♪おみそしるパーティー♪

「ほにゃらか」の
古典・短歌・ことば遊び
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感情と理性の均衡 5

2004年08月31日 22時42分57秒 | ★和歌のメッセージ性
前に、『みだれ髪』の作品を、与謝野晶子の作によると私は述べた。
これは、現代では文学史上でも常識と化し、入学試験でもそう答えれば正解であろう。
しかし、その実、『みだれ髪』の初版本では、
その作者名は「与(與)謝野 晶子」とは記されていない。

晶子の処女歌集『みだれ髪』が東京新詩社から出版されたのは
明治三十四年八月。
晶子が、二十三歳にして鉄幹と結婚したのも、
同じく三十四年の五月(あるいは六月ともいう)頃のことである。

明治三十三年四月に機関誌『明星』を創刊した鉄幹は、
関西の「よしあい草」に 
「みをつくし」 (三十二年三月)や
「人を恋ふる歌」(三十三年二月)を発表していた。


  妻をめとらば才たけて
  顔(みめ)うるはしくなさけある
  友をえらばば書をよんで
  六分(りくぶ)の侠気(きょうき)四分の熱

             (与謝野 鉄幹)
                  

という情熱的な鉄幹の作品に、人々は心を奪われたが、
晶子もまた例外ではなかったのであろう。
鉄幹の誘いに応じて新詩社に参加した晶子は、
同じく若き女流歌人山川登美子とも出会い、
鉄幹・晶子・登美子の三人の関係は親密化していったのだろう。

しかし、鉄幹はすでに林滝野という妻と、萃という愛児があった。
その子の入籍問題で妻の実家と意見が意見が衝突し、
やがて妻子離別へと発展していく鉄幹。

親たちで決めた駐七郎との結婚が近づく登美子。

その二人の苦悩は、歌への情熱をさらに高めたであろうが、
晶子もまた苦悩の中にあった。

すでに妻子ある身の鉄幹に憧れ、やがて登美子が一人若狭へと帰って行った後、
二人残された鉄幹と晶子の関係がどうなっていったかは想像に難くない。
そして晶子は、家人の反対を押し切って鉄幹のもとへ嫁ぐのである。

『みだれ髪』は当時の晶子の情熱の結晶である。
それゆえにその作者名には「鳳 晶子」と記され、
歌集に掲載されている歌たちにとっても、
与謝野晶子であってはならなかったことを意味している。

鳳晶子であったからこそ『みだれ髪』を歌う必然が生まれたのであり、
与謝野晶子であっては、その必然はもう存在しないのである。

鉄幹と結婚した後に出版された歌集に、
あえて「鳳 晶子」と記した意図は、そこにあるのだ。

(つづく)

感情と理性の均衡 4 

2004年08月31日 22時16分48秒 | ★和歌のメッセージ性
加藤周一氏が、過去に朝日新聞に掲載した文章をまとめたものに
『言葉と人間』というものがある。

その中で、「『本歌取り』または『方丈記』の事」と題した、
以下のような文章がある。


  けだし激情のたかぶり、痛切な思い、濃密な経験は、
  その表現のために定型を求める。
  内的なものの外在化は、その一部を切り捨てることに
  よってしか成り立たず、切り捨てるための枠組みは
  切り捨てへの抵抗が大きければ大きいほど、
  強固で動かぬものでなければならない。
                (以上 引用部分)


それでは、和歌の定型はどのようにして創られたのであろうか。

日本語を語構成の面から考えると、「自立語+付属語」という
形をとってはじめて、その意味付けが正確になる。

文語の場合に特に言えることだが、自立語は三音から五音で
成り立つことが非常に多く、また付属語は一音から二音であることが
ほとんどである。
これを単純に計算しても、文節が五音から七音で区切られることが
多いということになる。

それゆえに、文語体の文章は、口語体のものよりもリズミカルであり、
口語体の文章は、文語体よりも冗長な感じを受ける。
これは、日本人が、五音・七音の繰り返しの中に生まれるリズムに
最も親しみを覚えるからではないかと思う。

この快いリズムを言葉の芸術に取り入れたことは、
当然だと言っても過言ではない。
また七・五調の、どこかもの悲しい響きは、
恋を歌うのに適していると人に察知させるのに、
さほどの時間を必要としなかったであろう。

歌が文学の域にまで高められた、その始めは、
恋歌だったのではなかろうかと考えるのは、
あまりにも私の独断であろうか。

心の底からふつふつと沸き上がる感情。
何かを歌わずにはいられない衝動。
その爆発寸前までに高められた感情を、
破裂させることなく、感情に溺れることなく、
理性で均衡を保ちながら言葉を駆使して描く芸術。
それが和歌の本来あるべき姿なのではないだろうか。

(つづく)

感情と理性の均衡 3

2004年08月30日 20時04分58秒 | ★和歌のメッセージ性
もし、人間が 感情のない生き物であったならば、
悲しい世の中になったことであろう。
もし、人間が、自分の行き場のない感情をもてあまし、
その発露を求めるようなことをしなかったならば、
言葉というものが生まれることがあったであろうか。
そして、和歌、ひいては文学というものは、どうであったろうか。

写実の歌というものがある。
言葉という伝達手段を持つ人間が、
絵以外の方法で風景を写すことを試みたのは自然の成り行きであろう。
また、現実に起こったできごとを、正確に伝えることも必要であったろう。

しかし、風景は「絵」を描き、音楽は楽器の奏でる音に耳を傾け、
事実は言葉数を尽くして散文で語る方が、より正確であったはずである。

それならば、なぜ歌にたくしたのであろうか。

ひとつの風景の中に身を置き、野を渡る風に頬をなでられ、
草木の薫りに触れたとき、
それは一枚の絵では描き尽くせない感動となって、
人を歌へと駆り立てたのか。
一つの音にも、一つの事実にも、
様々の人間が各々に異なる感想をもつであろう。

人が歌を生み出したのは、生産の豊満を祈る呪術的効果を、
歌あるいは言葉に求めたためであると前に述べた。

しかし、そこから二次的に発生した歌は、
人間の「感動」と深くかかわっていると思う。
言葉で言い尽くせない感情のひだというものを、
定型の韻律というものに助けられる詩的跳躍によってふくらみをもたせることで、
より正確に伝えることが可能だと信じたからではなかろうか。

(つづく)

感情と理性の均衡 2

2004年08月30日 19時46分56秒 | ★和歌のメッセージ性
ここに、もう一つ「髪」というモチーフが使われている歌をあげよう。


  その子二十櫛に流るる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

            与謝野 晶子 (『みだれ髪』)


この歌は、近代短歌を代表するにふさわしいすぐれた歌であると思う。
しかし、情よりも認識が全面にあらわれるこの歌に対しては、
素朴な共感よりもむしろ、「黒髪のおごりの春」という発想の面白さや、
歌おうとすることのとらえかた(認識)の正しさが眼についてしまう。
心で感じる前に、頭でわかってしまうのだ。

もちろん、そういう歌が全て良くないとは言えないと思う。
そしてまた、この与謝野晶子の歌を読んで、
感動する人もいるであろうことも、わっかているつもりである。

しかし、私個人の、あくまでも感想を言わせていただくならば、
前にあげた鈴木英子の一首や、次の歌に感動をおぼえるのである。


  やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

             与謝野 晶子 (『みだれ髪』)


有名な一首である。
自分の、抱かれたいと願う、血の騒ぐような欲情を裏面へ押し隠し、
「君」を表面に出すことで、それを歌わんとした
「女」の知恵とでも言おうか。

欲情とは、人間にとって、ある意味最も醜い一面でもあると思う。
単なる動物から、理性を所有し、それを支配することで
かろうじて人間という別の生き物に成り上がった、
生物学上の「ヒト」は、その欲情を隠すことに、
ひとつの美徳を見いだそうとしてきた。

あからさまに見せつけられるよりも、ちらっとかいま見る時にこそ、
欲情は強くかきたてられる。
それは、人間が「ヒト」として他の動物と別の存在であるための、
ぎりぎりの線として、
「ヒト」が本能的に所有しているものなのであろうか。
隠すこともまた、見られる時の快感を、
より大きなものとするための単なる手段なのかもしれない。

日記のように、人に見せないことを前提にして書く物にも、
あるいは、人に見られてしまうかもしれないという不安がつきまとう。
その不安が、かえって日記をつける楽しさになってはいないだろうか。

まして歌は、人に見せることをある程度の前提として書くのが常である。
この場合、五・七・五・七・七の韻律は、
全てを言い尽くすことを妨げ、
何かを削る(隠す)ことで成り立つものである。

この、人に読まれた時に、全てがわかってしまうとは限らない、
ぎりぎりのところでわからせようとする行為に、
歌人は興奮しているのかもしれないと思う。

「やは肌の」の歌のように、ストレートに表現すれば
下品にもなりかねないテーマを、
技巧的に遠回しに表現することで作品としての価値を高めている。

しかし、そうかと言って、読者側から見て
「全く感じられない」歌ではない。
何を言わんとしているのかが、きちんと伝えられているとともに、
ちらりと見える官能的な世界が、読む側の心をくすぐる。
そしてほろりと哀しくさせるのである。

(つづく)       

感情と理性の均衡 1

2004年08月30日 16時32分45秒 | ★和歌のメッセージ性
心に生じた感情の波は、
その波自身の持つ高さやうねりによって現れ方が異なる。
あるいは、同じ質の波であっても理性の働きかけによって、
その波の形を変貌させられる。

しかし、いずれにせよ人をある行動へと突き動かす力の源は感情であろう。
人の人たるゆえんを、理性を所有し、
感情を制御できるところに求め得るならば、
人が理性を必要とするゆえんは、
人が本来動物であるというところへ返るのではないだろうか。


  母が愛するわが黒髪と襟足を君にゆるせばかなしく二十歳

            鈴木 英子 (『水薫る家族』)


「君」を愛するがゆえに「母」から自立してく女の心の震えが、
一読者たる私の心にも忍び込み、音叉は静かに共鳴し始める。

「母が愛する」というさりげない言葉に、母と娘との関係における
全ての状況とそれに付随する感情の歴史を想起させ、
必要以上の説明をしていない。
そして、一息に君とのかかわりへと視点を絞り込んでいく。

恋を描くことで親を思うのでも、
親を描くことで恋を歌うのでもなく、
母や君とのかかわりを描くことで、
全てを受け止める女を歌っている。

ともすれば、結果として何かひとつに傾いてしまう
危険な可能性を秘めたモチーフであるが、
ここでは各々がみごとに均衡を保ちつつ存在している。
歌う対象を見つめる眼に、甘えが許されていないのだ。

二十歳(はたち)。
法律では両親の同意がなくとも結婚が許される年齢であるが、
そこには法律では割り切れない、人の感情の深みが存在する。
さればせめて秘めやかに。

結婚という紙上の儀式よりも、
「愛」という絆こそ男女の本質的な結びつきであるのかもしれない。
身体を重ねることのみが本当の愛の姿とは言い難いが、
求め合い、許し合うことのやさしさを知るときに、
男の哀れさも、女たる母の喜びや悲しみも
受け止めることができるようになるのであろう。

母の愛に抱かれ、それに返していた「母への愛」が、
君と愛し合うことでそれまでとは姿を変え、
「母をも抱く愛」となり、
君も、そして自分自身をもやさしく包み込んでいく。
哀しい罪悪感を伴いつつ。

少女から女へ。
その過渡期が「黒髪と襟足」に象徴されている。
古代より女の命とされていきた黒髪と、
それによって隠されている襟足をも許すという。
この言葉の奥に、他の何ものでも表せない、
少女らしく控えめな、それでいて官能的な切り岸をみることが出来る。

「母」「愛する」「黒髪」「襟足」「許す」「かなしく」「二十歳」。
これらの言葉自体のもつ美しさが、個々としての光を放つのではなく、
ある一つの方向性によって溶け合い、一首として輝いている。
その春の波頭のような煌めきが、
穏やかに、切なく胸ににじんでいくようである。

理性よりも、感情や感覚。
あるいはそれが歌の本質かもしれない。
しかし、理性によって包まれた、ぎりぎりの感情は、
それ以上に人の心を動かすパワーを持つであろう。

この歌は、その感情と理性のバランスが見事であるがゆえに、
しとやかに人を哀しくさせるのかもしれない。

(つづく)

前書き 2

2004年08月30日 15時51分39秒 | ★和歌のメッセージ性
私は、歌の中では恋歌が一番好きである。
読むこともそうであり、私自身も恋歌を数多く詠んできた。
それは、恋歌が最も人間臭く、
最も和歌の本質に近いものであると考えるからである。

「国生み」にさえも、すでに恋歌(相聞歌)の原型が見られる点で、
和歌における恋歌の占める位置は、注目すべき問題であると思う。

恋歌は、生産(労働)の歌とともに、
言霊信仰の一つの形として発生したとも言えるだろう。

人間が農耕生活(生産生活)を始める以前から、
「恋愛感情」を有していたと仮定すれば、
愛する人に心を伝え、愛する人の心をとらえるために呪文としての言葉が、
生産の歌の発生以前に存在していたと見ることも可能になる。
人間の魂に呼びかける歌のはじまりである。

唱和するためのリズムの必然は、生産の歌に、より大きく存在するため、
和歌そのものの発生論としては労働の歌が先であったと見る方が適当であり、
そのために、恋歌はそこから二次的に発生したものと考える見解を前に書いた。

しかし、言霊信仰から生まれた言葉の持つ呪術的効果は、
人間の最も本質的な性愛に関しても期待されたと見るべきであり、
その意味では、恋いの呪文もほぼ同時に和歌へと成長したのではあるまいか。

生産の豊満を祈る民俗行事に、
男女の遘合の様子を演じることや、
それを象った物を祭るという習わしがあったことも、
それを知る手がかりとなるように思われる。

こうした歌の本質と恋歌の発生に対する私見は、
さらに多くの歌を読むにつれてふくらみ、
ついにはそれを、なんとか突き止めずにはいられないところへ達した。

そこで、ブログに何かを書くことが出来るこの機会に、
恋歌の発生の頃まで立ち返りつつ、
古代から現代に至るまでの和歌の歴史の中で、
各々の時代背景を考えながら、
歌というものについての私の考えを書いてみることにした。

それゆえ、この駄文は、あくまでも私の歌に対する考え方の移り変わりを
編年体で書いていくものであり、文学を研究するとかなんとかいうよりも、
ひとりの暇人おばさんが、
個人的趣味で「歌」というものをとらえているということを
あえて明示しておくものである。

(つづく)

前書き 1

2004年08月30日 15時30分43秒 | ★和歌のメッセージ性
それが恋慕の情であれ、社会に対する思想であれ、
あるいは自然の描写であろうとも、
それを歌に託して表出する場合、
歌わずにはいられない感情がそこに存在するはずである。

人の心に生じた「表現せずにはいられない思い」を
他に伝達する手段として言葉が作られ、
その言葉が神をも動かし、国さえも生み出す力をもつという
「言霊信仰」が生まれた。

「言霊信仰」は、さらに感染呪術的な傾向を持ち、
男女の遘合の芸能とともに生産の豊満を祈る民俗行事、
民俗芸能へと発展していった。
このことは、各地に残されている祭などにも、
その足跡を見ることができる。

こうした場合、呪術的な力を持つ言葉は、
多くの人が唱和することにより、
さらにその力を強め得るだろうと考えられるのは
自然のことである。
そして、唱和するために、ある種のリズムが求められた。
リズムのない日本語にリズムを与えるということは、
その語構成上の句切りを見つけ、
それに「調べ」を重ねていくことにあった。

これが和歌とその韻律の始まりであるとすれば、
恋歌というものには、そこから二次的に発生したと考えるべきであろう。

それでは、恋歌はどのようにして生まれたのであろうか。
そしてまた、「歌の本質」とは、いったいどういうものであろうか。

この駄文は、あくまでも私自身の近年の疑問を解決しようとして
書くものである。

近年以降の短歌作品に数多くふれる機会に恵まれ、
また自分自身も短歌を創っていた私が、
何よりも感じたことは、
短歌には「叙情」というものが不可欠の要素であるということだ。

しかし、叙情が存在しているにも拘わらず、
直感的に「つまらない歌」と感じさせてしまう歌があるのは何故だろう。
その「つまらなさ」の原因はどこにあるのだろう。

こう考えているときに、私は前衛短歌と呼ばれる作品群に出会った。
それは確かに「情」の存在しないものでもなく、
方法論の新鮮さも加わって私に興味を抱かせたが、
やはり何かが欠けているような不満を覚えた。

そしてその時、初めて気づいたのである。
歌わずにはいられない何かを表現するんだという情熱よりも、
それを「どう表現するか」という方法論に対する情熱に大きな役割を占める歌が、
私をつまらなくさせているのだということに。

頭でっかちのタコ坊主。
例えばそれが歌ではなく、人間だったとしたら、
そんな奴には魅力を感じられない。
もっと心を震えさせて欲しい。

泣けるほど愛しくさせる奴は、もっと哀しくて、優しくて、弱くて……。
そういう人間的な面を持ちながら、「一緒に泣いてくれ」とは言わず、
強くあろうとし、理性的であろうとし、時として憎らしくさえあろうとする。

わたしの求めている歌は、私を泣かせる力を持ち、
心を震えさせるものだったから、
感情よりも理性ばかりを重んじ、技巧に傾きすぎた歌では
つまらないと感じさせられてしまったのである。

歌というものは、歌わずにはいられない感情を、
その感情に流されたり溺れたりすることのないように
理性で抑えながら詠むべきであると思う。
その「理性と感情のバランス」が保たれてこそ、
文学作品としての価値があるのではないだろうか。

歌は、あくまでも人に読ませることや聞かせることを前提としたものであるから、
作者個人の世界に埋没する「独り善がり」のものであってはならない。

しかし逆に、作者個人の歌う必然というもの、
つまり歌わずにはいられない衝動がなければ、歌は成り立たないのではないだろうか。
そのバランスの中にこそ「歌の本質」があると考える。

(つづく)

秋刀魚は旨いが、目にしみる

2004年08月27日 18時38分11秒 | ★どこ行く・なに食べる
今年の秋刀魚は早いのかな?
刺身で食べられる、新鮮な生秋刀魚が、もう売っている。

秋刀魚の刺身は、健康にとっても良いらしい。
焼くよりも良いらしい。
でも、塩焼きで食べちゃったもんね~♪

脂がのっているからかな?
焼いた後の空気が目にしみる~!
目が痛いよぉ(>_<>

ごちそう様でした。
美味しかったです(*^_^*)

けっきょく

2004年08月20日 21時02分22秒 | ★パソコン練習・作る
『もにょにょ』☆(写真うしろ左)
もう1匹、買いました。
娘も、どうしても欲しかったらしいです。

私の作った『おにゃも』(写真中央)は、問題の解決にはならず、
むしろ新たな問題を発生させただけでした。

1週間近い争いの末、『おにゃも』は母の物とし、
もう1匹『もにょにょ』を買うという結論が出ました。

「売り切れてないかなぁ」って心配しながらお店に行ったら、残り1匹。
良かった、良かった、セーフ。

レジに持って行くと、
「1575円です。」……って?
思わず聞いてしまった。
「この前は1029円でしたよ?」
「あ~、こっちの方が、少し大きいんですよ。」
なるほど納得。

ちーっ!あの時に2つ買えば良かったのにぃ(>_<)

いろはにほへと

2004年08月20日 19時42分38秒 | ★古典こてん・ことば遊び
色は匂へど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見じ酔ひもせず

いろは歌だよ。

平仮名で書くと、こうなるよ。

いろはにほへとちりぬるを
わかよたれそつねならむ
うゐのおくやまけふこえて
あさきゆめみしゑひもせす(ん)

いろは歌をへんなところで句切って読む人がいるけど、
意味のあるところで句切ろうね~。

いろは坂をドライブする時は、思い出そう~!