すること2度。
壊わされた後は小諸から入封した仙石氏によって再興され、宝永3(1706)年からは兵庫の出石(いずし)から松平氏がやって来る。

この日は7月17日です→
観光客は大勢来ているのだから、さっさと直さんと。記念撮影できんじゃないか(?)。

↓東虎口櫓門(ひがしこぐちやぐらもん)と北櫓(右)。

門は平成6年に復元。門の左にも南櫓があるのだけど、二つの櫓は別の場所に移築されていたものが昭和18(1943)年から24年にかけて再移築される。

門の右にあるのが「真田石」→
高さ約2.5m、幅約3m。

2度目の上田城での合戦で「にっくき真田」の思いをたぎらせた徳川秀忠の嫌がらせで真田信之が松代(長野市)に移封となり、それに激怒した信之は藩政に関する書類を全部焼き払い、城の灯篭・植木を持って行ったとされるのですが、ついでにこの石も、と思いきや、ビクともしなかったらしい。

門をくぐると眞田神社があります→
歴代の城主を合祀しています。

真田井戸→
神社境内に残る直径2m・深さ16.5mの井戸。
この井戸は抜け穴になっており、城北の山麓や上田藩主居館につながっているという伝説があります。
いくら何でもそれはどうだろうねえ。

西櫓→
寛永5(1628)年に仙石氏によって建てられ、上田城で江戸時代から現存している唯一の建物との事。
ここに入るには有料で、それ自体いいのですが、結構な数の人が吸い込まれていくので、いつかまた来た時に落ち着いて見ればいいかと思い、入らずじまいであったところ、何と解放されるのは今年だけみたい。大失敗。

櫓手前からの眺め→
築城当時の眼下には千曲川が流れていたので天然の堀と化していました。
そしてここを「尼ヶ淵」と称していたので、上田城は別名「尼ヶ淵城」と呼ばれるようになったようです。

特に何もない本丸跡→

↓お堀は素掘りで、掘り出した土で盛っていった部分が城を取り囲んでいる土塁。


ようやく人が引けた「ドラマ館」→

かわいいお姉さんが記念撮影してくれます→
勿論兜を被って写してもらい・・・。んなワケないし。

↓撮影が許されるのは、張りぼての「真田丸」のある所だけ。




まあ当然なのですが、ドラマ撮影の小道具や衣装の展示なんかがメインで、はっきり言ってつまらん。
おまけに中は狭い上に芋を洗うような激混みでかなり息苦しい。
耐え切れなくなって、わずか10分程で出てきてしまう。
それに対する対価は¥480。ちと高価だったな・・・。

真田の郷・旧真田町や「信州の鎌倉」の異名を持つ別所温泉・塩田平周辺も行きたいところですが、今回は泣く泣くパスして、これにて観光客で活況を呈する上田を去ります。

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