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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

加納実紀代の「原爆・原発・天皇制」

2011年08月22日 | 集会報告
日本武道館では天皇夫妻が参列する全国戦没者追悼式が開催され、靖国神社では閣僚の参拝こそ2年続きでないものの50人以上の国会議員が参拝した8月15日、これに反対する人びとの「国家による『慰霊・追悼』を許すな! 8.15反『靖国』行動」の集会とデモが行われた(集会参加 132人)。
13時から猿楽町の在日本韓国YMCAで開催された集会では、加納実紀代さんの講演と7つの団体のアピールがあった。

原爆・原発・天皇制   加納実紀代さん

●原爆被爆と加害・被害の二重性
わたしは5歳と20日のときに、爆心から1.9キロの広島市二葉の里で被爆した。わたしはよほどのことがない限り自分の体験談は語らなかったが、ここ4-5年、5歳で断片的な記憶に過ぎなくても積極的に語るようになった。というのはわたしは被爆体験をナマで語れる最後の世代だからだ。わたしは投下時に室内で着せ替え人形遊びを始めたところだったので無事だったが、その10分か20分前にいっしょに神社で遊んでいた5歳のカッチャンは大ヤケドをして数日で亡くなった。また裏の家の女学校1年のミチコちゃんも、こげ茶色で目も口もないドッジボールのような丸い顔になって死んでしまった。神社の宮司の息子は被爆直後は何の外傷もなかったのに1週間か10日後、苦しみ抜いて真っ黒の血を吐いて死んだ。内臓溶解である。
放射線の被害は急性だけでなく、後障害もある。ケロイドは3か月から1年後、白血病はやっと新たな歩みを始めようとした7年目に、そして10年目にガンがやってくる。原爆被害には男性も女性もなく無差別的だが、やはり男性との違い、ジェンダー性がある。
原爆の語り部・阿部静子さんへの聞き取り調査を紹介する。
阿部さんはそのとき19歳、結婚したばかりだった。勤労動員で瓦を運ぶため屋根に上っていたので、右腕、顔の右、右半身を熱線で焼かれた。まぶたと唇がなくなった。まぶたがないと夜寝るときに、目を閉じられない。よだれはたれっぱなしでお茶でも飲めばこぼれてしまう。彼女は18回整形手術をしたが、最初の手術でももの皮膚をまぶたに移植した。「まぶたをつぶり眠れることがどんなに幸せか」と思ったそうだ。
ケロイドは、皮膚の深部破壊で普通のヤケドとは違う。何度手術してもケロイドが出る。ケロイドの力は強く、指の骨を脱臼させるので指を曲げてしまう。男性と女性では、同じ障害でもその後の人生への意味が違う。右半身に障害があるので包丁も箒ももてなくなった。また被爆した女性は、「奇形」をおそれ子どもを産めず、結婚できない人が多かった。最近の研究で、卵子より精子のほうが影響を大きく受けることをわたくしは知ったが、日本のジェンダー文化の影響もあるのだろう。
それではヒロシマは被害者なのか? 日本は明治維新後、富国強兵路線で1874年の台湾出兵を皮切りに77年間に4回の戦争、14回の海外出兵を行い領土を拡大した。軍都「廣島」は陸軍第五師団を擁し、呉には軍港があり、宇品からはアジア侵略へ兵士が送り出された。アジア太平洋戦争は12月8日の真珠湾攻撃から始まったと思っている人が多いが、じつはその1時間半前にマレー半島のコタバルに上陸を開始している。その中核が第五師団だった。42年2月15日のシンガポール陥落まで南進の途上、中国系住民を虐殺した。有名なのは、幼児を投げ上げ、銃剣で串刺しにして受け止めたエピソードだ。シンガポールの戦争資料館は日本の残虐な占領時代のことを展示している。そしてヒロシマの原爆について、原爆のおかげで解放されたと描いている。これもまた事実だ。
ヒロシマは被害と加害の二重の歴史を負わされている。詩人・栗原貞子の「〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を 壕のなかにとじこめ ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑 〈ヒロシマ〉といえば 血と炎のこだまが 返って来るのだ」という 「ヒロシマというとき」が代弁してくれている。
ここまでは1月14日の最終講義で語った内容の一部で、その後3.11が起こった。

●なぜ「唯一の被爆国」が原発大国になったのか
1953年11月アイゼンハワー大統領が「原子力の平和利用」について国連で演説した。これにはソ連の核兵器での追い上げに対する危機感と平和利用による西側同盟諸国の結束という背景があった。
これに飛びついたのが中曽根康弘・元首相と正力松太郎だった。54年3月には原子炉整備補助金2億3500万円が国会で成立し、「国策」として動き始めた。正力は元警察官僚で、読売新聞社長、日本テレビ社長、55年に衆議院議員となりこの年11月に原子力担当大臣に就任した。56年元旦の読売新聞の中曽根や正力による座談会「原子力平和利用の夢」のなかで、中曽根は「明治のころ、私のおじいさんなんかは電線の下は扇子をかざして通った。ところが今になれば十八、九のお嬢さんはパーマネントはこわいものと思っていない。原子力ももう十年もすればパーマネントと同じくらいの大衆性を持ってる。こわがるのはバカですよ(笑声)」と語り、女性は無知なので、まず恐怖心をなくそうとした。
問題はそれだけではない。もう少し時代をさかのぼる敗戦時に、天皇は日光に疎開中の11歳の皇太子(平成天皇)に「敗因について一言いはしてくれ。(略)我が軍人は、精神に重きをおきすぎて、科学を忘れたことである」と手紙を書いた。一方、皇太子は8月15日の日記に「(アメリカの)攻め方が上手でなかなか科学的でした。ついには原子爆弾を使って何十万といふ日本人を殺傷し、町や工場を破壊しました(略)その原因は日本の国力が劣っていたためと、科学の力が及ばなかったためです」(木下道雄「側近日誌」)と書いた。8月15日の庶民の日記を調査したことがあるが、原爆についてこれからは科学技術だ、「誓フ科学精進」という調子で、衝撃、怒り、悲しみに満ちたものだった。これに対し、じつにクールで淡々としている。
マッカーサーはまず天皇制を残すことを優先し、天皇制存続を他の連合国に承認させるためには軍隊解体が必要なので、その手段として9条をつくることにした。こう考えると憲法1章が天皇で、2章に9条が出てくる順序が納得できる。46年2月マッカーサー草案をホイットニーが松本烝治ら日本側に「15分で検討しろ」と命じるとちょうど1機の爆撃機が近づき建物を揺さぶった。ホイットニーは戻ってきたとき「原子力的な日光のなかでひなたぼっこをしていましたよ(We've just been basking in the warmth of the atomic sunshine) 」と言い放った。つまり原子力の威力を背景に憲法を「押し付け」たわけだ。原子力のおかげで天皇制は生き延びられた。戦後天皇制と原子力は抱擁関係、共犯関係にある。戦後日本の出発点が、アメリカの核の力や核のカサの下での平和憲法であったことは直視すべき事実である。
しかし科学技術の最高形態としての原子力は、天皇だけでなく、被爆者や進歩的な学者にも共有されていた。たとえば永井隆「長崎の鐘」の結末に、「原子力が汽船も汽車も飛行機も走らすことができる。石炭も石油も電気もいらなくなるし、大きな機械もいらなくなり、人間はどれほど幸福になれるかしれないね」「じゃ、これからなんでも原子でやるんだなあ」という父子の会話がある。
原子力資料情報室の初代代表・武谷三男は「被爆国だからこそ原子力の平和利用を(52年11月 改造臨時増刊)という論文を書き、52年8月には、温室で植物が繁り、砂漠を緑に変え、原子力は美容によい「アトミック整形医院」など、原子力の平和利用を絵まで付けて掲載した(「婦人画報」52年8月号)
54年3月の第5福竜丸のビキニ環礁での被曝を契機に、原水爆禁止署名運動が盛り上がり、55年6月日本母親大会、8月原水爆禁止世界大会を生み出し、その後日本の平和運動の柱となった。日本母親大会は「生命を生みだす母親は 生命を育て 生命を守ることをのぞみます」をスローガンに掲げているが第1回大会の大会宣言は「原子力は人類の繁栄のために」と、原子戦争は反対だが平和利用は容認するという立場で始まった。

●「近代の超克」をのり越えるために
核とは何か。核は「マッチ箱大で丸ビルをふっとばす」と戦争中からいわれ、トルーマンは「ヒロシマの原発はTNT火薬2万トン分に相当する」と述べた。つまり破壊力の効率性が特徴である。
原発に限らず近代が目指したものの究極の姿は、豊かさ・便利である。そのなかで軍拡競争、環境破壊、人間自身の破壊が進行した。したがって力の論理、効率性や生産性を求める近代の姿勢そのものを問い直すべきではなかろうか。上野千鶴子の「『弱者』が、『強者』になることによってではなく、『弱者』のままで尊厳を持って生きられる社会をめざす」という言葉に共感する。
ここでわたしはさらなる問いに直面している。近代を問い直すということはじつはかつて言われたことだ。戦時中、1942年の「文学界」に掲載された座談会「近代の超克」論である。欧米的侵略主義、物質主義、強権主義に対する聖なる闘いで世界を解放する。日本的「和」の論理、自然と融合する在り様が、今後人類や世界史が目指す方向である。ところがこの思想は実際には八紘一宇と結びつき、侵略の論理を補強した。そういう論理がフクシマ以降ちらほらみられる。たとえばプランBに「力の父性文明から和の母性文明へ」という論文が掲載されていた。この論理はまさに「近代の超克」と同じ天皇制の論理だったので、驚いた。この「近代の超克」論をクリアしながら、どのように「近代」を克服するか、今後いっしょに議論していきたい。

講演のあと、差別・排外主義に反対する連絡会、「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会、福島原発事故緊急会議、許すな靖国国営化阻止8.15東京集会実行委員会、反安保実行委員会ぶっ通しデモ実行委員会、靖国解体企画の7団体から活動報告や集会案内のアピールがあった。
神奈川の会から教科書採択の報告があった。横浜市は今年から全市1採択地区に変わり、中学在校生8万人に上る全国最大の採択地区になった。つくる会系教科書採択への反対署名は11万筆に上ったが、中田前市長が選んだ4人の教育委員により歴史・公民ともに育鵬社が採択された。さらに中高一貫の県立平塚中等教育学校が学校からの意見で育鵬社の歴史、藤沢市立中学で歴史・公民とも育鵬社が採択された。これで神奈川の中学生の45%が育鵬社の教科書を使うことになるという悲痛な報告だった。

☆3時30分からデモに移った。白山通りを歩き、神保町の交差点を右折し靖国通りへ、右折して専大通りに入り最終的には水道橋と御茶ノ水の間の元町公園までの約1時間のコースだった。昨年も暑く、ウヨクの喚声がすさまじかったが、今年はそれ以上だった。昨年も歩道から飛び出すウヨクはいたがその場で取り押さえられていた。ところが今年はデモの隊列に突入するウヨクもときおり見かけられた。昭和天皇のノボリが目の前で2本奪い取られた。天野恵一さんの個人攻撃をトラメガで続ける人物が、デモ隊にしつこくまとわりついた。
はじめは機動隊員が体を張ってウヨクを阻止してくれているのかと思ったが、突入してくる顔が同じ顔の数人であることに気づいた。どうやらプロレスのようにウヨクと機動隊の出来レースの模様だった。足元に刃渡り7センチくらいの小さな包丁がころがってきたのが不気味だった。
伝統右翼は白山通り、「鮮人追放」の横断幕を掲げる在特会は靖国通りという棲み分けは今年も変わらなかった。しかし「史上最大のカウンター」をよびかける在特会の人数が格段に増し、伝統右翼の凶暴度がエスカレートしていた。そのなかを歩く気分は、古代ローマのコロセウムに入場した闘獣士はこんなものだったのかと思うほどで、日本で一番「身の危険」を感じるデモだった。

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