今日も秋晴れのいい一日となった。最高気温は25度に達した。しかし、明日は20度ほどの予想になっている。最低気温も10度ほどのようだ。やはり一日晴れの予想のようだ。今日もよく晴れたが、最近の晴れの日は日中に夕方近くになると雲がたくさん流れるようになることが多い。もう釜石ではまったくセミの声を聴くことがないが、先日内陸の彼岸花を見に行った時にはまだ内陸ではツクツクボウシやミンミンゼミが鳴いていた。やはり平均気温は内陸の方が釜石より高いのだろう。 1784年筑前国那珂郡志賀島村で、水田の耕作中に金印が発見され、那珂郡奉行を通して福岡藩へ渡り、明治維新後に福岡藩主黒田家より東京国立博物館に寄託された。これが教科書にも載った『漢委奴國王』金印である。金印は3行に分けて刻されている。『漢 委奴 國王』となっている。東京高等師範学校教授、考古学会会長などを務めた明治の三宅米吉によって、「漢の倭(委)の奴(な)の国王」と訓じられ、「奴」は儺津(なのつ)・那珂川の「ナ」で、倭の「奴国」を現在の那珂川を中心とする福岡地方に比定したことが通説となった。福岡藩主の儒医で藩学問所の学長でもあった儒学者亀井南冥が発見された金印は『後漢書』東夷伝に載る「建武中元二年(西暦57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」の記述にある印であることを説いた。しかし、古田武彦氏は『三国志魏志倭人伝』の行路記事を『三国志』の表記法の示す通り解読すれば、それは糸島郡の平野部にあたるとし、さらに中国の印分を調べて、通説のように「漢の倭の奴の国王」と三段に読むものはなく、すべて二段読みになっていることを明にされた。すなわち「漢の委奴國王」と読むべきとされた。国名は従って「奴國」ではなく「委奴國」である。漢の外縁には当時「匈奴」がいた、その匈奴に対しての「委奴」なのだと言う。「匈奴」の「匈」は、「たけだけしい、さわがしい」という意味であるのに対して、「委奴」の「委」は、「したがう、すなお、おだやか」という従順を意味する。「後漢の光武帝の生涯の大半は、宿敵匈奴との確執に明け暮れた。これに対して、東方の倭人百余国の統率者は、みずからすすんで遣使奉献してきた。すなわち、北と東の両部族は、漢にとって、反と服、相反する性格をもって映じていた」とされる。旧唐書 倭国・日本国伝には「倭国とは、古の倭奴国なり。」とある。すなわち、金印を受けた「委奴國」は後の倭国だとする。そして、この倭国と日本国は別だと明記している。「日本国は、倭国の別種なり。」として、唐側はその日本国から来た使者を「そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。」としている。倭国は「山島に依って暮らす。」「四面の小島、五十余国、皆、これに附属している。その王姓は阿毎氏、」と記し、日本国は「東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。」と明確に違いを述べている。さらに、隋書 イ妥(たい)国伝でも「開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤」と記し、「阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。」とある。要するに倭国は日本国とは異なり、阿蘇山のある国であり、王の姓は阿毎だと述べている。これが古田武彦氏の言う九州王朝である。そして日本国は「日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。」とあり、これがまさに近畿の新たな王朝なのだ。旧唐書や隋書を素直に読めば、倭国は明らかに九州中心であり、日本国は白村江の戦いで自らの兵を引き上げさせて、力を温存し、戦いに敗れて弱体化した倭国を併合して新たに興した国であり、それを中国にまで繕って報告したために中国から不実な態度として見られたのだ。中国書は倭国はかっての「委奴國」以来中国に朝貢して来た国だとする。そして、日本国はそれとは別だとはっきり述べている。
色付く蔦の葉