釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

倭国と日本国

2014-09-30 19:18:08 | 歴史
今日も秋晴れのいい一日となった。最高気温は25度に達した。しかし、明日は20度ほどの予想になっている。最低気温も10度ほどのようだ。やはり一日晴れの予想のようだ。今日もよく晴れたが、最近の晴れの日は日中に夕方近くになると雲がたくさん流れるようになることが多い。もう釜石ではまったくセミの声を聴くことがないが、先日内陸の彼岸花を見に行った時にはまだ内陸ではツクツクボウシやミンミンゼミが鳴いていた。やはり平均気温は内陸の方が釜石より高いのだろう。 1784年筑前国那珂郡志賀島村で、水田の耕作中に金印が発見され、那珂郡奉行を通して福岡藩へ渡り、明治維新後に福岡藩主黒田家より東京国立博物館に寄託された。これが教科書にも載った『漢委奴國王』金印である。金印は3行に分けて刻されている。『漢 委奴 國王』となっている。東京高等師範学校教授、考古学会会長などを務めた明治の三宅米吉によって、「漢の倭(委)の奴(な)の国王」と訓じられ、「奴」は儺津(なのつ)・那珂川の「ナ」で、倭の「奴国」を現在の那珂川を中心とする福岡地方に比定したことが通説となった。福岡藩主の儒医で藩学問所の学長でもあった儒学者亀井南冥が発見された金印は『後漢書』東夷伝に載る「建武中元二年(西暦57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」の記述にある印であることを説いた。しかし、古田武彦氏は『三国志魏志倭人伝』の行路記事を『三国志』の表記法の示す通り解読すれば、それは糸島郡の平野部にあたるとし、さらに中国の印分を調べて、通説のように「漢の倭の奴の国王」と三段に読むものはなく、すべて二段読みになっていることを明にされた。すなわち「漢の委奴國王」と読むべきとされた。国名は従って「奴國」ではなく「委奴國」である。漢の外縁には当時「匈奴」がいた、その匈奴に対しての「委奴」なのだと言う。「匈奴」の「匈」は、「たけだけしい、さわがしい」という意味であるのに対して、「委奴」の「委」は、「したがう、すなお、おだやか」という従順を意味する。「後漢の光武帝の生涯の大半は、宿敵匈奴との確執に明け暮れた。これに対して、東方の倭人百余国の統率者は、みずからすすんで遣使奉献してきた。すなわち、北と東の両部族は、漢にとって、反と服、相反する性格をもって映じていた」とされる。旧唐書 倭国・日本国伝には「倭国とは、古の倭奴国なり。」とある。すなわち、金印を受けた「委奴國」は後の倭国だとする。そして、この倭国と日本国は別だと明記している。「日本国は、倭国の別種なり。」として、唐側はその日本国から来た使者を「そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。」としている。倭国は「山島に依って暮らす。」「四面の小島、五十余国、皆、これに附属している。その王姓は阿毎氏、」と記し、日本国は「東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。」と明確に違いを述べている。さらに、隋書 イ妥(たい)国伝でも「開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤」と記し、「阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。」とある。要するに倭国は日本国とは異なり、阿蘇山のある国であり、王の姓は阿毎だと述べている。これが古田武彦氏の言う九州王朝である。そして日本国は「日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。」とあり、これがまさに近畿の新たな王朝なのだ。旧唐書や隋書を素直に読めば、倭国は明らかに九州中心であり、日本国は白村江の戦いで自らの兵を引き上げさせて、力を温存し、戦いに敗れて弱体化した倭国を併合して新たに興した国であり、それを中国にまで繕って報告したために中国から不実な態度として見られたのだ。中国書は倭国はかっての「委奴國」以来中国に朝貢して来た国だとする。そして、日本国はそれとは別だとはっきり述べている。
色付く蔦の葉

高まる富士山噴火の可能性

2014-09-29 19:15:40 | 自然
今日も西の愛染山はくっきりとした姿を見せてくれた。日中もよく晴れた秋のいい天気になった。最高気温は相変わらず23度程度で、朝方には14度まで下がっている。一日の気温差が10度近くあるため風邪を引く人もいる。しかし、昼の日射しそのものはまだ強い。日射しの中を歩くと汗ばんで来る。ただ木陰に入ると、さすがに秋の気持ちの良い風が吹く。 今年は7月20日には東日本に雷を伴った猛烈な雨が降り大雨となり、8月15日から20日にかけては西日本や広島に記録的な大雨による被害が続出した。そして今月11日には50年ぶりと言われる豪雨が北海道を襲った。そんな中で、27日には標高3,067 mの長野県と岐阜県にまたがる御嶽山が噴火し、犠牲者を出した。御嶽山は過去1万年の間に4回のマグマ噴火と12回の水蒸気爆発が起きている。近年では1979年に水蒸気爆発が、その後は1991年と2007年、2008年にいずれも小規模な噴火が観測されただけである。しかし、独自の理論で地震や火山噴火を予測されて来た木村政昭琉球大学名誉教授はこの御嶽山の噴火についても自著『東海地震も関東大地震も起きない!』(2013年刊)で2013年±4年として噴火の時期を予測されていた。同名誉教授の最新予測では富士山の噴火は2014年±5年となっている。M8.5以上の地震予測は5カ所に出ており、北から北海道根室沖が2010年±5年、岩手県沖2019年±5年、伊豆の遥か沖合が岩手沖が'2012年±5年、四国よりの鹿児島県沖が岩手沖が'2014年±5年、沖縄の南が岩手沖が'2020年±5年となっている。富士山の噴火については元前橋工科大学教授の濱島良吉氏も火山性の小規模地震が発生した箱根の状況から昨年3月その可能性を指摘していた。ただ、木村名教授とは異なり、同氏は首都圏直下型地震も予測されており、それらの危険性から、すでに日本を脱出し、マレーシアに移住されておられる。同氏はやはり岩手県沖と房総沖の地震も可能性を指摘されておられる。また同氏は2015年までに富士山の噴火と同時に首都圏直下型の地震が発生すると見ておられようだ。7月15日付の英紙『The Guardian』はフランス「地球科学研究所(IST)」の研究の結果、2011年の東日本大震災以降、富士山は"危機的状況にある"としていることを報じている。ISTは日本の独立行政法人「防災科学技術研究所(NIED)」が公開する「Hi-net 高感度地震観測網」のデータを使って、地球内部のエコースキャン測定した。その結果、2011年の東北地方太平洋沖地震で最もダメージを受けたのは東北地方の地殻ではなく、富士山の地下400kmを初めとする火山帯であることが判明したと言うのだ。地下のマグマの圧力が上昇して臨界状態にあると言う。プレート境界で生じた巨大な歪みは他のプレート境界い新たな歪みをもたらしたり、地殻での圧力を強めて、内陸の断層での歪みをももたらし、地下のマグマにも大きな圧力を加えることになる。
今も咲く我が家の彼岸花

秋の始まった一日

2014-09-28 20:05:53 | 自然
今朝は西を見ると、雲がまったくなく、愛染山がくっきりと見えていた。秋晴れの素晴らしい朝だった。庭ではまだ彼岸花が咲いてくれている。紫式部は日増しに一層紫に色付いて来ている。昼過ぎに近所をのんびりと個人の庭先に咲く花を見ながら歩いてみた。近くの公園の仮設住宅でも天気がいいので、洗濯物や蒲団などを干していた。その公園の桜の木も葉が色付いて来ている。ホトトギスの花をも咲いており、金木犀や銀木犀の香りが漂っていた。秋桜はあちこちに咲いていて、風に揺れて、まだ強めの日差しを受けていた。小菊もたくさんの家が植えている。古い人のいない家の家壁には紅く染まった蔦の葉も見られた。釜石独特の小粒の柿も色付いて来ている。もう秋が始まっていることが一目で分かる。夕方には夕焼けが空を染めて、愛染山の山頂に薄くかかる雲が染まって、まるで赤富士のように見えていた。
家の塀の蔦

仮設住宅の桜

甲子川堤の秋桜

いい香りを漂わせていた金木犀


女性が就労するための環境の遅れ

2014-09-27 19:19:55 | 社会
今朝は雲が空を覆って、愛染山が見えなかったが、その後少しづつ青空が広がり、秋らしいいい天気になった。庭の塀に伸びた蔦の葉にも紅い色が見られるようになって来た。甲子川の堤や公園に咲く秋桜が風に揺れて、とても風情を感じさせてくれる。 昨夜は久しぶりに職場の一部署のいわゆる飲み会に出席させてもらった。初めてその部署の集まりに出席した。しかも宴席のあった店も初めて店で、釜石にこんなお店があったことを知らなかった。職場のすぐ近くで、いつもその店のそばを通っていたが、表と中ではまるで別で、中に入ると、とても釜石にいるとは思えない錯覚を覚えた。それは今年開店したイオンにいる時と同じだ。イオンの中を歩いている時にも、やはり釜石にいることを忘れてしまいそうになる。震災後、職場も慢性的に人手不足になっている。そんな中で、かなり遠方の出身者も新しく職場には入って来てくれている。昨日も、出席していた人の中に福岡や秋田出身の人がいた。いずれもご主人の転勤で大船渡や釜石へ今年やって来れられた人たちだ。職場には他にも知っているだけで、東京や神奈川から来られた人たちもいる。震災で釜石はじめ沿岸部は働き盛りの人がずいぶんいなくなってしまった。他府県からやって来てくれた人たちに助けられて、何とか維持出来ているが、その人たちもいつまでもいてくれるわけではない。しかも、現状はまだまだ人手が足りないのだ。女性の働き手が多い職場だが、それを考えても、女性の働く場がまだまだ女性にとって働きやすい環境にはなっていないことをあらためて感じる。子育て世代が働くにはあまりにも負担がまだまだ大きいのだ。人の話だが、3人の乳幼児をかかえた若い母親が働きたくとも現実には受け入れてくれる職場がないと言う。仮に保育所に預かってもらっても、子供が熱をだしたりすると、職場から抜けることが、ほんとんどの職場では困るため、採用にならないと言う。少子化の時代に3人もの子供を育ててくれている人を大事にする制度がないことに疑問を持つ。しかも、これからは就労可能な人の数も減って行くのだ。女性を積極的に就労可能な環境に早く整備して行かなければならいないはずなのだが。被災地では特にそうした問題が顕著に出ているように思う。
庭の梅鉢草

天照以来の九州王朝

2014-09-26 19:18:36 | 歴史
今日は昨日と打って変わって、朝から素晴らしい秋晴れとなった。しばらく長く続いた晴天の後の昨日の雨なので、庭の花たちにはとてもいい雨であったが、やはり秋は晴れた青空を見るのがいい。秋桜があちこちで風に揺れていた。まだ百日紅の花が咲くところもある。今朝庭を見ると、紫式部の実がずっと色付き、その鮮やかな紫が目に入った。この紫式部には例年カラ類やジョウビタキのような野鳥たちがやって来る。そして、その紫の小さな実を一つ一つ啄んで行く。 人は誰もがいつかはこの世を去って行く。年とともにその観を強くする。そのためか、自分の生きて来たこの国のことをあらためて強く知りたくなって来る。日本と言う国がいったいどんな国なのか。歴史を辿るとどうしても各地で祀られる天照(あまてらす)を無視出来ない。古来の日本の統治者であったとされる天皇家には三種の神器が伝わる。天照は天孫降臨に際し、孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に「八尺の勾璁(やさかのまがたま)、鏡、草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を授けた。対馬、壱岐に中国浙江省寧波(にんぽう)からやって来た天照たちは北部九州の日本最古の水稲地帯である福岡平野の板付遺跡や菜畑遺跡、野多目遺跡、早良平野の橋本一丁田遺跡地帯を孫のニニギに侵略させた。その時に三種の神器あるいは宝物をニニギに神代として与えた。壱岐の原の辻遺跡からは最古の鏡、玉、剣の三種の神器が発掘されている。侵略後の北部九州では吉武高木遺跡、三雲遺跡、須玖岡本遺跡、井原遺跡、平原遺跡でまさにその三種の神器がそろって見出されている。近畿ではそれらがそろって見出された弥生時代の遺跡はない。さらに九州ではそれらの三種の神器発掘地帯を取り巻くように二種や一種の神器の見出される遺跡がある。大規模な弥生時代の三大環濠遺跡(かんごういせき)壱岐の原の辻遺跡、佐賀県の吉野ヶ里遺跡、福岡県朝倉市の平塚川添遺跡でさえも三種の神器はそろっておらず、これらは先の三種の神器地帯を守る形で築かれている。「俾弥呼(ひみか)」の「邪馬壹国(やまいちこく)」もこの博多湾岸地帯の三種の神器地帯にあった。福岡県の太宰府には「字紫宸殿」や「字内裏(だいり)跡」「朱雀門」の字地名も残されており、「字大極殿」の地名が残されていた京都府で長岡京が発掘されたように、太宰府もやはり王朝の中心地であったのだ。地元では「都府楼跡(とふろうあと)」、「都督府古址(ととくふこし)」などとも呼ばれ、中国唐の属国支配の統治機構である。白村江の戦いで敗れた九州王朝の首都であり、まさに進駐軍の指揮官として唐の郭務悰かくむそう)が駐留した。日本書紀にすら名の出ない柿本人麻呂はまさにその白村江の戦いの時代に九州王朝の臣下として生きていた。古代史にはしばしば荒唐無稽な説が現れ、とても検証に耐えないものも多い。しかし、古田武彦氏の探求した九州王朝説は遺跡や発掘物との整合性を持ち、しかも地元の伝承にも密着し、そこからも史実を掘り起こされている。むしろあまりにも非科学的な日本の考古学や歴史学に光さえ与えていると言ってもいいほどだ。
朝露の紫式部

釜石の人口流出

2014-09-25 19:16:22 | 社会
昨夜から雨が降り続け、夕方近くになりようやく止んで来た。最高気温はここのところずっと23度程度が続く。夜は気温がずっと下がるようになった。虫たちがあちこちで鳴くことも日常的になってしまった。街路樹のナナカマドの実も色付いて来ている。もう後わずかで9月も終わり、本格的な秋の10月を迎えることになる。
釜石は震災以前から1960年の人口87,511 人を最多として、以後人口が減り続けて来た。震災の前の年の2010年の国勢調査では39,578人まで減少し、さらに震災から3年を過ぎた今年8月1日の推計人口は35,852人となり、4,000人近くが減ってしまった。震災による釜石市の死者・行方不明者は合わせて1,141人になる。従って、およそ3,000人ほどが釜石から出て行ったことになる。産業的にはかっては「鉄と魚の街」と言われ、第 1 次産業と第 2 次産業で栄えていた。しかし、1965年には第 2 次産業と第 3 次産業の比率が逆転し、2005年には第 3 次産業が6割を超えている。もうすでに「鉄と魚の街」ではなくなってしまった。全国的に地方では郊外型の大型店舗が進出し、古くからの商店街が集客力を失い、旧商店街は廃れてしまっている。釜石もその例にもれず、旧商店街は集客力を失って来ていたところへ、津波が襲った。助かった旧商店主には仮設商店街で頑張っている人たちもいるが、そこでも集客は芳しくはない。本年4月から大型店舗のイオンが開店したが、このイオンも圧倒的に人手不足に陥っている。国からの補助金でまだ3~4年は高目の時給で人材を募集出来るにもかかわらずだ。十分な人手が確保出来ず、中の店舗数も限られるせいなのか、平日日中の客足も芳しくない。地元ではこのイオンさえもがいつまで持つか疑問を持つ人もいる。期限が延長されて現在も被災者の多くが仮設住宅に住んでいる。市内では復興住宅も遅れて入るものの建設が始まっている。しかし、それがたとえ完成しても入居者は100%にはならない。収入源を断たれた仮設住宅の人たちは家賃の発生する復興住宅へは入れない人もいる。さらに、現在釜石の地価は信じられないような高騰ぶりだ。海岸から5~6Km離れた津波からは安全と見られる住宅街が、愛媛県の松山の実家辺りと変わらない価格になっている。当然家賃も高騰し、そのため、同じ職がないのであれば、釜石を離れて、家賃や地価の安い内陸へと移って行く人たちがいる。高齢化率も震災前にはすでに35%近くになっており、現在はおそらく40%を早くも超えているのではないだろうか。平地の限られた釜石は地価の高騰で人口を流出させてしまっている。そして、問題は広大な土地を製鉄所がいまだに持っており、十分に活用されていないことだ。この土地が放出されれば、釜石の地価は本来の姿に戻るだろう。職と土地が今後も釜石の人口減に拍車をかけることになるように思われる。
リンゴも色付いて来た

虚妄の日本史

2014-09-24 19:21:38 | 歴史
今日も気温は昨日と変わらなかったが、昨日と違って一日空を薄い雲が覆っていた。空気はもうすっかり秋の空気で、とても気持ちがいい。これで晴れていれば一層気持ちが良かっただろう。日が射さないせいで、夕方も早く暗くなって来た。夕方、甲子川沿いの土手を歩いても、もう暗くなって来たせいか釣り人の姿も見ることがなくなった。しかし、ここ数日は夕方から夜にかけてよく鹿の鳴く声を聴くようになって来た。 日本の歴史の最大の虚妄は有史以来現在まで天皇家が日本を統治して来たと言うことだ。それをあたかも事実であるかのように偽ったのが古事記と日本書紀だ。その古事記を疑わないばかりか、それをさらに正当化させた江戸時代の本居宣長に従い、都合良く神話部分のみを否定した津田左右吉に従っているのが現在の日本の歴史学である。この日本の歴史に疑問を呈したのが古田武彦氏だ。緻密な分析と現場を丁寧に歩き、そこに残された伝承も掘り起こされて、近畿の王朝以前に北部九州を中心とする九州王朝の存在を明らかにされた。古事記、日本書紀の神話の中心舞台は壱岐島、対馬であることを現地の神社や遺跡、地名から明らかにされている。壱岐島には「天ヶ原」があり、天ヶ原遺跡からは弥生時代の銅矛などが出土している。また島内には三重以上の環濠を持つ弥生時代の原の辻遺跡も見られ、5世紀から7世紀にかけては巨大な円墳が338基も設けられていた。また、壱岐には壱岐国一の宮であった天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)があり、天照の子である天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)やさらにその子であり、ニニギの兄とされる天照国照彦天火明命(あまてるくにてるひこあまほのあかりのみこと)などが祀られている。そして対馬にはまさに式内社である阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)がある。ニニギが北部九州の稲作地帯を侵略して、そこに王朝が打ち立てられた。それが通称邪馬台国と称される「邪馬壹国(やまいちこく)」に繋がり、さらには倭の五王、通説では妻がいるにもかかわらず女帝である推古天皇とされる「日出ずるところの天子」、多利思北孤(たりしほこ)へと続く九州王朝である。鏡・玉・剣と言う三種の神器が見出されているのは北部九州の遺跡に集中しており、近畿からは出ていない。663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたのは九州王朝である倭国であり、そのため、倭国は衰退し、それに代わって権力を持ったのが近畿の王朝、日本国である。歌聖と言われる柿本人麻呂は古事記にも日本書紀のも名前が出ない。出自も明ではないが、万葉集では「柿本朝臣人麻呂」と記されている。「朝臣」は臣下では最高の位である。その人麻呂が何故日本書紀にも名が出ないのか、出自が不明なのか。人麻呂は倭国、九州王朝の臣下であったからだ。古田武彦氏は万葉集の人麻呂の歌を分析し、672年の壬申の乱で天智天皇(中大兄皇子)の子である大友皇子と戦って亡くなった天武天皇(大海人皇子)の長男である高市皇子のために人麻呂が詠ったとされている歌は、白村江の戦いの半年前の朝鮮半島での陸戦で敗れた九州王朝の明日香皇子を詠ったものだとされた。壬申の乱は夏に戦われており、人麻呂の歌が冬から初春にかけての情景を詠っていて、季節が合わないことを指摘されている。福岡県朝倉市の麻氐良布神社(まてらふじんじゃ)に明日香皇子が祀られている。人麻呂は大雪の中で指揮をとった明日香皇子の姿を詠っている。九州王朝の存在を隠すために古事記や日本書紀が書かれ、人麻呂の歌も利用されているが、無理なところには必ず綻びが出て来るものだ。
高砂百合と彼岸花

国見山山麓

2014-09-23 22:02:29 | 文化
今日は今秋初めてモズの鳴く声を何度か聴いた。日中の最高気温は23度だが、もう朝晩は20度を下回り、長袖でも少し肌寒さを感じるようになった。今日は彼岸の日で昼夜の時間が同じだ。明日からは夜の時間が長くなる。タイミングが限られるので、今日は岩手で彼岸花が一番群生していると言われる北上市の如意輪寺へ行くことにした。釜石は青空が広がっていたが、北上に近づくにつれて、空は霞がかかったようにようになって来た。ナビに従って、車を進めて、以前来た時の記憶がもう残っていないことに驚いた。境内にはしかし、以前と同様にたくさんの彼岸花が咲いていた。人も次から次へとやって来る。如意輪寺は平安時代に国見山山麓一帯に栄えた極楽寺の一部だと言われ、付近には大々的な寺院の跡が散在している。この「国見山」と言う名前が前々から気になっていた。全国にもいくつか同名の山があるが、東北ではこの北上にしかない。どれほどの眺望なのか興味があったので、ついでに登って見ることにした。標高244mほどの山だが、普段山を登り慣れていないので、いざ登ってみるとかなりきついものになった。登山道の途中にはいくつもの仏像が安置されている。頂上に近づくと、「胎内潜り」がる。この山は北上山系で唯一火山性の山だそうで、「胎内潜り」も溶岩で出来ている。山頂もまさにその溶岩がむき出しになっていて、その上に展望台が設けられていた。登り切るとさすがに汗が流れたが、誰もいないその展望台にはとても気持ちのいい風が吹いて、しばらくはそこからの眺望を楽しみながら休んでいた。その名の通り、北上平野全体を見渡せるとても素晴らしい眺めだ。北上川の流れが輝いて見えた。おそらく、かってはこの北上平野を治めた人の国が見渡せることから名付けられたものなのだろう。そして、その治めた人が問題なのだが。この国見山のかっての廃寺は9世紀に創建されたものと推定されている。そして、例の坂上田村麻呂との関連付けなども見られる。こうした遺跡はみんな大和朝廷と結びつけて語られてしまうものだ。
如意輪寺の彼岸花の群生

天上の花

溶岩で出来た国見山の「胎内潜り」

頂上の展望台も溶岩の上に設けられている

展望台から見た北上市の市街地

訪れて来た秋に

2014-09-22 19:15:43 | 文化
晴天が続き、気持ちの良い週末を過ごし、近在の秋の祭りを見逃してしまった。職場に出て、その話を聞いて、とても残念な思いをした。内陸でしか見られないと思っていた鹿踊も大槌町でも見られることを知った。岩手の鹿踊はとても魅力的だ。例年は遠野の祭りでそれを見て来た。しかし、その遠野祭りもこの週末にあったようだ。遠野祭りは鹿踊や流鏑馬ばかりでなく、明らかに京都の祭りの影響を受けたと思われる衣装がとても華やかで、見応えがある。遠野南部藩の江戸時代に始まったと思われる祭りなのだが。遠野のふるさと村のようにかっての日本の農村風景がそのまま見られることもあって、祭りと合わせて、ほんとうに遠野は日本の原風景をよく残してくれている。ただ、ふるさと村の唯一の不満は季節の花が規模の割に少ないことだ。ふるさと村の広大な敷地にこそ日本古来の花たちが似合う。この時期だとやはり一面に真っ赤な彼岸花が咲いてくれると、一層、田園風景が映えて来るだろう。せっかく岩手は植物に適した気候を持ち、自然溢れる広い土地があるにもかかわらず、まとまってたくさんの花が見られるところがない。産直では個人の育てた多くの山野草が売られているにもかかわらずだ。岩手にはそうした古来の花たちと各地に残された民俗芸能や祭がとてもふさわしいのだが、残念にもそれを理解する人が少な過ぎる。灯台下暗しと言うことなのだろうか。
近所で拾った秋

すっかり秋になってしまった

2014-09-20 19:14:40 | 自然
9月もあっと言う間に半ばを過ぎてしまい、最近は朝夕の気温がもうすっかり秋の気温になってしまった。今朝も秋晴れのいい天気になり、日中に一時は雲がたくさん流れたが、まったくの曇天にはならず、夕方にはきれいな夕焼けを見ることが出来た。今日も午後にはいつものごとくSL銀河が汽笛を鳴らして、釜石へやって来た。毎週やって来るこのSLもずっと先まで予約で一杯のようだ。子供には珍しく、大人には郷愁を誘うものがあるからだろう。日中よく晴れてもいつの間にかセミが鳴かなくなってしまった。夕方、犬と甲子川の土手を散歩していても汗が流れなくなり、早くなって来た夕暮れの中で、渡りをしないで、留まったカルガモたちが緩やかな流れにまかせて何羽も漂う姿をよく見かける。時々、物悲しく鳴く鹿の声も聞こえて来る。
秋風に揺れていたススキ