ここでは、「題詠マラソン2005」に出詠されている短歌の中から、
私が「いいな~」と思った歌を、お題ごとに紹介しております。
あくまでも、素人の私が「いいわ~」「好きだわ~」という基準で
選ばせて頂いております。
以下、出詠者のお名前は敬称を略させて頂きますことを
あらかじめご了承くださいますよう、お願い申し上げます。
「033:魚」から
★ワタルからは来ない賀状をしたためる そら飛ぶ魚の噂を添えて (鈴木貴彰)
( http://blog.goo.ne.jp/monjiros/ )
ほ:返事が来ないことが続いていても、つい年賀状を出してしまう友人がいます。
住所が変わってしまったのか、戻ってきてしまうこともあるのに。
あるいは、もうこの世にはいないのかもしれないと思わせる表現です。
年賀状を書くという行為そのものが、その人を思い出すことでもあり、
自分の思い出を懐かしむことでもあるのでしょう。
目を開かない魚のうわさを聞いて、授業が終わるのも待ち遠しく教室を
飛び出したあの日のように、そら飛ぶ魚の噂を知ったらワタルはどんな
反応をするだろう。子供の頃にもどったように、一緒に探しに行こうと
言ってくれるんじゃないのか。あいつの顔が眼に浮かぶようだ。
そんなことを思いながら…。
★無精卵抱いてしずかに滅びたい魚鱗のような雨の降る道 (丹羽まゆみ)
( http://b1.jaxy.net/d/index.php/b422907263bbc3 )
ほ:もう子供を授かることはないと心に誓っているのでしょうか。
それでも、女性の身体には数え切れないほどの無精卵を抱えています。
このまましずかに滅びたいという思いで、雨の中を歩いている
寂しい気持ちが痛いほどに伝わってきます。
「魚鱗のような雨」の中、おそらく傘もささずに濡れながら、きっと
泣きながら歩いているのでしょう。
しかし、上の句の「無精卵抱いてしずかに滅びたい」という言葉には
はっきりとした意志があり、寂しい中にも強さが見えます。
悲しい・寂しいという気持ちに溺れていないところが素敵だと思いました。
★煮魚を骨だけ残し平らげる箸の捌きに見惚れる淫ら (落合朱美)
( http://www4.ocn.ne.jp/~siesta07/ )
ほ:魚をキレイに食べる人の箸の動きは素敵だと思います。
育ちもよく、きっと何をするにも丁寧なのだろうなと思えます。
「見惚れる淫ら」は、表現がストレート過ぎる気もしますが、
ちょっと面白いなと思ったので、とりあげさせて頂きました。
★あいまいな笑みをうかべてどちらにもなれないままの半魚人たち (みあ)
ほ:「あいまいな笑みをうかべてどちらにもなれないまま」というのが、
なんだか日本人ぽくて、切ないなぁと思いました。
どっちつかずの曖昧な態度しかとれない人がたくさんいますね。
自分もそうかもしれません。
「人魚」ではなく、「半漁人たち」としているところが好きです。
★瞼を閉じる事もなく世界が終わるのを凝視する魚の目 (渡部律)
( http://blog.goo.ne.jp/ura_kuroneko/ )
ほ:魚を捌くとき、わたしは「魚の目」を怖いと思います。
血が出るとか、内蔵がどうとかではなく、目を見開いたままなのが怖い。
何かを思っているように見えるからです。
「世界が終わる」ときも、魚たちは目を見開き続けるのでしょう。
初句から第二句へ、第三句から第四句へ、第四句から結句へ、
リズムの跨りがあるのですが、一首全体で三十一音になっています。
五七五七七のリズムに合わせて読もうとすると、途切れ途切れに感じます。
しかし、詠っている内容が「世界が終わるのを凝視する魚の目」だけに、
この妙なリズムが、意識が切れ切れになってゆく魚の断末魔に思えて
とても面白い表現だなと思います。
ただ、短歌として意識せずに読んでしまうと、「魚の目」を説明するための
散文にも見えてしまうという点が、ちょっとだけ残念でした。
★魚水から魚爛へのとき いもうとともう呼べはしないひととおとうと (鈴木英子)
ほ:「魚水」は、親密な間柄のこと。
「魚爛」は、魚が爛(ただ)れて腐るように物事の潰敗(かいはい)するさま。
「いもうとともう呼べはしないひと」は、弟さんのお嫁さんだった人でしょう。
人のつながりというのは全く不思議なもので、ある人と結婚することによって
それまで他人だった人とも、親子になったり兄弟姉妹になったりするわけですが、
その縁が切れてしまうと、親子、兄弟姉妹の関係も切れてしまうのでしょうか。
まったく不思議なことですよね。
「魚」というお題から、よくこういうテーマをお詠みになったものだと、
それがまたすごいなと思いました。
★骨のない魚が愚痴る今日もまたつまらぬ餌がぶらさがってる (やまね)
ほ:「つまらぬ餌」に愚痴っている魚の方も「骨のない魚」だという。
なんとも皮肉で、面白いお歌ではありませんか。
「骨のない魚」の具体も、「つまらぬ餌」の具体も、わからないのですが、
どうも私はこういうお歌が好きなのです。
できれば、何についての風刺なのか、作者の方に伺ってみたいと思いました。
★太刀魚か立ち魚なのか争うを寿司屋は鼻で笑って握る (のぶれば)
ほ:このお歌も面白いです。
「太刀魚」なのか「立ち魚」なのか、お寿司屋さんのカウンターで
お客さんたちが議論を始める。それをお寿司屋さんのおやじさんが
「ふん」と鼻で笑いながら、寿司を握っている。
「お客さん、んなこたぁ~どうでもよござんしょ。
タチウオを漢字でどう書こうが、そんなこたぁ問題じゃありやせん。
わしの握る旨い寿司を、どうぞ召し上がっておくんなさいよ。」
そう思っているのでしょうか。
「まったく、物事の本質も見極められねぇくせに、表面の字面だけに
こだわるやつが多すぎて、やってられねぇよぉ。」
と、呆れているのでしょうか。
「寿司屋は鼻で笑って握る」という表現が、いかにも威張っている
寿司屋さんっぽくて、面白いなと思いました。
(いやいや、全部のお寿司屋さんが威張っているわけでありません。)
★黒字の「ほ:~」の部分が私の感想です。
こちらでご紹介する短歌は、私がとても「良い」と思ってピックアップし、
そういう気持ちを前提に感想を述べております。
私の言葉が足りなかったり、私の表現がへたくそであったりするために、
作者の方が不愉快に思われることも、もしかしたら、あるかもしれません。
しかし、こちらでご紹介した作品に対して、批判の気持ちは決してないということを、
どうぞご理解くださいますよう、お願い申し上げます。
もし、何かお気づきの点、ご意見などがございましたら、
どうぞご遠慮なくコメント欄へお書き下さいませ。
他のお題からのピックアップ「いいわ~。この歌♪」は、
カテゴリー「★題詠マラソン感想(2005)」からご覧下さい。
私ほにゃらかの歌は、カテゴリー「★題詠マラソンのお題で短歌」か、
カテゴリー「★ほにゃらかの短歌」などをご覧下さい。
私が「いいな~」と思った歌を、お題ごとに紹介しております。
あくまでも、素人の私が「いいわ~」「好きだわ~」という基準で
選ばせて頂いております。
以下、出詠者のお名前は敬称を略させて頂きますことを
あらかじめご了承くださいますよう、お願い申し上げます。
「033:魚」から
★ワタルからは来ない賀状をしたためる そら飛ぶ魚の噂を添えて (鈴木貴彰)
( http://blog.goo.ne.jp/monjiros/ )
ほ:返事が来ないことが続いていても、つい年賀状を出してしまう友人がいます。
住所が変わってしまったのか、戻ってきてしまうこともあるのに。
あるいは、もうこの世にはいないのかもしれないと思わせる表現です。
年賀状を書くという行為そのものが、その人を思い出すことでもあり、
自分の思い出を懐かしむことでもあるのでしょう。
目を開かない魚のうわさを聞いて、授業が終わるのも待ち遠しく教室を
飛び出したあの日のように、そら飛ぶ魚の噂を知ったらワタルはどんな
反応をするだろう。子供の頃にもどったように、一緒に探しに行こうと
言ってくれるんじゃないのか。あいつの顔が眼に浮かぶようだ。
そんなことを思いながら…。
★無精卵抱いてしずかに滅びたい魚鱗のような雨の降る道 (丹羽まゆみ)
( http://b1.jaxy.net/d/index.php/b422907263bbc3 )
ほ:もう子供を授かることはないと心に誓っているのでしょうか。
それでも、女性の身体には数え切れないほどの無精卵を抱えています。
このまましずかに滅びたいという思いで、雨の中を歩いている
寂しい気持ちが痛いほどに伝わってきます。
「魚鱗のような雨」の中、おそらく傘もささずに濡れながら、きっと
泣きながら歩いているのでしょう。
しかし、上の句の「無精卵抱いてしずかに滅びたい」という言葉には
はっきりとした意志があり、寂しい中にも強さが見えます。
悲しい・寂しいという気持ちに溺れていないところが素敵だと思いました。
★煮魚を骨だけ残し平らげる箸の捌きに見惚れる淫ら (落合朱美)
( http://www4.ocn.ne.jp/~siesta07/ )
ほ:魚をキレイに食べる人の箸の動きは素敵だと思います。
育ちもよく、きっと何をするにも丁寧なのだろうなと思えます。
「見惚れる淫ら」は、表現がストレート過ぎる気もしますが、
ちょっと面白いなと思ったので、とりあげさせて頂きました。
★あいまいな笑みをうかべてどちらにもなれないままの半魚人たち (みあ)
ほ:「あいまいな笑みをうかべてどちらにもなれないまま」というのが、
なんだか日本人ぽくて、切ないなぁと思いました。
どっちつかずの曖昧な態度しかとれない人がたくさんいますね。
自分もそうかもしれません。
「人魚」ではなく、「半漁人たち」としているところが好きです。
★瞼を閉じる事もなく世界が終わるのを凝視する魚の目 (渡部律)
( http://blog.goo.ne.jp/ura_kuroneko/ )
ほ:魚を捌くとき、わたしは「魚の目」を怖いと思います。
血が出るとか、内蔵がどうとかではなく、目を見開いたままなのが怖い。
何かを思っているように見えるからです。
「世界が終わる」ときも、魚たちは目を見開き続けるのでしょう。
初句から第二句へ、第三句から第四句へ、第四句から結句へ、
リズムの跨りがあるのですが、一首全体で三十一音になっています。
五七五七七のリズムに合わせて読もうとすると、途切れ途切れに感じます。
しかし、詠っている内容が「世界が終わるのを凝視する魚の目」だけに、
この妙なリズムが、意識が切れ切れになってゆく魚の断末魔に思えて
とても面白い表現だなと思います。
ただ、短歌として意識せずに読んでしまうと、「魚の目」を説明するための
散文にも見えてしまうという点が、ちょっとだけ残念でした。
★魚水から魚爛へのとき いもうとともう呼べはしないひととおとうと (鈴木英子)
ほ:「魚水」は、親密な間柄のこと。
「魚爛」は、魚が爛(ただ)れて腐るように物事の潰敗(かいはい)するさま。
「いもうとともう呼べはしないひと」は、弟さんのお嫁さんだった人でしょう。
人のつながりというのは全く不思議なもので、ある人と結婚することによって
それまで他人だった人とも、親子になったり兄弟姉妹になったりするわけですが、
その縁が切れてしまうと、親子、兄弟姉妹の関係も切れてしまうのでしょうか。
まったく不思議なことですよね。
「魚」というお題から、よくこういうテーマをお詠みになったものだと、
それがまたすごいなと思いました。
★骨のない魚が愚痴る今日もまたつまらぬ餌がぶらさがってる (やまね)
ほ:「つまらぬ餌」に愚痴っている魚の方も「骨のない魚」だという。
なんとも皮肉で、面白いお歌ではありませんか。
「骨のない魚」の具体も、「つまらぬ餌」の具体も、わからないのですが、
どうも私はこういうお歌が好きなのです。
できれば、何についての風刺なのか、作者の方に伺ってみたいと思いました。
★太刀魚か立ち魚なのか争うを寿司屋は鼻で笑って握る (のぶれば)
ほ:このお歌も面白いです。
「太刀魚」なのか「立ち魚」なのか、お寿司屋さんのカウンターで
お客さんたちが議論を始める。それをお寿司屋さんのおやじさんが
「ふん」と鼻で笑いながら、寿司を握っている。
「お客さん、んなこたぁ~どうでもよござんしょ。
タチウオを漢字でどう書こうが、そんなこたぁ問題じゃありやせん。
わしの握る旨い寿司を、どうぞ召し上がっておくんなさいよ。」
そう思っているのでしょうか。
「まったく、物事の本質も見極められねぇくせに、表面の字面だけに
こだわるやつが多すぎて、やってられねぇよぉ。」
と、呆れているのでしょうか。
「寿司屋は鼻で笑って握る」という表現が、いかにも威張っている
寿司屋さんっぽくて、面白いなと思いました。
(いやいや、全部のお寿司屋さんが威張っているわけでありません。)
★黒字の「ほ:~」の部分が私の感想です。
こちらでご紹介する短歌は、私がとても「良い」と思ってピックアップし、
そういう気持ちを前提に感想を述べております。
私の言葉が足りなかったり、私の表現がへたくそであったりするために、
作者の方が不愉快に思われることも、もしかしたら、あるかもしれません。
しかし、こちらでご紹介した作品に対して、批判の気持ちは決してないということを、
どうぞご理解くださいますよう、お願い申し上げます。
もし、何かお気づきの点、ご意見などがございましたら、
どうぞご遠慮なくコメント欄へお書き下さいませ。
他のお題からのピックアップ「いいわ~。この歌♪」は、
カテゴリー「★題詠マラソン感想(2005)」からご覧下さい。
私ほにゃらかの歌は、カテゴリー「★題詠マラソンのお題で短歌」か、
カテゴリー「★ほにゃらかの短歌」などをご覧下さい。