徳川幕府は家康以来、後継者問題には十分に気を遣っていた。秀吉の後継問題で様々な問題が生じたことを家康は見続けて来たからであろうか、二代将軍を秀忠として将軍職を譲って後、水戸、尾張、紀伊に御三家を立て、血筋の絶えないように十分に配慮していた。
徳川将軍家は、直系が絶えても、紀州徳川家から吉宗、また家茂をむかえたり、また水戸徳川家から慶喜(彼は一橋家に養子に入ったため正確には一橋家から)を将軍に据えたりして、300年近い間、15代の将軍を立てて血脈を途絶えさせることなく平和裏に幕府を続けてきた。これはなかなかすごいことであると思う。天皇家は別格としても、ここまで家康の血筋で続けることはなかなか難しいことではないかと思う。鎌倉将軍家は頼朝の息子、わずか三代で終焉を迎え、足利将軍家は徳川同様15代続いたものの後継問題で常に問題を起こし、応仁の乱をはじめとする内乱を勃発させた。
ところで、その徳川将軍家継承に一度だけ赤信号が点ったことがある。それは、第4代将軍家綱の後継問題であった。
4代将軍家綱は家光の長男で、周りにライバルとなるべき将軍候補者もなく、平穏無事に将軍職を継いだ。家光が没したとき家綱はわずか11歳、少年であったが、その頃になると徳川幕府は磐石の体制となっており、組織もしっかりしていて問題はなかった。多くの老臣に支えられて幕府は運営されていた。ことに保科正之の力は大きかった。保科正之は二代秀忠の妾腹であり、家綱の叔父にあたる。この保科正之が絶対的権力で幕府を牛耳ることは可能だったのだが、影響力は強いもののあくまで家綱の後見という立場を逸脱しなかったので、幕政が乱れることはなかった。酒井忠勝、井伊直孝、阿部忠秋ら譜代が老中を固め、稲葉正則も尽力した。
しかしながら、ひとつの問題があった。家綱が病弱だったことである。
そのため、家綱は正統な跡継ぎを残せずに病に倒れ、後継将軍位をめぐって様々な問題が生じることとなる。
家綱が亡くなるこの時点で、磐石だった幕政は代替わりし、酒井忠清が「下馬将軍」とも言われ権力を握っていた。子供が居ない家綱の後継をどうするか。そのとき酒井忠清が持ち出した案が「宮将軍擁立」であった。
以前にも書いたことがあるが、僕が子供の頃に読んでいた学習歴史漫画に、酒井忠清は大老としていかにも悪人ヅラをして登場する。そして、
「鎌倉幕府の例もある。次の将軍には京都から宮様を迎えては?」
と切り出すのである。これは徳川家血脈の危機であったと言ってもいい。
しかしながら、子供むけの学習漫画にも描かれていたこの事件は、実際には史実かどうかの決着がついていない事柄なのだそうである。そういえばこれだけの大事件であるのに高校日本史では学習しない。決定的な史料が残されていないので、この事件を疑問視する学者も多い由。
僕などは子供の頃から宮将軍擁立工作が史実だと信じてきたので実に肩透かしをくらった気分である。ちょっといくつか書籍を読んでみた。
この当時、後継の可能性があったのは家綱の弟で家光の三男にあたる綱重、そして四男にあたる綱吉である。そして、綱重は家綱より先に亡くなってしまい、その遺児綱豊が候補となる。
普通に考えれば綱吉が継ぐのが正統であろう。血の濃さは家康から考えれば家綱と同じ。しかしながら、忠清が綱吉を後継者にしたくなかった理由があったらしい。
ここからは推測となってしまうのだが、考え方はいくつかある。
まず、綱吉が将軍職を継ぐ器でなかったと忠清が判断していた、ということ。綱吉はご存知の通り「犬公方」として知られる。巷間言われるところ綱吉は性格に難があり、また母の桂昌院、怪僧隆光ら後ろ盾に問題があって、幕政が立ち行かなくなる可能性があり、綱吉を推したくなかったという説。
また、綱吉や綱豊ではなく、忠清の本命は家光の長女千代姫が尾張家に輿入れして生んだ松平義行であり、この義行が成人するまでの繋ぎとして宮将軍を立てようとした説。
また、家綱死亡時に、家綱の側室が懐妊しており、男子であれば間違いなく正統な後継者になるはずであるから、出産を待ち、その繋ぎとして宮将軍を擁立しようとした、という説。
そして、忠清が独裁政権を保つには既に壮年であった綱吉を将軍にするわけにはいかず、宮将軍を立て自らが「執権」となって北条氏のように幕政を牛耳っていこうと企んだ説、などいくつかのことが言われている。
いずれが正しかったのかはわからない。しかし、史料孫引きの僕が判断してはいけないことだとは思うが、具体的に有栖川宮幸仁親王という名前も出ており、やはり宮将軍擁立構想はあったのではないかと推測される。そして、老中堀田正俊の反対などでこの擁立劇は立ち消えとなり、綱吉が将軍に就き忠清は結果として失脚している。
ここから先は針の先のifであるが、もしも忠清が執権になる目的で宮将軍擁立を実現させた場合、実に歴史は面白い方向に動いたと考えられるのである。
鎌倉幕府の例をそのまま持ってくることは難しいだろうが、忠清が執権的役割に就いた場合、それが世襲となるのかどうか。そうなれば、北条得宗家の再現となる。酒井家が事実上の幕府運営者となるが、それはちょっと考えにくかろう。
しかしながら話を面白い方に持っていきたい僕としては、酒井得宗家実現はなかったとしても、老中合議制の幕府運営は実現した可能性もゼロではなかったのでは、と考える。酒井家、井伊家はもとより、御三家も加えた親藩、譜代による合議制だ。将軍を飾り物として内閣を作る。この後将軍独裁(吉宗など)や、側用人政治なども江戸幕府では繰り広げられたが、かえって合議制の方が上手く行っていた可能性もある。人材登用を確実に行い独裁を許さない相互チェック機関を機能させれば、近代国家建設も比較的早かったかもしれない。独裁を好まない日本人に合った体制とも言える。
それに。この宮将軍という存在は、一種の「公武合体」とも考えられないか。飾りとは言っても、天皇家が幕府のトップに立つというこの構造。こうなると、日本の政治体制は一元化するのである。
嵐をよんだ幕末。その旗印は「尊皇攘夷」であった。しかし、もう既に幕府は天皇家がトップにいるのである。これでは尊皇運動は成り立たないのではないか。そうなると、幕末の志士達は何を担いで幕府に対抗したらいいのかわからなくなる。場合によっては、ペリー来航からスムーズに幕府主導で開国がなされ、薩長の出番がなくそのまますんなりと近代化へと日本が進んでいた可能性も…ゼロではないと思うのだが。
現実には考えにくい選択肢ではあるのだけれども、この宮将軍擁立がひとつの岐路であった可能性もあったと思う。この事件が本当にあったことなのかそうでないのかが、学者の間で結論が出てくれればいいのだけれども。
徳川将軍家は、直系が絶えても、紀州徳川家から吉宗、また家茂をむかえたり、また水戸徳川家から慶喜(彼は一橋家に養子に入ったため正確には一橋家から)を将軍に据えたりして、300年近い間、15代の将軍を立てて血脈を途絶えさせることなく平和裏に幕府を続けてきた。これはなかなかすごいことであると思う。天皇家は別格としても、ここまで家康の血筋で続けることはなかなか難しいことではないかと思う。鎌倉将軍家は頼朝の息子、わずか三代で終焉を迎え、足利将軍家は徳川同様15代続いたものの後継問題で常に問題を起こし、応仁の乱をはじめとする内乱を勃発させた。
ところで、その徳川将軍家継承に一度だけ赤信号が点ったことがある。それは、第4代将軍家綱の後継問題であった。
4代将軍家綱は家光の長男で、周りにライバルとなるべき将軍候補者もなく、平穏無事に将軍職を継いだ。家光が没したとき家綱はわずか11歳、少年であったが、その頃になると徳川幕府は磐石の体制となっており、組織もしっかりしていて問題はなかった。多くの老臣に支えられて幕府は運営されていた。ことに保科正之の力は大きかった。保科正之は二代秀忠の妾腹であり、家綱の叔父にあたる。この保科正之が絶対的権力で幕府を牛耳ることは可能だったのだが、影響力は強いもののあくまで家綱の後見という立場を逸脱しなかったので、幕政が乱れることはなかった。酒井忠勝、井伊直孝、阿部忠秋ら譜代が老中を固め、稲葉正則も尽力した。
しかしながら、ひとつの問題があった。家綱が病弱だったことである。
そのため、家綱は正統な跡継ぎを残せずに病に倒れ、後継将軍位をめぐって様々な問題が生じることとなる。
家綱が亡くなるこの時点で、磐石だった幕政は代替わりし、酒井忠清が「下馬将軍」とも言われ権力を握っていた。子供が居ない家綱の後継をどうするか。そのとき酒井忠清が持ち出した案が「宮将軍擁立」であった。
以前にも書いたことがあるが、僕が子供の頃に読んでいた学習歴史漫画に、酒井忠清は大老としていかにも悪人ヅラをして登場する。そして、
「鎌倉幕府の例もある。次の将軍には京都から宮様を迎えては?」
と切り出すのである。これは徳川家血脈の危機であったと言ってもいい。
しかしながら、子供むけの学習漫画にも描かれていたこの事件は、実際には史実かどうかの決着がついていない事柄なのだそうである。そういえばこれだけの大事件であるのに高校日本史では学習しない。決定的な史料が残されていないので、この事件を疑問視する学者も多い由。
僕などは子供の頃から宮将軍擁立工作が史実だと信じてきたので実に肩透かしをくらった気分である。ちょっといくつか書籍を読んでみた。
この当時、後継の可能性があったのは家綱の弟で家光の三男にあたる綱重、そして四男にあたる綱吉である。そして、綱重は家綱より先に亡くなってしまい、その遺児綱豊が候補となる。
普通に考えれば綱吉が継ぐのが正統であろう。血の濃さは家康から考えれば家綱と同じ。しかしながら、忠清が綱吉を後継者にしたくなかった理由があったらしい。
ここからは推測となってしまうのだが、考え方はいくつかある。
まず、綱吉が将軍職を継ぐ器でなかったと忠清が判断していた、ということ。綱吉はご存知の通り「犬公方」として知られる。巷間言われるところ綱吉は性格に難があり、また母の桂昌院、怪僧隆光ら後ろ盾に問題があって、幕政が立ち行かなくなる可能性があり、綱吉を推したくなかったという説。
また、綱吉や綱豊ではなく、忠清の本命は家光の長女千代姫が尾張家に輿入れして生んだ松平義行であり、この義行が成人するまでの繋ぎとして宮将軍を立てようとした説。
また、家綱死亡時に、家綱の側室が懐妊しており、男子であれば間違いなく正統な後継者になるはずであるから、出産を待ち、その繋ぎとして宮将軍を擁立しようとした、という説。
そして、忠清が独裁政権を保つには既に壮年であった綱吉を将軍にするわけにはいかず、宮将軍を立て自らが「執権」となって北条氏のように幕政を牛耳っていこうと企んだ説、などいくつかのことが言われている。
いずれが正しかったのかはわからない。しかし、史料孫引きの僕が判断してはいけないことだとは思うが、具体的に有栖川宮幸仁親王という名前も出ており、やはり宮将軍擁立構想はあったのではないかと推測される。そして、老中堀田正俊の反対などでこの擁立劇は立ち消えとなり、綱吉が将軍に就き忠清は結果として失脚している。
ここから先は針の先のifであるが、もしも忠清が執権になる目的で宮将軍擁立を実現させた場合、実に歴史は面白い方向に動いたと考えられるのである。
鎌倉幕府の例をそのまま持ってくることは難しいだろうが、忠清が執権的役割に就いた場合、それが世襲となるのかどうか。そうなれば、北条得宗家の再現となる。酒井家が事実上の幕府運営者となるが、それはちょっと考えにくかろう。
しかしながら話を面白い方に持っていきたい僕としては、酒井得宗家実現はなかったとしても、老中合議制の幕府運営は実現した可能性もゼロではなかったのでは、と考える。酒井家、井伊家はもとより、御三家も加えた親藩、譜代による合議制だ。将軍を飾り物として内閣を作る。この後将軍独裁(吉宗など)や、側用人政治なども江戸幕府では繰り広げられたが、かえって合議制の方が上手く行っていた可能性もある。人材登用を確実に行い独裁を許さない相互チェック機関を機能させれば、近代国家建設も比較的早かったかもしれない。独裁を好まない日本人に合った体制とも言える。
それに。この宮将軍という存在は、一種の「公武合体」とも考えられないか。飾りとは言っても、天皇家が幕府のトップに立つというこの構造。こうなると、日本の政治体制は一元化するのである。
嵐をよんだ幕末。その旗印は「尊皇攘夷」であった。しかし、もう既に幕府は天皇家がトップにいるのである。これでは尊皇運動は成り立たないのではないか。そうなると、幕末の志士達は何を担いで幕府に対抗したらいいのかわからなくなる。場合によっては、ペリー来航からスムーズに幕府主導で開国がなされ、薩長の出番がなくそのまますんなりと近代化へと日本が進んでいた可能性も…ゼロではないと思うのだが。
現実には考えにくい選択肢ではあるのだけれども、この宮将軍擁立がひとつの岐路であった可能性もあったと思う。この事件が本当にあったことなのかそうでないのかが、学者の間で結論が出てくれればいいのだけれども。
私のblogにコメント下さるebaさんが今の前のblogで宮将軍擁立を書かれていました。
骨子は凛太郎さんと同じでしたので学界でも主流になってるんじゃないでしょうか?
得宗の権限が増大したのは鎌倉時代も中期以降ですよね。
連署がかなり大きな役割を果たし合議制だった、、
そしたら桜田門外もなかったかな??
でも明治維新まで話が及ぶってさすがです!!!
そう言われれば既に公武合体しちゃってますものね~!
うんうん尊王運動は成り立たないです!!!!!
ここまで考えられる凛太郎さんの思考力に感服です
歴史「if」もかれこれ二ヶ月ぶりくらいですか。しかしながら、別に歴史ものを避けていたわけではなくて、単に徒然草の更新頻度が低いだけです。こっちは10分じゃ書けないもんで(汗)。自分でも意外なのですが歴史「if」、記事数でいけばカテゴリ内では一番多いのです。てっきり酒かプロレスの話が一番多いと思っていたのに。
龍馬はん話を七回も書いたせいだな…。
いずれにせよ書きたいことは多いので、歴史ものもアップしていきたいと思います。
しかしながらebaさんも書いておられたのですか(汗)。恥ずかしいですね。こんな荒唐無稽な話は絶対に読まれたくないな(笑)。話を面白くしようとああ書きましたが、酒井忠清はそんなに悪人じゃないと思いますので、結局宮将軍が擁立されたとしても「つなぎ」でしかなかったでしょう。ただ綱吉は将軍になれなかったのかもしれないので、お犬様を蹴飛ばして入牢、なんてアホなことはなかったかもしれませんね。
ドラマ「大奥」が好きだったので
この話が…より、理解できたのかも知れません。(笑)
上様のお手つき
これは、我が家で流行しましたよ。
食事時に、よく大奥の話をしてました。
上様のエロエロビーム
女性を選ぶ時の視線…こんな風に気に入った女性を
すぐにものに出来たら…つまんないかも知れませんね。
ってあまり関係ない話でごめんなさい。
大奥は昔の岸田今日子のナレーションの頃から
好きでした。
歴史の流れの中で、翻弄される女性
女性同士の争いの中にある哀しみ
ドロドロした感情の流れの中に
虐げられていた女性の地位と哀しみを感じます。
女性の嘆きは
源氏物語の頃から…大奥の時代を経て現代も
根本には変わっていないものだと
しみじみ思います。
「大奥」に限らず、ここ何年かTVドラマというものから遠ざかっています。このためどれだけ話題についていけないことか(汗)。根気がないのでしょうね。歴史好きなのに大河ドラマさえ見続けられない。最近の自分の感受性の欠落さ度合いに呆れます。
今年は…頑張って何かやっぱり見ようかな。ドラマなんて昔と違って3ヶ月で完了するものですしね。しかし「頑張って」などと考えている時点でダメなのかもしれませんが。
ただ、3ヶ月ワンクールの間
一つだけは見ようとか…これだけは…ってものを
見ます。
大河ドラマや長時間のものは見られないのは
凛太郎さんの言い訳(笑)と同じです。
一つでも興味のあるものを見てるって事も
意外と達成感があったりします。
基本的にテレビがずっと付いている状態っていうか
ずっと見ていることが出来ないんですよ(笑)
音楽なら聞いていられるのにね…
最近、テレビはスポーツ以外はリアルタイムで見ることがほとんどなくなりました。たいていはVTRで見ています。CM飛ばせるのでラク。そんなに家では時間に追われて過ごしたくはないのですが、ネットインする時間も確保したいですしねぇ。アラレさんのように夜がそんなに強くないですし(笑)。
ぼくも他人の研究した成果でブログに書いているので、偉そうなことはいえないのですけど、福田千鶴『酒井忠清』という伝記があります。それによると宮将軍擁立は、その当時の史料ではなくて、江戸後期に出来た幕府正史『徳川実紀』に書いてあるのです。今まではこれを史料として、宮将軍擁立計画があったとされていました。それで、福田さんが当時の史料に遡った結果、どうもそんな事実はないらしいです。
ただ、綱吉を将軍にはしたくなかったのは事実のようです。この当時は徳川譜代家臣団が幕政を主導する「老中体制」が完成していて、将軍は飾り的なものになりつつありました。綱吉はそれが気にくわなくて、堀田を使って忠清を追い落としたようです。彼は自ら政治をしたかったようです。
あれほど権力を握っていた忠清が失脚させられたので、「北条にならって自らが幕府の実権を握ろうとした」というまことしやかな噂が諸大名の間で広まって、一般にも浸透したようです。噂だったのですね。それが100年ぐらい経つと、「史実」として幕府正史に記録されてしまったようです。
すいません、ながながと。
僕は、子供の頃に読んだ(もう30年も前の話ですが)学習漫画にこの宮将軍擁立が書かれていたのでずっと史実だと思ってきたのです。その後修正されたのですね。なるほど。「徳川実紀」はebaさんのおっしゃるところの「一次史料」ではないので、伝聞として捉えざるを得ないでしょうね。まあ僕達素人は「火の無いところに煙は立たない」的な考え方をどうしてもしてしまうので、ついこういうウワサ話みたいなものにも興味を持ってしまうのですが。
ただこれに関しては、酒井忠清があまりにも悪者にされすぎだなという感覚はありました。気の毒ですね。乗っ取りの首謀者みたいに言われて。仮に宮将軍擁立構想があったとしても、執権目的ではないと思うのですけれどもね。当時の朱子学的武士道から考えても。
ご教授ありがとうございました。歴史の話はめったに書かないブログですが、また見てやってください。ただし学者の方には嫌われる(涙)「if」が主体ですが。
m(_ _;)m