凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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もしも元寇のとき神風が吹かなかったら2

2010年03月29日 | 歴史「if」
 約5年前に記事としてもしも元寇のとき神風が吹かなかったらを書いた。この記事の主旨は、もしも神風が吹かず元の侵略軍が進攻すれば、鎌倉幕府は疲弊し幕府崩壊が早まる可能性がある、さすればどうなるか、後醍醐天皇の登場前に幕府が倒れれば南北朝の対立がおきなかった可能性がある、という話である。
 ただ、その前段として文永・弘安の役に当然触れる。その部分に事実誤認があるとして、大型掲示板でこの記事が取り上げられ、罵る内容の名無しコメントがいくつもついた。これは実にネットの暗部であり卑劣なコメントなどは即刻消去だが、こちらもあまりこの戦役については勉強せずに教科書的な通り一遍の記述をしている。なので、もう少し史料にあたって考え直してみようと思う。

 考えるにあたっては、まずモンゴル帝国の世界制覇というものがどのようなものかを知る必要がある。
 遊牧民族は、牧畜が主体の生活様式であり、基本的に定住性を持たない。家畜を率い牧草地を求め移住を繰り返し生活している。この遊牧民族が馬を移動手段に用いだして後、騎兵団が誕生してくる。機動力に優れた集団騎兵戦術は、ユーラシア大陸の定住民族にとっては脅威となっていった。
 スキタイ人の進入に始まり、秦の始皇帝に万里の長城を築かせた匈奴。ゲルマン民族の大移動を引き起こしヨーロッパの歴史を変えたフン族。これら民族はいずもユーラシア大陸の内陸に発しその集団移動能力と優れた騎射技術でユーラシア大陸を席巻した。
 そして12世紀末、モンゴル高原に端を発したチンギス・ハンが遊牧民を束ね、軍事集団を編成し版図を広げてゆく。それまで、遊牧民族の結集を恐れていた周辺諸国は、彼らの分断政策を続けていた。だが、ゴビの高原に割拠する民族を束ねたチンギスは、統一の果てに来る内部分裂を恐れ、戦い続けることによってその結束力を強めた。すなわち外征。そして戦闘能力の高いモンゴル騎兵集団は、極めて速いスピードでユーラシア大陸を覆うことになる。
 チンギス在世時に、まず中国北半分を制していた金を長城を突破して叩き、中央アジアからイラン高原をおさえていたホラズム・シャー朝を崩壊させ、中国西北部の西夏王朝を滅ぼした。
 チンギス没後もモンゴルは拡大を続ける。二代目のオゴディは金帝国にとどめを刺してのち、南宋への侵攻、そして西北ユーラシアへ派兵する。オゴディの甥バトゥは、キプチャク草原(カザフからモルドバに広がる平原)を制圧し、ロシア進攻、ハンガリーまで陥落させウィーンに迫った。ここでオゴディが死んだため一旦撤退したが、このままバトゥ軍が攻め続ければヨーロッパはどうなったか。歴史が大きく変わるifである。
 さらに、チンギスの孫にあたる四代目のモンケは、二度目の東西同時進攻を開始する。前回失速した南宋方面に次弟フビライ、三弟フレグを西アジアに派遣した。フレグはイラン方面からバグダッドまで進み、シリア・ダマスカスを陥落させた。その間、フビライは雲南・大理まで陥した後、長期戦に入ったためモンケはこれを不服とし自ら四川まで攻め入り、ここで急死する。ためにフレグは西征をストップ。シリア以降の部隊は本軍ではなかったためか、エジプトへの南下は失敗する。フレグがそのまま攻め続けもしもエジプトを陥落させていたらイスラム圏はどうなっていたか。
 一方フビライはその後も南宋攻略を続け帝位を握る。この結果、フビライがモンゴル帝国の五代目帝王として君臨し、元を建国、そして中央アジアにチンギスの次男チャガタイを始祖とするチャガタイ汗国、ロシア方面にバトゥの流れのキプチャク汗国、イラン方面にフレグのイル汗国が出現し、この四国によるユーラシア横断のモンゴル連邦帝国が生まれる。史上最大の版図だった。
 フビライは帝国の首都をモンゴル高原カラコルムから上都(現在の北京)に遷都する。そしてさらに世界戦略を開始する。日本への侵攻はこれ以降の事柄となるが、フビライ、つまり元の目的は当然ながら成しえていない南宋征服、中国統一が一義だった。

 では、なぜモンゴル帝国は日本を攻めようとしたのだろうか。
 フビライが帝位に就いたのが1260年、そして6年後には高麗を通じて日本へ使者を送ろうとしている。このときはまだもちろん南宋は陥落してはいないし、即位後はまだ進攻もしていない。実際使者が来たのは1268年、南宋作戦は開始されてはいた。モンゴルは同時作戦が常ではあるし、南宋貿易を続ける日本が目障りであったのかもしれない。しかし海を渡った山だらけの小さな島など、南宋と比してそれほど重要視する必要もないはず。
 また、モンゴルは日本で産出される金を狙ったのだ、という意見もあるが、そこまでちゃんと日本を調査していたのかどうかはわからない。 
 最初の使者がもたらした国書の内容は、通好を望む一見穏便な文にも見え、また高圧的にもとれる。論争がある部分であり、漢文に通じていないのでどちらなのかよくわからない。ただひとつ「至用兵夫孰所好(兵を用いるのは好むところではない)」というのが脅しに見える。これも修辞であるという意見もあるが、やはりどうも脅しに感ぜられる。モンゴルは、とりあえず威嚇し、この書状だけで属国になれば良し、と考えていたのではないか。世界を相手にするモンゴルとしては、ここは省エネでいきたい。軍隊を送るほど実益があるとも思えない。
 ここは、日本はどう対応すべきだったのだろうか。とりあえず朝貢国となるか。そうすればモンゴルは攻めてこない。後の対馬などの惨劇は避けられたが、南宋攻撃などに駆り出された可能性が非常に高い。高麗を見ればわかる。後の歴史を知れば、いずれ日本は独立を取り戻すことが出来るだろうが、未来は見通せない。
 日本は、モンゴルを無視した。返書も送らない。これで、宣戦布告をしたのと同じことになる。

 そして文永の役。戦況は史料が少ない。
 日本側の史料として「十月五日蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦異賊敗北(鎌倉年代記)」などがあるが簡略すぎる。吾妻鏡は文永の役直前で記述が終わっている。
 高麗側に「東国通鑑」「高麗史」、元側に「元史日本伝」などがあるがいずれも記述に乏しい。結局絵巻物である「蒙古襲来絵詞」と寺社縁起である「八幡愚童訓」が最も詳しく、これらから戦況を浮かび上がらせる以外に方法が無い。
 教科書や読み物の多くは八幡愚童訓を定本としている。これはかなり詳細に書き込まれ、文永・弘安の役ともども戦況を読み取れる。僕もそういった書籍を前回は参考にしている。
 ただし、これについては史料批判があるらしい。つまり宗教書であり、神の加護によって元を払いのけたところに主眼があり武士の戦功をないがしろにしているのでは、という視点。
 例えば前回僕が記事で「日本の戦法はまだ、やあやあ我こそは…であったらしくこれでは鉄砲も持つ元軍に勝てるわけがない」と書いたが、当時の武士団は集団戦法であり事実誤認がある、と噛み付いた人がいた。八幡愚童訓には「日本ノ戦ノ如ク、相互二名乗リ合テ、高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処」という記述があり、これによれば鎌倉武士は一騎打ち戦法で立ち向かったことになる。だがこれは八幡愚童訓がおかしいのだ、ということらしい。
 八幡愚童訓には異本が多く、中でも「八幡ノ蒙古記」はこの部分の原本らしいとの評価がある。所蔵していた江戸の国学者橘守部によれば、筥崎宮の社官である圖書允定秀の筆で、成立は1289年、まさに見てきた筆であると考えることも出来る。これによれば、「日本の軍の如く、 相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に」とあるらしい(孫引き)。つまり武士同士が名乗り合い恩賞の証人を得ようとしていることの描写である、と。これは、蒙古襲来絵詞とも合致する事柄であり、「やあやあ我こそは」は訂正したいと思う。
 ただ、鎌倉武士が本来の意味において集団戦法をとっていたかどうか。
 八幡愚童訓に、蒙古軍は太鼓を叩き銅鑼を打って兵をコントロールしている様が見受けられる。これは蒙古襲来絵詞にも描かれており事実だろう。対し鎌倉武士団は完全に集団戦法であったとは言いがたいのではないか。蒙古襲来絵詞の主役である竹崎季長は、郎党総勢5騎で「先駆け」を試みている。いかに許可を得たとはいえこんなの現在の尺度でみれば軍規違反だろう。結局季長は「討死・分捕(相手を死傷させ首を取る)」もなくやられるところを白石通泰軍に助けられ、しかも菊池武房軍が先に突撃し首も取っており「先駆け」でもない。だがこれで季長は鎌倉に恩賞を求めそれが認められている。これはつまり鎌倉が5騎による一種の個人プレーを良しとしたということであり、モンゴルの集団戦法とはかなり隔たりがあるのではないだろうか。
 蒙古襲来絵詞にある菊池武房や白石通泰は100騎を超える兵を率いており、指令系統もはっきりしていたであろうこの中では集団戦法がなされていただろう。ただ、各々の軍の集まりであり、緒戦は集団戦法であるとは言い切りにくい。
 ただし、蒙古軍がいかに整然とした戦法をとったとはいえ、個々の戦闘能力はまた別であろうと思われる。鎌倉武士の「御恩奉公」「一所懸命」の必死さは怖い。結局武士は個人の名を揚げるために戦うのであり、戦意が衰えない。竹崎季長がわずかの兵で死をも恐れず討ち入るような行為は、蒙古軍には脅威だっただろう。覚悟が違う。これは、個人戦の強みでもある。集団戦法>個人戦闘とは一概には言えない。
 
 そも、八幡愚童訓はそれほど歪んだ歴史を伝えているのだろうか。該当箇所を読んでも、どうもそのようには思えない。確かに八幡大菩薩の神徳称揚を前面に出してはいるが、個々の戦況、事実関係にさほど虚飾があるようには読めない。
 武士を貶めているとすれば、例えば矢合わせの鏑矢を放ったところ蒙古兵が「どっと笑い」と書かれているが、それを「古い戦法をとる鎌倉武士、神のご加護がないと勝てなかった」とまで解釈するのは行き過ぎであるような。そこまで詳細に貶める内容の架空の出来事を神社の社官が書き留められるだろうか。
 蒙古軍の戦法もかなりリアルに描写されている。また、蒙古軍の大将である流将公(これは蒙古軍の左副司令官、劉復亨であるとされる)を小弐景資が射た場面も、確かに八幡神の威光であると記述するものの、その神がかった部分を除けば事実関係はそのとおりだろう。武士団は奮戦し、敵将に深手を負わせたのだ。客観的な部分はさほど信用に値しないとは思われないのだが。日本軍は耐えかねて博多筥崎を打ち捨てて古来の水城へ落ちたと書かれているが、その憎々しげな部分は主観として、水城へ退却したのは事実であろうから。
 結局戦況を詳細に記しているのは八幡愚童訓と蒙古襲来絵詞しかないわけで、それらを総合して判断せざるを得ない。
 初日未明より戦闘を続け、鎌倉武士は奮戦した。が、夕刻20km離れた大宰府の水城へと退却する。日宋貿易で栄えた博多は蹂躙されたとみていいだろう。「博多ヲ逃シ落人ハ、一夜ヲ過テ帰リシニ、本宅更替果」と八幡愚童訓に記される。戦場であったのだからこれは致し方ない。筥崎宮も焼けた。蒙古軍優勢と言えるだろうが、武士団はまだ壊滅したわけではなく翌日も戦闘は続くと思われた。
 蒙古軍は日本軍が大宰府まで撤退したことを受け、博多に橋頭堡を築くことも可能かと思われた。戦略上はそうするのが当然と思われる。だが、蒙古軍は日没とともに帰船してしまう。そして、夜が明けたら消えていたのである。なんとも不可思議なことだ。
 鎌倉武士の猛進ぶりに恐れをなしたのか、と思わず考えてしまうが、日本軍は間違いなく20km離れた水城まで撤退している。博多を空けているのに。このことから今回の侵攻は「威力偵察」ではなかったか、との説が生じたのだろう。
 原因は明確ではない。「高麗史節要」は「至一岐島、撃殺千餘級、分道以進、倭却走、伏屍如麻、及暮乃解。會夜大風雨、戰艦觸巖崖多敗、金侁溺死」と記す。壱岐島で千余人を殺し、道を分け進み、日本は逃げ、伏せた屍麻の如く。日が暮れて戦闘を解き、夜嵐に遭い、戦艦は崖に叩かれ多くは敗れた。キンセンが溺れ死んだ。そう読めばいいのか。よくわからない。
 「高麗史金方慶伝」だともう少し詳しい。「倭兵大敗伏屍如麻」までもう少し細かく状況が記される。そして高麗の将、金方慶は忽敦(忻都とも モンゴル人将)と洪茶丘(高麗人)に「我師雖少、已入敵境(師は少なくても敵地に入ってる)」と言い、「即孟明焚船淮陰背水也」と説く。背水の陣で戦えと。しかし総司令官忽敦はこれを退けて軍は撤退となった、という。忽敦は、こちらの軍は兵が足りない、しかも疲れている、また敵軍が増えているとその理由を述べている。
 博多だけの合戦を見れば、一日しか戦っておらず敵軍が増えているとはおかしい。これは対馬、壱岐などの戦闘を踏まえてのことだろうか。いずれにせよこれ以上戦っても益はない、と言うかのようである。「元史日本伝」は「矢が尽きた」と記しており、これも戦力が整わないことを示している。
 そして、蒙古軍は自ら撤退した。そして帰還途中嵐にあったと考えられる。不還者は1万3500余人にものぼったらしい。

 蒙古軍の目的がわかりにくい。
 威力偵察であるのなら、太宰府まで攻め込んでおかないと「偵察」にはならない。そんな何百年も前に築かれたものなど役に立つはずがない、と既に蒙古軍は判断しており対馬や壱岐の戦闘能力、そして博多の防衛度合いが分かればそれでよかったのだ、とするむきもあるだろうが、それでは判断が甘い。当時大宰府よりも博多の方がおそらく栄えていただろうが、軍事となればそれは別だ。本当に大宰府が役立たずの遺物なのか確認せねばならないし、日本軍は退いたのだからそれが出来たはず。威力偵察説は首肯しがたい。
 示威的軍事行動であったとの考え方も出来る。もともと元は日本を朝貢国にしたかっただけであり、領土にしようとは考えていない(高麗も元の版図には含まれていない)。威嚇できればいいのだ。対馬、壱岐は蹂躙した。博多も一応攻め込んだ。怖さはわかったはず。これ以上は外交でいいだろう。こちらも消耗したくはない。
 一応、現時点ではこれに頷いておこうと思う。加えて「而官軍不整、又矢尽(元史日本伝)」つまり兵站に不安があったこと。また「復享中流矢、先登舟、故遂引兵還(東国通鑑)」つまり劉復亨負傷によることもあるだろう。予想以上に日本軍が抵抗したこともある。侮りすぎていたかもしれない、と。そういう理由も加味し、撤退。
 撤退は忽敦が決定。モンゴルの戦法として、退くときはさっと退く。高麗の将である金方慶はゴネたようだが、あくまで総司令は忽敦。
 これは裏目に出る。帰還途中に風雨で相当の被害を出してしまう。
 だが、「倭却走」「倭兵大敗」とあくまで戦争には勝ったことになっている。対馬、壱岐のことはあるにせよ博多においては一方的勝利にも見えないが、「伏屍如麻」「惟虜掠四境而帰」と記すとおり、蒙古軍は勝ったと判断していた。これは、そりゃ虚飾だろうと片付けることも出来る。日本だって「於大宰府合戦異賊敗北」と記しているのだから。
 しかし、蒙古軍は本気で大勝利と考えていた可能性もある。その理由は、後述する。

 文永の役は蒙古軍の撤退で一応、終わった。
 だが幕府は、当然これで終わったとみていない。文永の役で水際作戦がとれず博多湾に簡単に上陸を許した反省から、湾岸に石塁を築く。防御を固めそして、高麗へ出兵も計画する。戦時体制を崩すことはなかった。
 そして、元より使者が渡来する。杜世忠ら5名。合戦後すぐ、と言っていい。目的は、宣諭だった。諭しにやってきたということ。
 つまり、元は示威的軍事行動が成功したと考えていたということだろう。日本軍を一度は叩きのめした、と。
 これをもって文永の役は蒙古軍勝利だった、と短絡的には考えられないが、両国の意識の齟齬はあったのだろう。鎌倉は、この5名の宣諭使を斬首する。
 このことについて前回僕は「国際常識がない」と書いた。宣諭使であっても使者は使者。使者を殺しては話し合いにならない。また大国である元相手に、そんな二次出兵を焚きつける行動をするのは問題だろう、という観点である。
 これについて、元の使者に対しては、ベトナムが投獄して拷問、ビルマが処刑、ジャワが顔に入れ墨をして送り返す、と周辺国は一様に強硬な対応をしており 国際常識がないなんてのは、それこそ当時の国際常識を無視した全くの言いがかりである、という意見があった。お前が常識はずれである、と。
 だが、やはり当時は使者を処刑するのが国際常識だったという見方は首肯しがたい。それが常識なら「使者」というものが存在しなくなる。外交というものがこの時代は無かったのか。
 また、モンゴル帝国からの使者に限っては、どうせ攻めてくるので処刑が常識、との意見もあった。「モンゴルからの使者総数がいくらで、その中に殺されず帰国できた遣使が何回あって、だから鎌倉幕府は非常識だと言えば分かるが」との意見もあり、ここまで言われればもうこちらも白旗を揚げたくなる。そんな数字はモンゴル史学者じゃないので挙げられない。
 使者を殺害した例としては、チンギスの時代、ホラズム・シャー朝でのことがある。厳密には使者ではなく通商団だったが、これが虐殺された。モンゴルは報復に出た。むろんモンゴルはもともと攻めるつもりであり、口実のひとつに過ぎない。スパイ容疑もあった。そして広大なホラズム王国は、滅びた。
 だがそれ以外では、モンゴルと他国にはもちろん外交は成立していた。ローマ教皇も外交使節を送り、その報告書が残っている。フランスも使節を送りあっている。宋も高麗も、当初は苦慮しつつ外交を展開している。
 高麗は、外圧に苦労している。宋の朝貢国だったが、最初は契丹の遼に侵入され、女真の金の圧力を受け、そちらの朝貢国ともなった。モンゴルとの接触は、また契丹に侵入を受けたときに、モンゴルと共同戦線を張っている。一応、当初はモンゴルとの外交が成立していた。チンギスの時代である。
 高麗は王朝政権と武臣政権の対立があり歴史を振り返るのには紙面が足らないが、使者問題に限ると、1224年に高麗領内でモンゴル使者が殺される。以後国交が途絶え、7年後に高麗へ攻め込む。のち、徹底抗戦もむなしく服属することとなる。
 このような状況を踏まえると、使者の往来はそれほど珍しいことではなく、日本の杜世忠以下5名斬首はかなりギリギリの線ではなかったか。
 使者殺害で成功した例は、エジプト・マムルーク朝くらいではなかっただろうか。前述したように西征したモンゴル軍であったが、フレグが東遷したためキト・ブカ率いる12000の軍で南進し、対するマムルークは降伏勧告の使者を殺した。この戦闘においてマムルーク軍が圧勝した。これくらいしか出てこない。
 杜世忠らがスパイ行為を働いたために斬首したとの説もある。前回の趙良弼のこともあり、それならば多少は頷ける。ただ、石塁を見られたから、というのは時期的に合わない。石塁築造はまだ始まっていない。また杜世忠が訪れたのは長門である。それをわざわざ大宰府にまで連れて来て後鎌倉へ送っている。不備が感じられる。
 結果、フビライは怒った。そして本格的に日本侵攻を果たすため、高麗に征東行省を設置して準備を始めた。

 そして、7年後弘安の役が始まる。戦況は、石塁が功を成して水際作戦が成功したと見ていいだろう。
 元軍は高麗からの東路軍が900艘で4万人(蒙漢及び高麗兵中心)、宋からの江南軍が3500艘で10万人(南宋兵中心)という大船団。まずここで、これら14万の兵が一気に攻め込んだらいかに日本でも危ないと考えるだろう。
 だが、元軍は一気には攻めてこない。東路軍だけが先んじて接近、また対馬・壱岐を攻めた後に博多へとやってくる。ただ石塁があるため上陸出来ず、志賀島に到着した。ここで戦いが8日間続く。激しい戦闘の結果、東路軍を押し戻すことに成功する。東路軍は壱岐に逃げたがここでも日本軍が激しく攻撃し、東路軍は退却を余儀なくされる。東路軍には伝染病も流行り、兵糧も含め衰弱した。
 江南軍は何をしていたのか。そもそも6月15日に壱岐で合流のはずが出発は6月末、五島から平戸へ到着したのは既に7月だった。逃げていた東路軍も合流し、松浦の鷹島へ向かった。ここは石塁がないため、上陸に対し日本軍と激しい戦闘が広げられた。
 ここで「神風」である。台風が元軍を襲い、壊滅。日本軍は残った元軍を掃討した。
 前回記事では、この台風がなければ、戦力に勝る元に(東路軍は消耗していたが10万の江南軍はまだ現存していた)やはり攻め込まれていたと考えるのが妥当ではないか、と書いた。日本軍は約4万(一説には6万)。実際には1万に満たなかったとも言われる。
 だが、これを書くにあたって勉強しようと思い、杉山正明氏の著作を読んで驚いた。江南軍のほとんどは戦力にはならなかった可能性があるという。江南軍は日本への入植を考え鋤鍬種籾を用意していたとの話はよく聞くが、「どう史料をしらべてみても、この兵のほとんどは武装してはいなかったらしい(クビライの挑戦・杉山氏著)」。元は南宋を滅ぼし宋軍を手に入れたが、その宋軍の精鋭部隊はフビライが直轄、中央アジア戦線へ。次は広東・広西へ向けられ、江南軍は残った「弱兵」とでも言うべきやっかいもの的存在だったらしい。それら兵が武装をしていない。
 とあれば神風は全面的に見直さざるを得ない。単純に移民船団だった、と。金方慶は江南軍を当てにしてまた徹底抗戦を叫んでいるのでやはり戦力だったのかとも考えたりもするけれども、本当かと書けば研究者の杉山先生に失礼なので、その通りとして考えてみると。
 戦闘部隊は東路軍の4万だけだ。ならば先んじて進攻したのも当然である。先んじても何も、それが戦力の全てだったから。さすれば、これだけで制圧できると元は踏んでいたことになる。文永の役の戦力とさほど変わりがない。将も忻都、洪茶丘、金方慶と同じメンバー。「蒙古軍は本気で大勝利と考えていた可能性もある」と前述したが、「宣諭使」と共にその論拠となる。前回はこれで大勝利出来たのだから。
 これでは、弘安の役は元軍が勝つことは出来ない。
 仮に神風なくとも、元軍は撤退を余儀なくされていただろう。したがって表題の「もしも元寇のとき神風が吹かなかったら」は成立しないことになる。
 
 ブログの字数制限(10000字)があり、これ以上書けない。少し続きがあるので、以下コメント欄へ。
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もしも東方三王家の反乱がなかったら (凛太郎)
2010-03-29 22:45:02
ただし、だから日本の安寧は保たれたに違いなく、歴史は変わらない、とは簡単に言えない。モンゴルは第三次の遠征を計画していたからだ。ifはここに存在する。
 さすがに、フビライは弘安の役の失敗で本気になった様子がある。文永・弘安両役とも東路軍は忽敦(忻都)、洪茶丘、金方慶らと司令官も同じだった。だが、次回はフビライ直属の中央軍団からの編成を計画していたようだ。世界を版図においた軍団、と言っていいかもしれない。それに、高麗、江南軍が加わる。規模も質も前回を相当に上回るはず。
 文永の役は、元軍勝利とフビライはとらえていたかもしれない。しかし、弘安の役は明確に元軍が敗北している。威信もある。何としてでも勝利を欲しただろう。こんな小さな島国に、とは思うが、モンゴル伝統の三方向作戦も考えられていたかもしれない。
 モンゴルは、戦争を何段階もに分けて仕掛けることがよくある。状況を分析し退くべきところでは退くが、何度も進攻は繰り返す。高麗がいい例だろう。高麗は徹底抗戦した。そのため、最初の進攻から済州島の三別抄が鎮圧されるまで、40年以上。その間にモンゴルの政権も代替わりしている。執拗に侵攻する。
 高麗と日本を置き換えて考えると、それは恐ろしい。だが、三回目は結局、なかった。

 理由については様々に考えられている。占城(チャンパ)や安南などベトナム方面の反乱に対する対処やジャワ遠征、また江南での反乱の対処などが言われている。中でも最も大きいのは「ナヤン・カダアンの乱」である。
 フビライが帝位についたとき、ライバルが多かった。フビライの兄である皇帝モンケが死去したとき、候補は西征中のフレグ、そしてモンゴル本拠地にいた末弟アリクブケ。この中で、末子相続の風習、そしてモンゴル草原を本拠としていたことからアリクブケが優勢であり、フビライは南宋攻略の遠征途中だった。しかしフビライは遠征をやめず戦時体制をとり続けたため、遠征軍がフビライについた。中でも、チンギスの弟(ジョチ・カサル、カチウン、オッチギン)を祖とする「東方三王家」がフビライの味方についたことは大きく、諸将がフビライの下に結集、結果アリクブケを退け、フビライがモンゴル帝国の座についた経緯がある。元が他のモンゴル連邦の国(キプチャク汗国やイル汗国)より優位に立っているのも、東方三王家の影響も大きい。
 その「親フビライ」のはずであった東方三王家がフビライに叛旗を翻した。もともと支持母体であった東方三王家の反乱はフビライの帝位を揺るがし、帝国そのものの存亡にかかわる。オッチギン家のナヤンに対しては、73歳のフビライ自ら親征した。
 日本を攻めている場合ではなかった、のである。第三次遠征はフビライ直属の中央軍が出張る予定であったが、もちろんその精鋭軍はこちらに向けられた。
 日本としては、ナヤンらに助けられたことになる。

 フビライはカダアンの乱が終結すると、また日本への再征を計画する。だが、フビライはその中で死去する。
 フビライ以後も、征東行省は設置された。しかし、内乱やまずその方面に余裕が出来ない。次第に日本遠征はしりすぼみになってゆく。また、元も衰退していくことになる。

 もしも第三次日本遠征がフビライの手によって行われていたらどうなったか、を考えるのは難しい。ただ、鎌倉幕府の衰亡が早まるどころの騒ぎではなく、日本という国のあり方が変わってしまった恐れもある。隣の高麗をみれば、全くの絵空事でもない。
参考文献 (凛太郎)
2010-03-29 22:48:31
蒙古襲来 転換する社会鎌倉 上・下(網野善彦)
北条時宗と蒙古襲来(村井章介)
モンゴル帝国の興亡 上・下(杉山正明)
クビライの挑戦(杉山正明)
モンゴル帝国の興亡(岡田英弘)
蒙古襲来 対外戦争の社会史(海津一朗)
日本の中世 9 モンゴル襲来の衝撃(佐伯弘次)
神風の武士像(関幸彦)
北条時宗とその時代(工藤敬一)
Unknown (征新羅将軍の子孫)
2012-04-19 06:36:17
おまえ、馬鹿だろ。
1回目は慌てふためいて危険な夜中に撤退して
いるんだよ。
当時の航海水準で、夜間の出航は大変な危険行為。
日本軍の増強を恐れてとしか考えられんだろ。

日本側が準備出来た2回目は上陸さえ許さなか
った。
我が祖は、元軍と戦い撃破したが、同族に死者
が出た。
それだけに、碌な根拠も無しに蒙昧事を述べて
いる阿呆には虫唾が走るよ。
↑これはサンプルとして残すことにします。 (凛太郎)
2012-04-20 04:49:52
ブログをやっていると、様々な意見がよせられます。
もちろんその多くは、傾聴に値するご意見であり、僕ももちろん真摯に対応します。コミュニケーション重視ではないゆえに特にレスポンスを期待するものではないにせよ、応援のメッセージを頂ければ、それは嬉しいものです。
しかし、上記のような失礼極まりない事柄を書き付けてくるひともいます。
多くは、無記名もしくは「とおりすがり」「名無し」などの名前でこちらを侮辱するような書きぶりですので、それは「ブログ汚し」として削除してきました。そのことは、サイドメニューにも記しているとおりであり、当方にコメントを掲載するか否かを判断する権利がありますので、それは了承していただけると思います。

さて。
ことに前記事(その1の記事)、そしてこの記事には、誹謗中傷を含んだ内容のコメントが多く残されてきました。だいたいは、上サンプルのような内容です。
全てをひとくくりにすべきではありませんが、いわゆる「鎌倉武士最強史観」とも言うべきもので、日本側史料で言えば「八幡愚童訓」を全く信頼できない史料と判断し「蒙古襲来絵詞」を解釈したうえで、日本側の軍が元軍を完全撃破したとするものです。
なにより相当昔の話です。近世、近代のように豊富に史料が残されているわけではありません。なので残存する史料をどう解釈するか、で意見が割れるわけです。
意見が割れるのは、かまわないと思います。いたしかたのないところです。近代ですら、歴史解釈には様々に考察が分かれ、意見の対立をみる場面が多々であるわけですから。
そういったうえで、上記記事は僕の意見です。

しかしその意見を、全く読まずに脊髄反射的に反応してくる一群の人がいます。上サンプルが好例です。何も僕は日本軍が負けたなどとは書いていない。痛み分けと考えていますが、実際はどうであったかとは関係なく、元軍は自らが勝利したと判断した可能性がある、と書いているわけです。そう考えると以降の元の行動が理解しやすいからです。
しかし、そういう部分が読み取れないのだな。

読み取れないのなら、それでもかまいません。それに対して意見を言おうと試みることも、かまいません。
しかし「おまえ、馬鹿だろ」とはね。
書いていて恥ずかしくないのでしょうか。この「征新羅将軍の子孫」というハンドルネームを持つ人は。
一読して、頭に血が上っていることがわかりますよ。もう少し冷静になりなさい。挑発しているつもりなのでしょうけれども。
匿名をいいことに何を書いてもバレないと判断してのことでしょうが、もしもこの人が本当に元と対峙し撃破した鎌倉武士の子孫であるとするならば、何百年もの間、連綿と続いた家系がしっかりと判明している「名家」の人であると推察できます。先祖が泣くよこれでは。あなたの先祖は、もっと礼節を重んじていたはずですが。
人のことを「馬鹿・阿呆」と誹謗中傷する前に、もう少し我が身を振り返りなさい。

同様の汚いコメントがまた付けば、それは以前と同じように削除していきます。しかし、この名誉を重んじたはずの鎌倉武士の子孫と名乗るこのコメントは、卑怯者のサンプルとして残します。以降、意見を書こうと思う人はもう少しわきまえてください。
それから、征新羅将軍の子孫さん。僕と話がしたければ、まず暴言を謝罪したうえでもういちど書いてきなさい。その態度によっては、許してやらないこともありません。
Unknown (どんたく)
2013-05-08 12:55:26
ブログだから何を書いてもいいんだけれど、できれば凛太郎さんに優れた考察力があるわけではないという事を最初に書いておいて欲しかったな。

そうすれば、それでも面白ければ良いと言う人は楽しめるだろうし、私の様に無駄な時間を過ごしたくない人はガッカリしないですむのにね。
>どんたくさん (凛太郎)
2013-05-09 06:00:57
当方に優れた考察力があるわけではないという事を最初に書いておかず誠に申し訳ありませんでした。まさか、どんたくさんのように優れた読解力と洞察力をお持ちであろうお方が(そうでなければこんなことはお書きにならないでしょうから)、そういったこともわからず最後まで読まれるなどとは予想もしていませんでしたので(笑)。
別に最後にどんでん返しを用意したわけでもなく、読解力のある人ならある程度読めば方向性はわかるはずなんですが。
そういう方も、いるんだなあ。この元寇の話には、いろんな方がおいでになる。
あるいは考察力はなくても文章力はあるので最後まで読ませてしまった、ということでしょうか。そうであれば、お褒めにあずかり恐縮です。
Unknown (みむろ)
2016-12-04 13:21:52
日本海を越えて日本を制圧するのは当時の海上輸送力から考えて極めて難しいでしょう
日本にまともな軍事力がないならともかく
当時の日本の総兵力は20万はあったわけです
まぁ無理ですね

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