『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』私の悪文は我家系にあり(3)**<2002.9. Vol.19>

2006年01月07日 | 藤井新造

私の悪文は我家系にあり(3)

芦屋市 藤井新造

冬休みには薪をとりに山へ入る

 夏の遊びについて書いたが、冬休みの遊びはなかった。集団で山へ薪をとりに行くのである。小学校の高学年にもなると少し身体も大きくなると薪とりの集団行動に入り年上の者の指示に従って行動する。冬の寒いさなか朝早く集まり、松葉をよせ集め焚き火をして年上の者が、年下の者の道具を点検してくれる。鎌の刃の具合をみて砥石で研いでくれたりしていた。初心者は木の枝を切れる位の刃の厚い鎌を使っていた。年上の者は少し大きい木が切れる鉈、又は鋸を身につけていた。そして弁当持参で一日中集団行動をとる。往きも帰りも大体一時間位の徒歩の行程である。昼までにその日の予定している薪の半分以上を切り集めて、後半の午後からの作業に少し余裕をもたすのが普通であるが、それがなかなか思うようにはかどらない。冬の日の暮れるのは早くたちまち暗くなり、帰途は身体の疲労と担ぐ荷の重さで、山道の下りでは皆んな足がふらついていた。薪は前後二束を一つにして棒で担ぐのであるが、薪の量が少ない時は、年上の者が補足してくれていた。年上の者がそれをごく自然に行ってくれ、年下の者も自然な形で受け取っていた。今でも不思議でいられないのだが、そのような習慣は私位の年齢まででなかったかと思う。それで中学生の2、3年生になると近くの者が小人数のグループを作り勝手に山に入って行った。もう一人前の大人の手前である。薪をとる量が増え、それに応じた運搬車に猫車(一輪車)を使う。これを使いこなせるようになると大人扱いをしてくれるように思えた。又、自分でも大人に近づいたような気分になった。

 猫車は巾がせまく長さが2m余あり、前方に一輪を備え、小石がゴロゴロした狭い谷間の坂道を下るのに便利な運搬車であった。朝この猫車を肩に担いで山道を登る時に少々のしんどさがあったが、途中大きい滝のある場所で必ず休憩し目的地を目指すのが普通であった。山は標高で言えば300m前後位の高さがあったろう。行く先は前日に大体の目安を立てていた場所で雑木林である。ここで予定していた薪がとれない場合、私有地の松を伐採した時もあったが、それは年に1回あるかないかの例外であり、他所に行き又薪を切り集める。何故なら盗伐は、持ち帰った薪はどの家でも表庭において積み重ね乾燥さしていたので、誰しも見える場所に置くので、どんな薪かはすぐ見分けがつくので、盗伐が出来ないようになっていた。子供たちの冬休み中の薪の収穫は風呂をたいたり、ご飯を炊く燃料として貴重な役割を果たしていた。それで、この薪をとってくるのは、今から思えば中学生の私にとってはちょっとした“重労働”であった訳である。それ以降、年齢が上がるに従い誰しも家の農作業に暇さえあれば手伝っていた。従って私にとっての“労働”は映画のような喜びにみちた顔をみると、何とも違和感を覚え、ある納得の出来ない感情が残るのである。

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