多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

「大逆事件」から100年

2011年01月07日 | 集会報告
12月23日(木)平成天皇の誕生日に反天皇制運動連絡会の恒例の集会が豊島区民センターで開催された。快晴で空には雲ひとつなく、12月としては暖かい午後だった。いつもより会場が狭かったせいもあるが、室内だけでなく廊下にまで座り込む参加者が出る盛況だった。屋外ではいつものように街宣カーの右翼が「反天連を射殺せよ」などと大音響のスピーカーでわめいていた。。
昨年は、韓国併合100年の年で、反天連もそのテーマの集会が多かった。しかし大逆事件で、幸徳秋水、菅野須賀子ら12人が大逆罪で死刑、11人が死刑後無期、2人が爆取で有期刑になった大逆事件から100年の年でもあった。この日は「「大逆事件」から100年」というテーマで、3人の方からお話があった。

池田浩士さん(文学研究)
大逆事件が冤罪だったというとらえ方に違和感を感じている。冤罪だったという説はこの事件の弁護人、平出修の「逆徒(1913)という小説に起因する。しかし主人公のモデル、三浦安太郎は大阪平民社に出入りし「無政府共産」という思想に共鳴していた。それを冤罪というのは失礼に当たると思う。たしかに天皇制の把握には限界があったが、100年前に無政府共産の社会に作り直すには天皇制をなくさないといけないということを「発見」した人々がいたことは重要である。彼らの限界を超え、現代の私たちが深めていくしかない。
次に、大逆事件をみるとき、国内だけでなく国際的な眼差しをもたないといけない。秋水は日露戦争のあと日本での運動に行き詰まりを感じ、1905年に渡米する。アメリカの社会主義者と接触し直接行動主義にめざめた。片山潜らが主張する議会制を利用する路線に対抗して、労働者・農民の総同盟罷業ゼネラルストライキにより社会を動かすという思想である。帰国して06年6月末の講演会で発表した。
時を同じくして、ドイツではローザ・ルクセンブルグが06年9月「大衆ストライキ、党、労働組合」を執筆し大衆ストライキを提唱した。ドイツ社民党のカウツキやベルンシュタインの主張に対決するものだった。
まったく同時期に同じ主張をしたことは興味深い。ただし非同時代性ももちろんある。ローザは、階級に敏感でこの社会を覆す可能性があるのはプロレタリアート階級であるとした。一方幸徳は、獄中からの弁護士への書簡に「革命は歴史的必然だ」と書いており、自然成長論の認識しかなかった。革命による天皇制の行方については、革命で皇居になだれこんだとき皇室がどういう態度をとるかによるとしていた。天皇制は階級的対立の枠外にあった。
また韓国併合との関わりもある。「大逆事件と東アジア」(藤井祐介)によれば、大逆事件の検事・平沼騏一郎はロシアとの犯罪人引き渡し条約の交渉に関わった。この条約交渉では、異例なことに両国とも政治犯まで含む引き渡しを要求した。ロシアは長崎のテロリスト、日本は沿海州にいる義兵運動の朝鮮人を念頭に置いていた。大逆事件と韓国併合のつながりの証明がいま始まりつつある。
なお韓国併合条約は1910年8月22日に調印されたが、詔書は1週間時間をおき29日に発表された。通常、調印の翌日出るのにこんなに時間をおいたのはなぜか。それは5年前のポーツマス講和会議で大韓帝国に対する日本の排他的指導権など、休戦の条件がロシアから提示された8月29日にこだわったからである。
さて文学表現は大逆事件をどのように向き合ったのだろうか。当時は新聞紙法、出版法、治安維持法などの法律で言論は縛られていた。平出修の「逆徒」を掲載した雑誌「太陽」も即日発禁処分を受けた。永井荷風は「政治的問題を描くのはやめる。江戸の戯作者と同じように生きていこう」と書いた。これは「転向」ではない。文学にしかできない表現をきっちり行う、爆弾を投げる代わりに言葉でそれをするという決意である。大逆事件で死刑になった内山愚童は1908年に「無政府共産 入獄記念 革命」を秘密出版し、それを読んだ機械工・宮下太吉が爆弾をつくった。わたしたちは言葉の武器を使うことを考えていきたい。

●伊藤晃さん(近・現代史研究)
現在、なぜ反天皇制運動は孤立しているのか、なぜ民衆の多数の声にならないのか、この問題はわたしが一貫して追求しているテーマである。こうした観点から大逆事件を考えてみる。
徳富蘆花は、大逆事件の死刑執行を聞き、一高で「謀叛論」という講演を行った。この文から明治の知識人が共有した天皇観がみてとれる。蘆花は、明治の明るい気分を導いた維新の志士の功績をたたえる。そして幸徳を志士の志を引き継いだ者としてみている。天皇は社会主義者であっても抱擁するところがあってほしいと願った。しかしそうならなかった。ならなかったのは天皇の取り巻きが悪いと考えた。蘆花は明治維新に自分を一体化させていた。
幸徳もおそらく同じように考えていた。幸徳の主張には一貫した反天皇制はみられない。ただ権力側は、そうは考えなかった。社会主義者は自覚しないまま、天皇制の正面の敵となってしまった。幸徳も参加した、1901年の社会民主党立党宣言文には「軍国主義、愛国主義に反対」と書かれており、帝国日本の権力者に冷や水を浴びせかけた。
権力にとり大逆事件の最大の効果は、一般社会と社会主義者の完全な切断に成功したことだった。社会主義者はいやおうなしに天皇の謀反人としての自覚をもつようになり、多数人民への通路を切り開くことはきわめて困難になった。社会主義にとり10年間の冬の時代に入っていった。
一方、日本の社会は大正デモクラシーの時代に入る。日露戦争以降、一流帝国主義の道をまっしくらに進む日本にとって、天皇制は歴史的脱皮を迫られた。ヨーロッパ列強の仲間に入るには資格が必要であり、一定の社会的改革や政治的改革が必要になった。大正デモクラシーのなか、普通教育、在郷軍人会や青年団などをとおした社会教育、雑誌の講談社のような大衆化するメディアなどをとおし歴史教育、国体教育が深められた。この歴史教育とは「天皇を先祖とする由緒ある国民の一員として、君もいる」というものである。
自主化しようとする民衆のあいだで社会的対抗は高まり、労働運動や小作争議が起こった。しかし反資本・反地主運動はやっても反天皇運動は起こらなかった。天皇制は社会的共同性へと高まっていく民衆の内面をとらえようとした。国民的共同性は天皇がつくっているのだから、わざわざ民衆がつくる必要はないというのが天皇主義なのである。
しかし民衆の心のなかには天皇制への小さな反感、「民衆的な痛覚」はあったはずだ。たとえば中野重治は小説「鉄の話」で、書道で自分の尊厳を踏みにじられ天皇制への少年の反感の目覚めを描いている。いかに天皇制の抑圧が強くても民衆が「痛い」と感じなければ、反天皇制の運動は高まらない。これは現代でも通じる話だ。
戦後、天皇制がかつての非合理性、権力性を自ら捨てて現れたとき、蘆花的な天皇観は諸手を挙げて歓迎した。津田左右吉、柳田国夫、美濃部達吉らがそうだった。天皇もそれに応え「国民的融和をつくり出すためどういう心の持ち方をすればよいか、私みずから教える」と行動した。
反天皇制運動は、明治の天皇制に反対した社会主義者のことを思い出し、国民的融和のなか多数人民が置かれている立場を考えるべきだ。「派遣の人は大変ですね。心が痛む」などという言葉に「何、言ってるんだ」と反応する「民衆的痛覚」をひとつずつ取り上げつなげる努力を、依然として続けなければいけない。

●天野恵一さん(反天連)
反天皇制運動だけ掲げて25年間続ける団体はないが、この会がなぜ大逆事件を足元の問題として考えなかったかという問題から話を始めたい。象徴天皇制の下、天皇制を問題にするのはアナクロニズムという「左翼的常識」があった。それに抗して戦後天皇制の問題にこだわったので、歴史をたどる場合、戦中か、せいぜい天皇機関説との関連で大正デモクラシーまでしか遡らなかった。また、アナーキストの人が大逆事件を語るときの閉鎖的なヒロイズムへの反発があった。わたしたちは普通の人が普通にやる反天皇制運動をやりたかった。
明治の社会主義者は、昭和初期の正統マルクス主義集団とは大いに異なる。平民社に集まった人びとは、白柳秀湖によれば、仏教徒もキリスト者も社会改良家もいるカオスで、ごったな人間の社会団体だった。中心となる思想は、日露戦争に対する非戦論だった。非戦が反戦と違うのは、宗教的観念が含まれていることだ。
そこでロシアとの同時代性をみてみたい。日露戦争のときロシアでは宗教的観念から多くの兵役拒否者が出た。これより少し前、クエーカーの一派である非戦のドゥホボール教徒にロシア政府は手を焼き、カナダに移民させることにした。その渡航費用を提供したのはトルストイだった。10年以上小説を書かなかったトルストイが「復活」を書きその印税を拠出した。1904年トルストイは日露戦争に反対する「汝、悔い改めよ」という論文を発表した。「皇帝よ、自分たちこそ戦場へ行け」という言葉もあり即刻発禁処分を受けたが、ロンドンタイムスの英文訳で世界中に広まった。平民社は、トルストイのこうした動きと対応している。
非戦は仏教の不殺生とも関係するのでガンジーのことを調べてみた。非戦の観念は非暴力と結びついている。レーニンは革命が平和をもたらすといったが、帝国主義的戦争を止める思想ではない。戦後の反戦思想にしても革命運動の付属物という枠組みで整理されるが、そういう次元と非戦の観念とは異なるものをもっている。その点をもう少し重く見たほうがよい。革命ですべてが解決できるという革命の神学はもうやめようと言いたい。それがさまざまな災いをもたらした。
「革命」というメガネはもうはずそう。しかしメガネをはずせばなんでもあり、というわけではない。片目には、非戦、非暴力、反天皇制といったもっと度の強いメガネをかけ直すようにしたい

1908年10月、箱根・林泉寺の住職、内山愚童が秘密出版したパンフレット(レプリカ)

☆池袋東口の駅前で、「不敬罪を復活し、日本をよくしよう」と街宣カーで訴える団体がいた。さすがに聞いている人はあまり多くなく、1/3くらいは戦闘服を着た仲間のようだった。しかしメンバーはほとんど若い人たちだった。1週間前渋谷駅前で、「尖閣諸島は日本のものだ」「海上保安庁さん、ご苦労さん」と日の丸をたくさん掲げ集会をやっている集団も若い男女が多数だった。明日の日本は暗いようだ。
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1 コメント

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紹介させてください (『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク)
2011-01-10 19:54:42
引用させていただきました。いつも有り難うございます。

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