ただの考察好き

ただ考えるの好きです

とうとうやっちまった・・・

2015-12-08 21:19:39 | 日記
父が亡くなってからこっち、いよいよ母への嫌悪が制御できず。母のなじりが、俺のいない時間に妻に届く。

こんな日が永遠に続くのか。毎年、苦しい笑顔を作って、妻と子が、母のうっぷん晴らしに使われるのを、この先もずっと。見るしかないのか。

そう思いつめていた。どこかで縁を断ち切ろう。

あの母は人を残酷に追い詰める事に躊躇しない。

そして今日、電話で軽い喧嘩になった。そしてお互いにヒートアップしてとうとう口にした。

44年目にして。

「お前なんぞ、好きだと思った事など一度もない」

とうとう本音をぶちまけてしまった。とうとうやった。3度の自殺未遂をしても、口にしなかった事を。

だが戦いはこれからだ。何を仕掛けてくるか、予想がつかない。誰を扇動し、俺をどう邪悪扱いするか。

邪悪。ああ。そうだ。それでいい。母の望む「善良な人間」などまっぴらだ。母に生贄を差し出すだけの。母を喜ばせるためだけの善良など、俺はもう要らない。

母の望む人間は、母のようになるという事だ。

なら、邪悪でいい。

俺はようやく、1歩を踏み出せた気がする。

さあ、ここからだ。

何の為の「善良」?

2015-12-07 21:17:34 | 日記
最近、思うのは「何の為に善行を行うのか、意味がわからなくなった」という事だ。善行を行う人が、善行をしない人を責め立ててなじる。責める権利は我に有りと。

だがその姿が、私には「邪悪」に映る。邪な事、悪い事をして責めるのは分かる。だが「善行」をしない人を責める理由や権利はあるのか?

私には現代の「善良」なるものが、酷く醜悪で邪悪なものに見える事がある。ご祝儀で10万出す人は「善い人」で1万円しか出さない人は「悪い人」だとか。俺は気持ちで出してもらうものだから、どっちでも有難いのだが、周囲が勝手に善悪でもめる。バカみたいだ。これで金儲けでもしたいのか?

更には同じ10万円包むにせよ、気持ちよく出してもらわなければ邪悪だとか。気に入らない人が払う10万円には価値がないだとか。

何だそれ?

善良って、そこまで善良になる、ならなきゃいけない意味って何だ?天国に行くためか?善い人に思われたいからか?

俺は長い間「善良」であろうとした。しかし、善行を求める人の、その要求には際限がない。善良には上限がないのだ。いつまでも「たったそれだけ?」と言う人が、どこかに必ず存在する。

これは何なんだ?この果てのないマラソンゲームは何なのだ?血反吐を吐いてもまだ尻を叩く。そんなゲームが。

そんなゲームそのものが既に「邪悪」ではないのか?

俺はそんなゲームから降りる事にした。

こんなゲームに家族を連れ添わす事はない。善良でなくたっていい。自分の生きたいように生きるべきだ。ここに居るのは自分の意思で、その結果も自分の所為だと、胸を張って言える人生であれば、それでいいではないか。

腐ったドブよりまだ臭い「善行ゲーム」

どこまでも血みどろの「善行ゲーム」

お互いに陰で罵り合い、人外だと罵倒し合う「善行ゲーム」

俺には天国の狭き門にひしめきあう、餓鬼が群がる姿にしか見えない。餓鬼が天使のお面を被り、餓鬼同士でひっかきあい、潰しあい、殺し合う。

腕をもぎ、足を噛み砕き。我こそが善良ぞと、血まみれの口で天国に泣き叫ぶ。

ゆっくりと地獄に沈みながら、呪いの声をもらす。何故、報われぬのかと。俺はこんなに尽くしたのに。善良なのに。彼は踏み潰した餓鬼の上で叫ぶ。これ程の邪悪を駆逐しながらまだ足りぬのかと。

己の血みどろの姿を省みる事もなく。

いつか報われる事を期待する善行など、既にもうその価値は失せ、既に形骸であり、偽善だ。

報われなくてもいいと言いながら、チラリと横目で期待する卑劣な者も居る。

報われなくても、という表現そのものを使う事があさましいではないか。報われる事が本望だが、そうでなくてもいいよという意味だ。完全に見返り込みなのである。

今日も天国の狭き門は、善行を競う餓鬼の血肉で染まり、腐臭を放つ。

俺は、餓鬼なら餓鬼で良いではないか。そう思うのだ。そこそこ食べていければいい。俺は醜悪である事を愛したい。

俺は天高くそびえる天国の狭き門に、背を向けた。あの血みどろの門の向こうに何があったとて。

あんな餓鬼が潜っていく先の世界など、見たい気が微塵も起きない。修羅の予感しかしないのだ。