水平線の海と空  

草なぎ剛さんのこと、日常の中で感じたことを書いていきたい  【オリビエ】

嬉しいこと

2013年03月31日 11時06分33秒 | 芸能



 『いいとも』の剛君、エンディングで『二都物語』の舞台告知をしておりました。
初日は来週4月3日です。
今日は3月31日ですから、あと3日目には幕が開くことになります。

 『スマスマ』で、稽古中に食事時間を設けられていないと驚いていましたが、
それだけ時間が押しているのでしょう。 
多忙な剛君。
舞台の成功をお祈りしています。

 『中学生円山』の映画完成報告会の記者会見もありました。
中学時代の剛君はクラスのマドンナに恋をしていたという。
でも、カッコイイ男の子にさらわれて片思いに終わったと話す。

 テレビ局によって映画の流れる映像が違っていて、ちょっぴりですが楽しめた。
調べると、いつもの剛君の映画にしては上映館が少ないように思います。
これは映画会社が東映ということもあるのでしょうか。
こちらも大ヒットを祈っています。

 高校の英語の教科書に、
『僕の生きる道』が取り上げられていることをお友達情報で知りました。
剛君が生徒にタクトを振っている場面と、
剛君が矢田亜希子さんと肩を寄せ合っている写真も掲載されています。
私は歓声をあげました。

 あのドラマが放送されたのは、今から10年ほど前ではなかったでしょうか。
反響を呼んだドラマでしたが、
10年経って教科書で取り上げられるなんて思ってもいませんでした。
執筆者はテレビ局に許可を取っているでしょうから、
おそらく剛君も知っていて喜んでいることでしょう。
そして大きな励みになったのではないでしょうか。

 テーマソングの『世界に一つだけの花』は大反響をよび、
嬉しいことに、いまだに多くの人に愛され歌い継がれています。

 2週間ほど前だったでしょうか。
「『世界に一つだけの花』はドラマの主題歌でしたが、なんというドラマだったでしょうか」
テレビで司会者が問いかけました。
コメンテーターは「歌は分かるが」と言って考えますが、答えられません。
「草なぎ剛さんのドラマです」
司会者がヒントを出し、コメンテーターは更に考えています。

 「『僕の生きる道』です」
答えられないコメンテーターに司会者が言った。
「あ、あの女の子が出てくるのでしょう!」
コメンテーターの一人の男性が言います。
「あら、あれは『僕と彼女と彼女の生きる道』よ」
私は心で呟いた。 


楽しみがいっぱい

2013年03月22日 15時14分26秒 | 芸能



 今日の『いいとも』
上に向いたウエーブのヘアーが印象的でした。
木下優樹菜さんと仲良くおしゃべりしていたのも微笑ましかった。

 4月から舞台『二都物語』が始まりますが、剛君は相変わらず多忙です。

 4月14日に放送される、『SMAPがんばりますっ!!』でアナウンサーに挑戦。
テレ朝のアナウンス部で特訓を受け、プロレスを実況中継するという。
これまでも幾度となくナレーションをしてきた剛君。
美声の剛君にアナウンサーは適任です。

 しゃべりの苦手な剛君にとって、
未経験のプロレス実況中継はちょっと心配なところもありますが、
それはそれで特訓を積んで、ノリだしたらとんでもない面白いものになりそうです。
プロレスはショー的なところもあるそうで、
もしかしたらプロレスラーが剛君に絡んでくることもあるかもしれません。
そんなときは、どうぞ剛君に痛い思いをさせないでと願っています。

 『SMAPがんばりますっ!!』のプロレスの収録は3月26日。
『がんばった大賞』の収録も3月28日にあります。
舞台を前にしてSPドラマ『スペシャリスト』の収録もあったりしました。

 舞台は4月3日~30日まで。
多忙の中、その舞台稽古も大変なことでしょう。
『僕に炎の戦車を』の舞台のとき、『「ぷっ」すま』で声を出さないときもあった剛君。
韓国公演の初日でも、後方の座席に声が届かなかったという書き込みもあったりした。

 今度の舞台。
体調が万全で、いい舞台になりますように。
『二都物語』の成功を楽しみに、陰ながら応援しています。 

 剛君の体を心配しながら、楽しみがいっぱいの私なのです。


ファミリーヒストリー 5

2013年03月16日 11時53分41秒 | 芸能

 上下高校で幹二朗さんは先輩に声をかけられて演劇部に入部した。
初めての経験だったが、その魅力にとりつかれる。
そして高校卒業後は俳優座の養成学校を目指すことにした。

 初めて飛び込む演劇の世界と東京での暮らし。
不安を抱える中、母から手紙が届いた。
「男だもの。好きな道をせいいっぱい進みなさい。
どんな苦労があっても、戦争を生き抜いた有難さを思えば乗り切れるはずです。
二人で乗り切っていきましょう」

 昭和28年、俳優座養成所5期生として入団。
幹二朗さんは一人暮らしをしながら演劇の勉強を始めた。
母の久代さんは稼いだお金のほとんどを息子のために費やした。
3年後、幹二朗さんは役者デビューを果たす。
その後、若手俳優として注目を集めるようになる。

 久代さんが54歳のとき、公団住宅が当たり、
ようやく幹二朗さんと暮らせるようになった。
これは久代さんの思い描いていた生活である。
久代さんは仕事を辞め、幹二朗さんの世話に専念することになった。
役者として活躍し始めた息子を見て、久代さんはこれまでの歳月を振り返っていた。

 幹二朗さんが37歳のとき、女優の佐久間良子さんと結婚。
3年後、岳大さんと朋子さんの双子の子どもが誕生した。

 久代さんは歳をとるにつれて原爆症の貧血がひどくなっていく。
平成2年、4月4日。
幹二朗さんは大阪公演の舞台に立っていた。
「幹ちゃんの支度しなくっちゃ。支度しなくっちゃぁねぇ」
病院のベッドで、久代さんはうわ言でいった。
これが最期の言葉だった。
久代さんは80歳の生涯を閉じた。

 カナダ移民の子として生まれ、差別と闘い、
広島で被爆、後遺症に負けず幹二朗さんのために試練を乗り越えた人生だった。

 それまで微笑むように画面を観ていた幹二朗さんが、
「ティッシュを貸して」と言い、メガネを外してティッシュで目を拭いた。
「絶対泣くまいと思っていたけど・・・・・。泣いちゃった。
母一人、子一人だとどうしてもそうなりますが、幹ちゃんと言われたときには」
そう言ってまたティッシュで目を拭いた。
「あの人は、ただ僕を育てることに一生懸命だった。
そういう母の姿を見ると僕も頑張らざるを得なかったし。
だから2人で、平久代と平幹二朗が平幹二朗という俳優を作っていった気がします」
幹二朗さんは泣いて真っ赤になった目を、またティッシュで拭いて呟いた。
「泣くつもりでなかったんだけどなぁ」

 18歳のときアメリカに留学し、一流企業に勤めていた岳大さん。
かつて幹二朗さんは、
医学部卒業の岳大さんに脈をとってもらって死ぬのが希望だと言っていたという。
父の稽古姿を見、30歳近くなって役者の道に進もうとした岳大さんに周囲は驚いた。

 27歳のとき、岳大さんは舞台『鹿鳴館』で役者としてデビューした。
父の幹二朗さんと母、佐久間良子さんと共演した思い出深い舞台だった。


ファミリーヒストリー 4

2013年03月15日 11時59分46秒 | 芸能



 昭和8年、久代さんは広島にいる父の姉、平ショウさんを訪ねる。
ショウさんの息子、文雄さんは幼いころ養子になった人です。

 その年の23歳のとき、久代さんは文雄さんと結婚する。
まもなく長男、幹二朗さんが誕生。
しかし、その9ヶ月後、チフスにかかり文雄さんは24歳で他界してしまう。
久代さんは女手一つで幹二朗さんを育てることになる。

 時代は戦争の渦に巻き込まれていく。
昭和19年、久代さんは11歳の幹二朗さんを福吉さんの故郷、上下町に疎開させる。
そこには福吉さんの弟、峰松さんがカナダから帰国し、立派な家を建てて住んでいた。

 久代さんは広島市内に残り、郵便局で働いていた。
昭和20年、8月6日、アメリカ軍の原子爆弾投下によって広島は死の街と化した。
番組は黒く焼けただれている無数の死体や、苦しんでいる人々の写真を映し出す。
広島市は焼野原であった。
久代さんの消息が途絶えた。
8月15日終戦。

 その数日後、久代さんは奇跡的に生きて、幹二朗さんのいる上下町にやって来た。
あの日、久代さんは爆心地からわずか600メートルのあたりを歩いていた。
靴ひもを直そうとかがみこんだ瞬間、爆発が起こった。
そこは偶然にもコンクリートの建物の傍で、建物の陰に隠れて久代さんは閃光を免れた。
しかし、幹二朗さんの元で、久代さんはすぐに起き上がれなくなっていた。
黒い雨に当たっていたのだ。
そして、危篤に陥った。

 目をさまし、回復した久代さんは幹二朗さんと暮らす。
しかし、久代さんの髪は完全に抜け落ちていた。
体調が悪くても、久代さんは生活のために働かなければならなかった。
当時、放射能は伝染するなどと被爆者は奇異な目を向けられ、差別されることも少なくなかった。
久代さんは幹二朗さんを抱え、収入もままならず不安に駆られていた。

 久代さんがようやく見つけたのが高校の事務員の仕事だった。
ある日、進駐軍の兵士が高校にやってきた。
学校の職員が英語が分からず困っているところに、久代さんが通りかかる。
カナダで身につけた英語で通訳し、そのことで進駐軍から通訳を頼まれることになる。

 幹二朗さんが高校に入学してから、
久代さんは息子の将来のためにもっと稼がなければと、幹二朗さんと離れて東京に出る。
当時、アメリカ軍の将校とその家族が暮らす住居が代々木にあった。
そこで久代さんは住込みのメイドとして働き始める。


ファミリーヒストリー 3

2013年03月13日 11時27分02秒 | 芸能



 実業家として成功していた福吉さんは、日本から弟、峰松さんを呼び寄せた。
新たに果物屋などを開き、峰松さんに手伝わせる。

 そして、この地で一人娘久代さんが生まれた。
彼女は後の岳大さんの祖母、すなわち幹二朗さんの母となる人である。
久代さんは詩や文章を書くのが好きな利発な少女だった。

 久代さんは学校で白人の子供たちにまざって学んでいた。
使用されていないが、その校舎は今でも残っている。
残っている資料を見ると、36人中、6位の成績です。
「当時は移民に寛容な社会でなかったから、大変だったろう。
相当な困難を克服して、大変な努力をしたのだと思う」
資料を見せてくれたカナダ人が語る。
当時、久代さんが作った詩も保存されていた。

 移民の両親の元に生まれ、努力をしてきた久代さん。
久代さんが14歳のとき、母トキさんが結核で倒れる。
看病もむなしく、母トキさんは1年余で亡くなった。

追い打ちをかけるように、時代の暗い影が忍び寄ってきた。
1929年、世界恐慌がバンクーバーにも襲ってきて、街には失業者があふれた。
更に満州事変が起こってからは、反日感情が一層高まり、
日本人街の治安がますます悪くなっていった。

 娘を守ろうと福吉さんは久代さんを日本に返す決断をする。
「一人残していく父が心配だ」と、
久代さんが泣いていたと牧師さんの日記に書かれていた。

 久代さんはカナダで商売をしている父を残して、一人日本に向かった。