多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

「子どもはお国のためにあるんじゃない!市民連絡会」スタート集会に参加

2007年09月26日 | 集会報告
9月23日夜、三茶しゃれなあどホールで開催された「子どもはお国のためにあるんじゃない!市民連絡会」スタート集会に参加した。
5年間、多彩な反対運動を展開した「教育基本法『改正』反対市民連絡会」は教育基本法や教育関連三法が成立したため、いったん活動を終了したが、草の根を地域に張り、その裾野を広げていくための活動を継続したいとの趣旨で「子どもはお国のためにあるんじゃない! 市民連絡会」がスタートした。
この日のテーマは「どうする?どうなる?これからの教育」。

基調講演 広田照幸・日本大学教授


1 おびやかされる教育現場の自由度・自律性
ひとくちに「教育改革」といっても「改革」には2つの方向があることに留意すべきである。教育プロセスを行政が徹底してコントロールしようとする点は共通だが、現場をコントロールの手法は異なるので、対応方針も変わってくる。
一つは保守主義的な「教育改革」で、一つの大きな道徳共同体に個人を服属させようとするもの。これは森・元首相が「自民党結党以来の悲願」と主張しているので、50年の歴史をもつ。コントロールする手法は、上から統制をかけ、教育内容の規制や具体的な教育の仕方を細かく規制するものである。
もうひとつは新自由主義的な「教育改革」で、バラバラの個人を市場原理で競争させる仕組み。財界の要請で生まれたもので25年の歴史をもつ。震源地は規制改革会議である。コントロールする手法は、評価や競争で現場をある方向へしばるもので、具体的には学校選択、教員評価・学校評価など。
2つの流れは、2000年12月発表された教育改革国民会議の「教育を変える17の提案」で、いったんひとつになった。その後再び、経済財政諮問会議と中央教育審議会の2つに分かれたが、2006年安倍首相が設置した教育再生会議でまたひとつになった。いまは安倍辞任で休止状態だが、今後もまだまだこの「教育改革」の流れは続くだろう。
教育基本法改悪反対運動のときは、第一の方向に対する反対意見が多く聞かれた。しかし、問題があるのは「教育内容の国家統制」だけではない。何をどう教えているかをチェック、本当に教えているかチェック、その結果子どもがどうなったか、身についたかチェックする、すべてガラス張りにしてチェックする第二の方向の問題点にも十分注意を払うべきである。
教育には、子どもの個性に応じた柔軟な対応、教師の自由な創意と工夫を保障することが欠かせないと考える。

2 教育現場の自律性や自由度をどう確保するか
旧・教育基本法10条では「教育は、不当な支配に服することなく」とあり、行政も「不当な支配」の対象になりうると解釈された。1976年の旭川学テ・最高裁判決では、国が全面的に教育内容や方法に関与することも、まったく関与しないことも極端な見解として退け、両極の真ん中を採用した。
新・教育基本法16条では、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより」という文言に変わった。この変更でラインがどう動くか、あるいは以前と同じかは今後の綱引きによる。
教育学者としては、国があまり細かいことまで決めず、現場が自由裁量できたほうがよいと考える。

3 教育の「公共性」の再定義
この会の名称にあるように「お国のため」の教育でないなら、だれのための教育なのだろうか。子ども自身のためという考え方がある。しかし、それでは自分が属する社会やよその国の社会のことが視野に入ってこない。
「公」が「私」を脅かすという図式だけでは不十分である。「『私』を守れ」だけでなく「『私』がどうやって公共性をつくり出すか」という視点が求められる。そこで「公」対「別の公」という図式を考えるべきである。道徳派は一元的な公共を考えるが、みんなバラバラななかで議論や交渉を通して作り上げる市民的公共性を構想すべきなのだ。つまり公共性は、けして一元的な道徳共同体という公共性ではなく、多元的な市民的公共性であるべきである。
日本には多元的公共性という伝統がなかった。ヨーロッパでは旧植民地からの人々の流入や90年代のEU発足で国民国家を超える動きが現実のものとなりつつある。日本では2004年時点の在留外国人は204万人だが、5倍の1000万人になったときのことを考えると、総人口の10%と、無視できない比率になる。そのとき価値や文化の多元性を大事にする公共性が重要になる。一国道徳主義の考え方では、東アジア共同体のなかで日本は「困った国」「孤立した国」になってしまう。
教育を考えるときには、いま教育を受けている子どもが大人になり、年をとって亡くなるくらいまでのスパン、すなわち70年くらいの時間軸で考えることが重要である。

4 歴史はひとつだが未来は複数
教育基本法改悪や教育関連三法に反対したが、成立したので落胆している人もいるだろう。
しかし法律が制定されたことと制度が変わることは別の問題だし、さらに制度制定と運用とは別の問題である。システムは細部で決まる。「綱引き」はこれからスタートだと考えたい。
また、教育基本法以外にも戦後改革の遺産はまだ多くあり、使い回しが利く。守るべきものは多くある。「愛国心」という文言ひとつ入れるだけでもこの騒ぎである。いまはまだ外堀で戦っているともいえる。
最後に「歴史はひとつだが未来は複数」ということをお話したい。
過去の延長線上に未来があると考えると、ネガティブなルーチンに入ってしまう。たとえばこの秋から教育再生会議でバウチャー制度の論議が始まるかと身構えていたら、再生会議そのものが休止状態に陥った。未来はわからないものである。過去はひとつだが未来は複数あるのである。
未来を考えるときに「自己成就的予言」と「自己破壊的予言」の2つの態度がある。自己成就的予言とは、たとえば、どうせ自分は受験に失敗するだろうと考え、勉強しなければ当然失敗する類の態度である。一方、自己破壊的予言とは、マルクスが資本主義は必ず没落すると予言したが、労働運動が活性化したり国家が社会保障政策を打ち出したりして当初の予測と違う結果を生み出す類の態度である。「どうせこうなる」と考えると、できることもできなくなる。「こうなると困る」と考え、そうならないよう回避行動をとってこそ違う事態を生み出しうる。今後も地道な行動を継続していきたい。

☆広田さんの講演は2006年2月の「第15回 学校と地域をむすぶ交流会」で一度お聞きしたことがある。そのときは新自由主義の教育改革者が唱えるグローバル化に対抗するオルタナティブなモデルとして、人権と責任の共有を中心原理とするリベラル国際主義や自治型コミュニティを媒介に人民が統治するラディカル派などを紹介したうえで「いまはまだ確たるヴィジョンがあるとはいえない」という結論だった。今回は(一元的な道徳共同体という公共性に対する)多元的な市民的公共性というモデルをお聞きすることができた。「ちょっと元気が出ませんか」とおっしゃっていたが、理念的モデルとして、大いに参考にしたい。

パネルディスカッション「流れに抗していくために」

佐々木茂樹さんは国立の元・PTA連絡協議会会長
ちょうど国立二小・五小の卒業式問題で騒然としていた時期だった。教員排除の次は、「動く保護者」排除とばかりに、校長会などから攻撃の対象になったこともある。
今年4月の国立市長選では関口博候補(当選)の選対事務局長を務めた。上原・前市長が不出馬を表明したのは3月7日、公示1か月前を切る17日にやっと候補が決まった。投票結果は、保守系候補にわずか1000票差の当選で、薄氷を踏む思いがした。本当にラッキーだったが、勝因として、国立の土壌を挙げることができる。長年続いている「革新」候補一本化の継続、文京地区闘争・マンション問題など市民がまちをつくってきたという自覚が、短期間の選挙運動をバックアップした。

高橋徹さんは、94年から羽根木で「フリースクール僕んち」を主宰している方
「学校が合わない子」も世の中にはたくさんいる。このスクールでは、子どもの提案で何か始めることもあるし、子どもの反対で大人の提案が拒否されることもある。子どもたちといっしょに作る方針で進めている。
地域との関係という点では、地元を嫌う子どもが多い。過敏になっている。海老名、多摩センターなど遠距離通学する子がいる。
一方、「もっと語ろう不登校」という親や大人の会を毎月続け100回を超えた。この会は自分の悩みを自分の言葉で語る会で、自分をさらけ出せる。基調講演で広田先生がおっしゃった「多元的な価値」を認める会になっている。

山田幸子さんは、東村山で「10円塾」を主宰する方
長女が4年生になり学童保育を卒業し、遊ぶ場所がなくなった。娘の友達も同じ状況だったので自宅開放の遊び場を提供した。そこから発展し、日常の遊びではない特別なこと、非日常的なことをやる日を毎週金曜に設け「10円塾」と名づけた。基本はまず宿題をすることで、その後、月見会や調理の実験をする食品研究会などいろんなイベントを行っている。
地域のPTAの人たちとのつながりづくりはなかなか難しい。しかしアルコールが入り、「このままでよいのか」と教育論議に熱中するようなことはある。まずは「言いたいことをいってもよい」という雰囲気づくりが大事だと思う。

広田さんのコメント
これまでの運動は、「正しさ」をあまりにも求めすぎ、その結果、やせ細ってきた経緯がある。いろんな運動があることが活力を生む。多様性を多様性として認め、運動を続けるのがよいのではないか。

☆「草の根を地域に張り、その裾野を広げる」といっても、具体的にどうスタートすればよいのか、なかなか難しい。このパネルディスカッションでも妙案は出なかった。しかし地域での運動は、たしかに効率がよい。集まりやすいし、他のテーマの運動へ、幾重にもネットを広げやすい。
「言いたいことをいってもよい場作り」「多様性を多様性として認める活動」という発言はひとつのヒントになりうる。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« いま練馬の教育に起きていること | トップ | 9月の都庁第二庁舎前早朝ビラ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

集会報告」カテゴリの最新記事