息子が、わりと真剣な顔で、悩みをうちあける。
「ぼく、小さい小さいって、みんなから馬鹿にされて、辛いんだよ。」
「そんなこと言われたら、小さいのも色々と便利なんだぞ、って言ってやりな。」
「うん。ぼくも、いつもそう言っている。でも、辛いんだよぉ。」
と言って、泣き出した。
そこで、ふと、私の昔話などをしてみた。
「お母さんね、高校一年の時に、男の子から告白されたことあるんだよ。
その男の子ね、お母さんと同じくらい背が低かったの。
顔はなかなか可愛かったんだけど、この身長はいまいちだなと思って、
断ったのよ。
ところがね、その男の子、高校を卒業する頃には、すご~く背が高くなって
格好良くなっちゃったのよぉ。惜しいことしたなぁと思ったよ。
だからね、あんたも高校生くらいになったら、きっと大きくなるよ。」
どんな話やねん…(^^;)。すると、息子、
「高校生になるまでなんて待てないよぉ」
あらら。この話は意味無かったか。
ところが、横で聞いていた娘が、話にのってきた。
「へぇ~、お母さんも告白されたことあるんだ。」
ち、どういう意味だろね~。すると娘が、嬉しそうに言う。
「あのね、私も告白されたんだよ。」
「ふ~ん。すごいねぇ。」
この娘、ありがたいことに私より旦那に似ているので、わりと可愛い。(親ばか)
すると、息子も急に元気になって、
「僕だって、このまえ告白されたんだよ。」
「へぇ~、すごいじゃん。」
「告白されたの二人目だよ。」
「あらら、小さくてもモテるならいいじゃないの。」(親ばか)
と、ここで娘のするどい突っ込み、
「ねえ、お母さんは、何人ぐらいから告白されたことがあるの?」
げ……。そんなこと聞かないでおくれよ。
ま、ここで私が嘘を言っても、誰が真実をばらすわけでもあるまい。
実際の三倍くらいの数字を言っておきましたよ。ははは…(^^;)
子供達よ、人の話に「嘘」はつきものだ。
真実を見抜く力を身につけるのだよ。ははは…(;;)
はい、現代語訳です。(この段は、とっても長いです。)
世の中に語り伝えることは、事実は面白くないからか、多くは皆、嘘の話である。
実際にあったこと以上に、人は物事を大きく言ってしまうのに、
まして、年月が過ぎて、場所も遠く隔たってしまうと、
言いたいように語ったり、書き留めてしまったりするので、
そのうちそれが事実のようになってしまう。
(学問や芸能などの)様々な方面の上手な人がすぐれていることなどを、
教養のない人で、その道を知らない人は、むやみに神様のように言うけれども、
芸道に通じている人は、けっして信ずる気も起こさない。
風聞(評判)と実際に見るときとは、何事も違うものだ。
(話す)そばから嘘がばれるのもおかまいなしに、
口から出任せにしゃべり散らすのは、すぐに根拠のないことだとわかる。
また、自分も本当らしくないとは思いながら、
人の言ったとおりに、鼻のあたりをひくひくさせながら言うのは、
その人の嘘ではない。
いかにも真実らしく(話の)ところどころをちょっといぶかしがり、
よく知らないふりをして、しかしながら、物事の端々(=つじつま)を合わせて
話す嘘は、(つい騙されるので)恐ろしいことである。
自分自身にとって名誉なように言われた嘘は、人はそれほど言い争わない。
皆が面白がる嘘は、自分ひとりが「(本当は)そうではなかったのに」
と言ったとしても、それは仕方がないので、
聞いて居た時に、証人にさえされて、いよいよ事実のようになってしまう。
いずれにしても、嘘の多い世の中である。(そのことを)
あたりまえの、普通にある、珍しくないことであると心得ていれば、
万事間違えるはずがない。
地位や格式の低い人の話すことは、聞いて驚くことばかりある。
立派な人は、不思議な(疑わしい)ことを語らない。
そうは言っても、仏や神の霊験、聖者の伝記は、
一概に信じてはならぬというものでもない。
これは、俗世間の嘘をまともに信じているのもばかばかしく、
「よもや、そうではあるまい。」などと言うのも仕方がないことなので、
たいがいは、ほんとうらしく受け答えして、一途に信じたりせず、
また、疑ったり馬鹿にしたりするべきでもない。
かつあらはるる…「かつ」=二つの事柄が連続して行われる。次々に。
浮く =根拠がない。いい加減である。
聞こゆ=理解される。判明する。
虚言 =「うそ」というよりも、根拠のない話
「徒然草」 第七十三段 本文
世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。
あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月過ぎ、境も隔りぬれば、言ひたきままに語りなして、筆にも書き止めぬれば、やがて定まりぬ。道々の物の上手のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そぞろに、神の如くに言へども、道知れる人は、さらに、信も起さず。音に聞くと見る時とは、何事も変るものなり。
かつあらはるるをも顧みず、口に任せて言ひ散らすは、やがて、浮きたることと聞ゆ。また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひしままに、鼻のほどおごめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづま合はせて語る虚言は、恐しき事なり。我がため面目あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず。皆人の興ずる虚言は、ひとり、「さもなかりしものを」と言はんも詮なくて聞きゐたる程に、証人にさへなされて、いとど定まりぬべし。
とにもかくにも、虚言多き世なり。ただ、常にある、珍らしからぬ事のままに心得たらん、万違ふべからず。下ざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。
かくは言へど、仏神の奇特、権者の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏に信ぜず、また、疑ひ嘲るべからずとなり。
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さてさて、次の第七十四段は、
「人は何の為に生きているのだろう…」と考えさせられる話です。
★この段からお読み下さった方のために。
このカテゴリーでは、吉田兼好の『徒然草』をブログに見立て、
コメントを書くつもりで、一段ずつ感想を書いています。