釜石の日々

人災が繰り返されるのか

夜半に雨が降ったのか、朝起きると地面が濡れていた。空は雲に覆われて昼前には雨もまた降った。6月に入ってから犬たちも少し身体を動かすと大きく口を開けて呼吸をするようになった。気温は確実に上がって来た。娘は昨夜も遅く帰って来たようで、息子が起きていたので、こちらは先に寝てしまった。今日も明日も夜の集まりが続くようだ。息子も来週から気仙沼でのボランティア活動に参加するための準備をやっている。我が家をみてもそうだが、今の釜石は復興のために一時的に若者が増えている。政府の復興策による資金が流入している間はいいが、その後の釜石の再生に繋がるような策は今のところ考えられていないように見える。補助金から離れて、自立した経済状態を維持する方法を、今、考えなければならないはずなのだが。世論調査の結果などは無視されて、大飯原発は右往左往はしているが、再稼働の方向で政府はことを進めている。今回の震災後、様々な角度から過去の津波の痕跡が一層盛んに調査されるようになった。そんな中で三陸沿岸部の神社がほとんど被害を受けていないことが注目された。神社のほとんどが高台にある。しかし、逆に寺院は多く被害を受けた。1637年に起きたキリシタンによる島原の乱に脅威を感じた開幕間もない江戸幕府は1640年寺請制度、いわゆる檀家制度を設け、すべての領民をいずれかの寺院に帰属させた。寺院がすべての冠婚葬祭を取り仕切った。領民の住む近くに寺院が次々に建てられて行った。三陸では江戸時代以降も何度も津波に襲われているが、他の地方、特に若狭湾では江戸時代以後には大きな津波に襲われたことはない。しかし、それ以前には確実に津波が襲来している。江戸時代に建てられて行った寺院は津波に見舞われていないため、海岸からの距離を考慮されずに建てられているものが多い。しかし、神社は宗教的にも長い歴史があり、古くからの津波の伝承もあるため、若狭湾付近の神社であっても古くからのものは高台に建つ。敦賀短期大学の外岡慎一郎教授が「敦賀短期大学紀要」26号に書かれた『「天正地震」と越前・若狭』では1586年に起きた天正地震による津波で越前と若狭が受けた被害状況を京都吉田神社の神主吉田兼見が残した『兼見卿記』や30余年間イエズス会宣教師として織田信長の厚遇を受けながら日本に滞在したルイス・フロイスの書簡などの古文献から読み取り、津波が甚大な被害をこの地域にもたらしたことを明らかにされた。745年にもこの天正地震と同じ震源地と考えられている濃尾平野の境界域にある養老断層によると考えられる天平地震が起きており、続日本紀巻第十六には当時の地震による被害が記されている。同じく第二巻には701年からの大宝年間に丹波国で地震が続いたことなどが書かれている。若狭湾に面した京都府宮津市の天橋立に近い元伊勢籠神社の奥宮である山中の真名井神社は伊勢神宮以上の古さがある興味深い神社だが、そこには「波せき地蔵」と言われる地蔵が安置されており、「昔大宝年間(約一三〇〇年程以前)大地震の大津波が押し寄せたのをここで切り返したと伝えられ・・・」と書かれている。その位置は標高60mにもなるという。去る8日読売新聞は大飯原発3、4号機で、敷地内を通る「破砕帯」と呼ばれる断層について「活断層の可能性が否定できない」との調査結果が出たことを伝えている。東洋大学渡辺満久教授と名古屋大学鈴木康弘教授が調査された。これについて原子力安全委員会の班目春樹委員長は「最新の知見が出たなら、原子力安全・保安院で評価をしっかりやり直すべきだ」と述べているにもかかわらず、地質学の専門家でもない経済産業省原子力安全・保安院の森山善範原子力災害対策監が、即座に「断層の上にある地層は変形しておらず、活動性はない」と否定している。どの部署よりも安全性について厳しくあるべき職務にありながら、これでは全く本来の業務を放棄している発言としか言いようがない。第二の福島原発事故が起きるのは時間の問題でしかないだろう。
芥子(けし)の花 ポピーと呼ばれているが
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