前に、『みだれ髪』の作品を、与謝野晶子の作によると私は述べた。
これは、現代では文学史上でも常識と化し、入学試験でもそう答えれば正解であろう。
しかし、その実、『みだれ髪』の初版本では、
その作者名は「与(與)謝野 晶子」とは記されていない。
晶子の処女歌集『みだれ髪』が東京新詩社から出版されたのは
明治三十四年八月。
晶子が、二十三歳にして鉄幹と結婚したのも、
同じく三十四年の五月(あるいは六月ともいう)頃のことである。
明治三十三年四月に機関誌『明星』を創刊した鉄幹は、
関西の「よしあい草」に
「みをつくし」 (三十二年三月)や
「人を恋ふる歌」(三十三年二月)を発表していた。
妻をめとらば才たけて
顔(みめ)うるはしくなさけある
友をえらばば書をよんで
六分(りくぶ)の侠気(きょうき)四分の熱
(与謝野 鉄幹)
という情熱的な鉄幹の作品に、人々は心を奪われたが、
晶子もまた例外ではなかったのであろう。
鉄幹の誘いに応じて新詩社に参加した晶子は、
同じく若き女流歌人山川登美子とも出会い、
鉄幹・晶子・登美子の三人の関係は親密化していったのだろう。
しかし、鉄幹はすでに林滝野という妻と、萃という愛児があった。
その子の入籍問題で妻の実家と意見が意見が衝突し、
やがて妻子離別へと発展していく鉄幹。
親たちで決めた駐七郎との結婚が近づく登美子。
その二人の苦悩は、歌への情熱をさらに高めたであろうが、
晶子もまた苦悩の中にあった。
すでに妻子ある身の鉄幹に憧れ、やがて登美子が一人若狭へと帰って行った後、
二人残された鉄幹と晶子の関係がどうなっていったかは想像に難くない。
そして晶子は、家人の反対を押し切って鉄幹のもとへ嫁ぐのである。
『みだれ髪』は当時の晶子の情熱の結晶である。
それゆえにその作者名には「鳳 晶子」と記され、
歌集に掲載されている歌たちにとっても、
与謝野晶子であってはならなかったことを意味している。
鳳晶子であったからこそ『みだれ髪』を歌う必然が生まれたのであり、
与謝野晶子であっては、その必然はもう存在しないのである。
鉄幹と結婚した後に出版された歌集に、
あえて「鳳 晶子」と記した意図は、そこにあるのだ。
(つづく)
これは、現代では文学史上でも常識と化し、入学試験でもそう答えれば正解であろう。
しかし、その実、『みだれ髪』の初版本では、
その作者名は「与(與)謝野 晶子」とは記されていない。
晶子の処女歌集『みだれ髪』が東京新詩社から出版されたのは
明治三十四年八月。
晶子が、二十三歳にして鉄幹と結婚したのも、
同じく三十四年の五月(あるいは六月ともいう)頃のことである。
明治三十三年四月に機関誌『明星』を創刊した鉄幹は、
関西の「よしあい草」に
「みをつくし」 (三十二年三月)や
「人を恋ふる歌」(三十三年二月)を発表していた。
妻をめとらば才たけて
顔(みめ)うるはしくなさけある
友をえらばば書をよんで
六分(りくぶ)の侠気(きょうき)四分の熱
(与謝野 鉄幹)
という情熱的な鉄幹の作品に、人々は心を奪われたが、
晶子もまた例外ではなかったのであろう。
鉄幹の誘いに応じて新詩社に参加した晶子は、
同じく若き女流歌人山川登美子とも出会い、
鉄幹・晶子・登美子の三人の関係は親密化していったのだろう。
しかし、鉄幹はすでに林滝野という妻と、萃という愛児があった。
その子の入籍問題で妻の実家と意見が意見が衝突し、
やがて妻子離別へと発展していく鉄幹。
親たちで決めた駐七郎との結婚が近づく登美子。
その二人の苦悩は、歌への情熱をさらに高めたであろうが、
晶子もまた苦悩の中にあった。
すでに妻子ある身の鉄幹に憧れ、やがて登美子が一人若狭へと帰って行った後、
二人残された鉄幹と晶子の関係がどうなっていったかは想像に難くない。
そして晶子は、家人の反対を押し切って鉄幹のもとへ嫁ぐのである。
『みだれ髪』は当時の晶子の情熱の結晶である。
それゆえにその作者名には「鳳 晶子」と記され、
歌集に掲載されている歌たちにとっても、
与謝野晶子であってはならなかったことを意味している。
鳳晶子であったからこそ『みだれ髪』を歌う必然が生まれたのであり、
与謝野晶子であっては、その必然はもう存在しないのである。
鉄幹と結婚した後に出版された歌集に、
あえて「鳳 晶子」と記した意図は、そこにあるのだ。
(つづく)