街を往く(其の十七)
藤井新造
八十八ヶ所廻りで有名になった我が村
尼崎市の旧『みちと環境の会』を通じて、阪神間道路問題ネットワークの機関誌『みちしるべ』を受けとり読ましてもらってきた。何時頃からであったであろうか。多分、2000年頃(実際は2001年9月号 Vol.13から;編集子注)だと思うが自信はない。読むだけではなく、同姓の編集者の藤井さん(当時の編集長はS画伯;編集子注)より何か書けと言われ、時に投稿するハメになった。
その前に旧『みちと環境の会』の集まりに加入していた。但し、会費納入会員であった。その時は、後に会長を務めた大橋さんによる強力な誘いと、熱心な勧誘によるもので、私からの主体的なかかわりの姿勢は薄かった。それ故、恥かしながら、その姿勢は終始消極的であった。勤務していた職場は休日出勤も多く、会の行事に参加するゆとりが心身ともになかった。それでも退職して若干の時間ができたが、少し経つと元の勤務先に、主として病気で通院する人達の送迎ボランティア団体があり、そこの活動を手伝うことになった。
そして3年ばかり手伝い、その後に熟年者ユニオンに加入し僅かばかりの活動に参加している。もう10年以上にもなる。以上のように、不良会員であり続けた言い訳の材料はあるが、一貫して不良「会員」であることに間違いはない。それに、もう一つの言い訳もある。
共同住宅・保育所作りを目指して芦屋市へ
居住が尼崎市でなく芦屋市であることも影響しているかも知れない。そもそも芦屋市に移住したのは、友人たちと共同住宅を建て保育所を作ることだった。共同住宅の立地条件として、大阪と神戸の中間地点で、各々の職場への通勤距離が便利な土地を探し、結果として芦屋市に決まった。その間、阪急の武庫之荘駅近辺の格好の土地もあったが、事情があり実現できなかった。
個人的なことをいえば今の土地にこんなに長く住むとは思いも及ばなかった。子供たちの育児・通学が終れば、尼崎市かその近くに引っ越すつもりであったが、今日まで約48年間ずるずると住み続けている。
この土地を選択したのは、各家庭に各々子供が誕生し、0才児を預ける保育所が必要になった。しかし、当時0才児を預かる施設は公私ともなく、わずかに宗教団体系の救貧政策(慈善)としての施設があるのみであった。それでは、自分達で共同住宅を建て保育所を作ろうと、共通する目標を持つ者が集まることになった。要約すると、保育所つきの共同住宅を目指したものだった。この土地に定住したのは、そのような必然性と偶然性(土地)によるものであった。
詳しくは樋口恵子さんの著作集にあり
当時、芦屋市の人口は5万人弱。私の故郷の坂出市の人口とほぼ同じだったので、覚えやすく記憶にとどめやすかった。その人口が今や倍増し、10万人弱になった。人口倍増に貢献したのが、阪急神戸線以北の朝日ヶ丘町を中心にして、霊園一帯に拡張開発されたマンション。次から次へと無秩序に林立した結果によるものであった。
乱開発の最たるものは開森橋(阪急芦屋川駅より六甲山の方へ100m)より北、六甲山登山口の渓谷沿いの高層住宅一群である。開森橋付近は、谷崎潤一郎の小説『細雪』の舞台として、又桜の名所としても有名である。それもあり、山手町を中心に地域住民による環境保全の運動が起り、行政の方でも「芦屋市都市景観条例」(平成21年3月)を制定せざるを得なかった。
しかし、芦屋川下流からこれらの高層住宅を眺めれば、自然破壊の実態というか、その変容ぶりは明らかである。それのみならず海岸地帯も、神戸市の都市政策をまねて埋め立て、住宅地を造成した。遠からず起きるであろう大震災の時、押し寄せる津波被害対策は大丈夫だろうかと、他人事ならず心配する。
瀬戸大橋架橋、何時まで続くのか赤字道路
さて、話を私の故郷の村の顛末に移そう。
私が生まれた時の地名は、綾部郡大字松山村字大薮という地名である。薮林が多くあったのだろうか。この村は、南から神谷、高屋、青海、大薮と山沿いに北へのびて、4つのがあった。「青海」の地名は以前、ここでも書いたように、崇徳上皇の御陵がある。上皇を偲んで西行法師が参拝し、彼の有名な歌碑もあり、歌には「松山」との地名もみられる。しかし、この御陵より近くにある、四国88ヶ所巡りの札所の寺、白峰寺(81番)、根来寺(82番)の方が有名である。御陵に参拝する人は殆どいないが、札所巡りの人は後を絶たない程いると言う。
それ故、「青梅」という名は古くから開けた村落として形成されていたのであろう。村落の東南には小高い山があり、少し厚かましいと思える通称五色連峰と言う山々がある。海岸沿いには、これも又珍しく塩田があり、何十㎞も西へ延びていた。幼少より小高い山の中腹で働いて、みかん畑の農作業を手伝っていた私にとって、塩田で働く人は蟻の如く動き廻っているようにみえた。その塩田産業も、海水より直接塩を製造できる機械の技術が開発され、塩田は不要になり、土地は田・畑に再成された。
この時と共に、昭和の大合併により松山村は坂出市に吸収合併され、村名は消えた。この市は、周辺の町村の人口を吸収したのみならず、塩飽(しわく)諸島の瀬居島・沙弥(しゃみ)島海岸を埋め立て、陸続きにして準工業地帯を作った。そして当然の如く、二島の住民の反対運動を弾圧して、漁業権を放棄させた。二つの島の名前も、また消えてしまった。
1988年には、児島(岡山県)と坂出市の間に瀬戸大橋架橋が完成したが、この一帯の自然風景は激変もいいところである。開通したこの大橋は赤字路線としても有名になった。海水浴が出来た塩田の外側の海岸線、僅かの砂浜も今はなく、コンクリートばかりが目立って味気ない風景になった。
昨年の春、四国山脈の近くに住む従弟に会った時、「農業をする人の高齢化がはげしく、都会では定年退職者の65才の人が青年部ですよ。」と苦笑しながら語っていた。そして、畑の近辺は猪と猿ばかり増えて困っていると言う。最近の新聞の短歌壇に次の一句が載っていた。
犬も猿も雉もゐる村鬼退治する若者の一人もをらぬ 木村桂子
亥年の私は苦笑せずにはおられなかったが、
亥の子餅亥歳の母に参らしぬ 鈴木しげを
の俳句もあり安心した。(亥の子は陰暦10月の最初の亥の日の行事。明日【11月18日】が其の亥の子だが、収穫を祝い、子孫繁栄を願う。坪内稔典 著)
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